二十 けもの


 ひとしきり泣いたアリスとシャロ。

 いつしか泣き声も止み、景色には静寂が生まれた。


 無言の両者はいつまでそうしていたのか――床の上で抱き合ったままの二人は段々と正常を取り戻す。


 アリスは冷静な頭で現状を理解する。

 兎角として己が肌着一枚で、更にはシャロに覆い被さっていることは大問題だった。


 肌を伝うシャロの体温を感じてアリスは顔が赤熱する。

 羞恥が遅れてやってきた。

 感情を曝け出した結果とはいえ、見ようによっては危うい状況だった。


 そんなアリスはシャロの胸の中から顔を覗かせると、窺うような瞳でシャロの顔を見る。


「……シャロ?」

「……何でしょうか」

「その……大丈夫?」

「……何がでしょうか」

「色々と……顔、真っ赤だよ……?」

「……聞かないでください」


 彼女もアリスと同じく、いやそれ以上に顔を赤く染め、更には潤んだ瞳をして後悔のような感情を抱いていた。


(……言ってしまった。やってしまった……)


 隠し通してきた感情、そして本音をいよいよ本人に向けて紡いでしまったこと。

 更には本人の前で情けなくも大泣きをしてしまったこと。


 まるで従者らしからぬと、そう思うシャロ。

 今の今迄上手くやってきた自負心もあったが、そんな矜持は完全に圧し折れた。


(けど……)


 それでも心の中は穏やかだった。

 まるで溢れた涙がそのままに彼女の中に蓄積された濁りやらを流したかのようにも思えた。


 当然羞恥はあるし、後悔もある。

 だがそれ以上に充足感のような、或いは達成感のような、はたまた爽快感のようなものまであった。

 

 未だにシャロはアリスを抱きしめていた。

 既に正常を取り戻しているのにも拘らず。

 それは彼女の意思でやっていることだった。


 それに対してアリスは抵抗をしないし、寧ろ受け入れている。

 落ち着くのだ。

 お互いはお互いの熱を感じるとそれだけで満たされた。


 まるで心の傷を癒すように、或いは凍てついた心臓を温めるように、お互いの柵はこの日この時に完全に消え去った。


 ただ、今一度自身の気持ちや感情、そして心を受け入れるまでには時間がかかるかもしれない。


「……ねぇ、シャロ」

「……なんでしょうか」

「出会った時から……好きでいてくれたの?」


 その質問にシャロは心臓が跳ね、再度熱が胸中を掻き乱す。


 若干の焦燥、を通り越した混乱に見舞われたシャロは、跳ね起きるとアリスを真っ直ぐに見据え、肩を引っ掴みしどろもどろとした。


「いえ、その、あれは違うのです。そう言う気持ちに似た何かを抱いていた、というだけで、そんな、まさか、いや、でも――」

「ふふっ……何でそんなに焦るの?」

「っ……何故笑うのですか」

「だって、あんまりにもシャロが必死だから」


 それまで空気には若干の緊張があったが、アリスが笑みを零すとその空気は和らいだ。

 シャロは慌てふためいて言葉を探すが、しかしアリスの態度に少なからず腹を立てる。


 ふざけているつもりはないし、彼女は長らく封じていた気持ちを曝け出した。

 その踏み出した一歩は本人にとってはとても大きなものだった。


「ねぇ、怒らないでシャロ。お願い、本当のことを聞かせて?」

「……嫌です」

「もうっ……ねぇってばっ」

「また笑いますので」

「笑わないってばっ」

「……はぁ」

「あ、嘆息! それいけないんだよ、人前でしちゃダメって前にシャロが言ってたんだよ!」

「……そうでしたか?」

「そうだよっ」


 アリスは聞きたかった。

 今一度、シャロが己をどう思っているのかを。

 その気持ちをいつから抱いてくれたのかを。


「……本当です。あなた様と出会った時から……ずっと……」

「ずっと……?」

「……恋い焦がれていました」


 アリスの頭の中に雷電が駆けた。

 それと共に視界には星が浮かび、身体は妙な浮遊感に包まれる。


 不思議と自重は後方へと移り、危うく倒れる所だったが――


「お嬢様っ」

「あっ……ご、ごめん……」


 シャロはそんなアリスを抱きしめ、なんとか倒れかけたところを救う。


 二人は床の上で向かい合って抱きしめ合う。

 行儀の云々はこの際別として、アリスは改めて座したままにシャロを見つめた。


「大丈夫ですか?」

「うん……少し驚いちゃった」

「驚く、で御座いますか?」

「うん。だって、倒れそうにもなるよ。こんなに幸せな気持ち、初めてだから……」

「っ――……」


 そう言って、アリスは赤く染まった顔で照れたように笑う。


 それを見るシャロは胸が高鳴り、不意に彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、理性が勝り、そんな衝動を封じ込めることに成功する。


「そっかぁ……そんなに前からだったんだねぇ。ふふっ。嬉しいね。幸せだなぁ……」


 夢心地のような表情のアリスは、そのままにシャロの胸の中へと顔を埋める。


 やってきた少女の柔さ、そして重みをシャロは愛しく思ったが、けれども未だに抵抗があるのか抱きしめようとする腕は葛藤を繰り広げ、アリスの背ではシャロの腕が交差を繰り返した。


「……好き?」

「……はい」

「今も?」

「っ……はい」

「そっか……そっかぁっ」


 アリスは更にシャロに強くしがみ付く。


「後悔、してる?」

「……正直、少しばかり」

「だよね。そう言う性格だもんね」

「……わたくしは、どうあっても従者で御座いますれば。この気持ちも、心も、打ち明けることはないと思っていました」

「でも言ってくれたね」

「そうさせたのはお嬢様です」

「恨んでる?」

「いいえ。それは有り得ません」

「でも後悔してるんでしょ?」

「……だって」

「だって?」


 アリスは視線だけをシャロに向ける。

 そうするとシャロは恥ずかしそうにそっぽを向き――


「歯止めが……きかなくなったら、壊れてしまいます……」


 そんな台詞を口にし、アリスはその表情を見て言葉を聞くと、最早我慢ができなかった。


「シャロっ――」

「お嬢様っ――」


 触れ合うのは唇と唇だった。

 新雪の雪解けのように、それは柔らかく、清らかな口付けだった。


 伝う熱と鼓動が互いの命を意識させ、更には脈拍こそが互いの気持ちを安易に伝えた。

 アリスはそのままにシャロの首へとしがみつき、幾度も唇を重ねる。


「ずるいよ、シャロ……そんなのずるい……!」

「お嬢様っ……」

「壊すのも、壊れるのも、いつもいつもシャロじゃない……!」

「何を、そんなの……お嬢様こそ、私の気持ちも知らずに、いつもいつも……」

「分からなかったもん……言ってくれなかったくせに、シャロのバカっ……」


 そう言い合う二人だが、刹那の空白すらも埋めるように花弁を重ね合う。

 蕩けた瞳はただただ互いのみを映し、この世界には二人だけしか存在しなかった。


 シャロはアリスの細い体躯を抱き寄せた。

 それに一瞬驚いたアリスだが、けれども己も負けじとシャロに強くしがみつく。


(申し訳ありません、マスター。わたしは……ダメなメイドです)


 欠片ほど残っていた正常は己の雇い主であるティレル卿に謝罪を述べる。

 果たして本人に届くか否かと言うのはまた他所に、シャロはいよいよその手をアリスの衣服へと伸ばした。


「床でいいんですかっ……」

「いいよっ……」

「申し訳ありません、お嬢様。はしたない女でっ……」

「ううん、そうさせたのはわたしだから……それに、嬉しいから。だから、ねぇ、好きにして、シャロっ……」

「っ――」

「ずっとずっと我慢させて、耐えさせてごめんね。ここには誰もいないから、何の邪魔もないから、だから――」


 その先の台詞をシャロは待てなかった。

 彼女は野獣のように瞳を光らせると、そのままにアリスを喰らおうと――


「ただいまぁー。今帰ったよ、シャロー」

「アリスお嬢様ぁー? お腹は空いていませんかぁー?」

「「っ!」」


――したその時。帰宅をしたのはシャロの父と母だった。


 アリスとシャロはそれを聞くと即座に冷静になり、シャロは急いでアリスを抱えると二階の自室へと駆け上がる。


「ん? シャロかい? 何してるんだい?」

「なっ、なんでもないっ。ないからっ」


 父は珍しく足音を響かせて階段を登るシャロに大きな声で問うが、シャロは適当な返事をし、自室の扉を開けるとアリスと共になだれ込む。


「はぁ、はぁっ……」

「あ、危なかったぁー……」


 息も荒く、シャロは扉の前に座り込むと腕の中にいるアリスの言葉を聞いて頷きだけを返した。

 そうして二人は動悸を鎮めるのだが――


「……ふふっ」

「……? どうしたの、シャロ?」

「いえ、だって……」

「んん?」

「おかしいな、と思いまして」

「おかしい?」

「はい……おかしいです」

「……ふふっ。そうだね……おかしいねぇ。あははっ」


 笑いがこみあげてくると、二人は暫くそうして笑いあった。


 アリスは久しくそれを聞いた。シャロの笑いを。

 それは何も取り繕うことのない自然なもので、アリスはそれを聞けただけで満足だった。


「でも……応えるとは言ってませんからね、お嬢様」

「ふふん、いいもーん。その気にさせるだけだもん! それに……覚悟も出来ました!」

「……? 覚悟?」

「ふっふっふっ……まぁそれはいいのっ。それより、そろそろ下にいかないと怪しまれるかもだよ?」

「そうですね。それではお召し物をご用意します」

「……続き、いつしよっか?」

「っ――げほげほっ! なっ、何をいきなりっ……」

「あははっ。もう、シャロってば大袈裟だなぁ」

「……お嬢様。今夜は野菜、多めに出しますね」

「えぇっ!? あぁ、そんな、慈悲もないよそんなの! ごめんってば、シャロー!」


 アリス嬢と寡言なシャロには秘密がある。

 それは誰にも言うことの出来ない、秘められた愛だった。

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