十九 幸福


 その話を告げられた時、シャロは思い知った。


 己は夢を見ていたのだと。

 そして現実から目を反らしていたのだと。


『嫁ぐ、で御座いますか』

『ああ』

『お嬢様が』

『ああ、そうだよ、シャロ』


 返事を寄越すのはティレル侯爵。

 この日、シャロは彼に呼び出されるとアリスの婚姻の話を口にした。


(嫁ぐ。誰かのものに、なる)


 それは当然のことだ。

 女に生まれたらならばいつかは誰かの下へといくのが常だ。

 時代的なこともあるが一人娘と言えど他所の家庭に入るのが当然だ。


 だがそれをシャロは信じられなかった。

 受け入れることも出来なかった。

 しかし内心では分っていた。

 いつかはそんな時がくると。


(恋をして、愛を抱く……当然だ……)


 決してその許婚の話題に絶望をした訳ではない。

 それは一つの切っ掛けであり、シャロは今更に思い出す。


 己が恋をしている相手は少女で、結ばれることは永遠に有り得ないのだ、と。


『どうしたんだい、シャロ?』

『っ……いえ』

『顔色が悪いようだが……』


 シャロの顔が見る間に蒼褪めていく。


 シャロは恋をしていた。

 相手は主であるアリス・ティレル嬢。

 出会ったその日から心を奪われ、彼女の為に己は一生を捧げようとまで誓った。


 アリスが好きだった。

 声の一つ、仕草の一つ、他の何もかもの要素の全てが愛しいと思っていた。


 笑顔を向けられると心が締め付けられ、彼女が泣けばシャロも辛い思いだった。

 気付けば関係は五年にも及び、二人の間柄は親友にも等しい関係といえた。


 一方的な片思いでいいと思っていた。

 この思いは死ぬまで心に秘めているはずだったが認識が甘かった。


 現実と対峙すると彼女は途端に無気力に襲われ、脳内は混乱に陥る。

 当たり前のことなのに、けれども感情が爆発しそうだった。


 そんな狂う寸前の彼女をなんとか正常にとどめる言葉がティレル卿の口から紡がれる。


『先の話だけどね、シャロ。できたらば将来も……アリスの傍にいてあげて欲しい』

『えっ……』


 驚きの台詞だ。


 通常、レディースメイドの期間は短い。

 十年も続けばいい方で、歳をとるとその任から降ろされる。


 だが侯爵は己の手元からアリスが旅立った後もアリスの傍にいてくれと頼んだ。


『君はアリスのよき理解者だ。あの子はきっと君を必要とする。だから、もしも嫌でなければアリスのことをお願いしたい』


 その一言でシャロは決意した。


 この恋心は叶わない。

 愛を交わす関係にはなれない。

 けれども愛するアリスの支えになることは出来る。


 一生を賭すことが出来る。


 その瞬間に彼女は仮面を装着した。


『……了解しました、マスター』

『シャロ……?』


 その声には抑揚の一つもない。


 機械的な返事、そして態度にティレル卿は不安気に彼女の名を呼んだ。


 だが彼女は異常ではなかった。

 それは正常を保つ為の手段だった。

 感情を殺し、従者として徹するがあまりに、そしてアリスを愛するがあまりに生じた変化だった。


『このシャロ。命尽きるその時まで……アリスお嬢様に誠心誠意を尽くしましょう』


 以降、彼女の変化にアリスは戸惑い、城では鉄面皮と称されるようになった。


 ◇


 張り手を見舞ったシャロはアリスを見つめる。

 対してアリスは面を伏した。


「ご自身の立場をお忘れで、お嬢様」


 相も変わらずの冷淡な口調。

 それに対する返事はない。

 だが構わずにシャロは言葉を続ける。


「あなた様は名高きティレル家の御息女。華の乙女。そんなあなた様が感情に駆られ、みだりな振る舞いをしてはなりません」


 歩み寄り、シャロは己の着込むカーディガンをアリスへと着せる。


「お嬢様。わたくしはあなた様の従者でしかありません。あなた様の愛に応えることは出来ません。夢は叶わないのです。もう、大人になる時なのです」


 例え彼女を追い詰める結果になったとしても、もうこれ以上逃げる真似は許されないとシャロは理解をした。

 アリスの情緒不安定な様はあまりにも問題で、ならばいっそのこと、この問題を解決してしまえばいいと判断をする。


 それは彼女の心を傷つけることになる。

 だが苦しめ続けるよりもまだマシだと思った。


「大人ってなに」

「大人は大人です」

「適当言わないでよ」


 しかしアリスと言えば接近したシャロをその瞳で見つめ、泰然と言葉を紡ぐ。


「ねぇ、シャロ。わたしが聞きたいのはね、そんな台詞じゃないんだ」

「返事はいたしました。お応えできません、と」

「そう。ならいいよ、それで。じゃあ聞かせてよ」

「何をですか」


 先までの様子とは違った。

 大人になれ、と言う台詞がアリスの逆鱗に触れたか否か。

 兎角として醸す空気は怒りのそれだった。


「わたしのこと。好き、嫌い……どっちなの」


 ああ、とシャロは思った。

 それは、その問いは卑怯だ、と。


「主としてしか見ません。特別な感情はありません」

「ううん。それは答えじゃないよ。ねぇ、覚えてないの。わたしが聞きたいこと。何の為にここまで着いてきたのか覚えてないの、シャロ」


 覚えているか否か――覚えている。

 だからこそ先の言葉を用意した。


 アリスが求めるのは言葉だ。

 彼女はシャロに愛を紡いだ。

 ではシャロは己をどう思っているのか。

 それを訊く為にこうしてハートフィールドまでやってきた。


「答えて」

「できません」

「二者択一だよ。単なる二択じゃない」

「不可能です」

「知らないの、シャロ。この世は是と非しかないってこと」

「意味を理解しかねます」

「そう、卑怯なんだね。まだ逃げるの」


 逃げる――その台詞にシャロの胸が痛む。


「仰る意味が――」

「逃げ続けるの、そうやって。ずっとはぐらかして、突然に休暇届出して、ここまでついてきたけど。まるで諦めさせようと必死になって。ねぇ、いい加減に向き合ってよ」

「……向き合いました。あなた様とわたくしは、確かに――」

「自分から逃げないでよ!」


 叫び散らしたアリスはついに感情を抑えきれずに涙を零してしまった。


「何で……何でそんなに逃げるの、わたしとは向き合えたじゃない! ならちゃんと自分とも向き合ってよ! 自分に嘘ついて、背を向けて……苦しむのはシャロなのに! なんでそんなに自分を殺そうとするの!」

「っ……」


 それに触れられたくなかった。


 だからアリスと極力会話を避け、必要な接触のみで過ごしてきた。


 休暇届もその為だ。

 己の感情を殺し、また以前のように鉄の心を用意し、異常をすべて取り除こうとしていた。


 だがそれが悉く崩された。

 アリスは彼女の心に入り込んでくる。

 殺してきた全てを彼女は愛し、それを大切にしてくれと懇願する。


「自分すら嫌いになるつもりなの……そうやって全部殺して、後には何が残るの! 絶望しかないなら何で私の傍にいるの! 本当は、本当はシャロだって――」

「っ……!」


 その言葉の続きをシャロは聞きたくなかった。

 だから彼女は咄嗟にアリスの口を塞ごうと手を動かす。


 だがアリスは彼女のその手を掴むとそのままにシャロを押し倒し、覆い被さったアリスは大泣きをしながら――


「幸せになりだいっ、ぐぜにっ……!」


――そう、言ってしまった。


 その言葉を寄越されたシャロの目が見開かれる。

 更には心の奥の鉄が融解するような、或いは崩れ壊れていくような音が響く。


 それはずっと隠し、ずっと殺してきた願いで、それは誰もが持つ感情だった。


 シャロはそれを抑えることにより正常を保ち続けてきた。


 知らぬふりを続け、いつしか誤魔化すことに慣れ、それが通常となったのに、それをアリスが粉砕してしまう。


「ぐずっ……うぅっ、ひぐっ……」

「…………」


 アリスは泣く。

 シャロは上から降り注ぐ彼女の涙を受けた。

 その温もりは凍てついた心臓を温めるかのようで、シャロは今、久しく生きている気がした。


 ずっと己を殺し続けるというのは死んでいることと同義で、果たして生きる意味とは何かと問われたらば、それはやはり欲がある訳で、欲の帰結する答えは幸福だった。


 幸福を拒絶し、アリスの為にと自身を偽ってきた。

 だのに、もう、シャロは――そうはなれそうになかった。


「ずっと。ずっと……隠していたのに」


 シャロの瞳が潤み、涙が零れた。


 それを見たアリスは驚きのあまりに泣くのをやめ、彼女をただただ見つめる。


「そうすることが正しさだと信じ。そうしてあなた様を護り。支え。一生を尽くすのが己の役割だと。思っていたのに」


 溢れる涙は止まらない。


 紡がれる独白を聞いたアリスはシャロの苦しみをようやく理解した。


「報われないと知ったからこそ。未来はないと知ったからこそ。傷つき傷つけると知ったからこそに……殺し続けてきたのに」


 それがシャロの痛みと言えた。


 心を抑え誤魔化すことはどうあっても苦痛であり、それはストレスとなり、つまり、この数年間、シャロと言う佳人は延々と苦しみもがき続けていた。


 彼女の涙を見たアリスは再度涙を零すと、そのままにシャロの胸へと飛び込み、大きな声をあげて泣く。


 そんなアリスの頭を撫でつけるのはシャロ。

 アリスの抱え持つレディースメイド。


 普段から寡言で、表情は鉄面皮のそれだ。

 何をするにしても完璧で、彼女こそは正に従者の鑑と呼べたが――


「酷い人、お嬢様。どうしてわたしを解放するの。ずっと誤魔化していたのに。ずっと好きだった。ずっとずっと……出会ったその時から……狂いそうになるほどだったから……殺し続けてきたのに……」


――そんな彼女も、アリスと同じように大きな声で泣き声をあげる。


 アリスはシャロにしがみつき、シャロはアリスを強く抱きしめた。


 シャロの抱擁はとても痛ましく、それはまるで怖がるような、怯えるようなもので、縋る童にも等しい彼女を、アリスは決して離さぬように強く抱きしめ返した。

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