十六 足跡
冬の午後、アッシュダウンの森に華やいだ声が色づく。
少女はヒースに覆われた森を駆け抜ける。
小さな身体を目いっぱいに動かし、頬を赤く染めて元気を体現した。
「お嬢様、お嬢様っ」
そんな少女の背を追うのはシャロだった。
そうなれば追うのは彼女の主であるアリスなのは至極のことで、この日の午後、二人は森へと散歩にきた。
「すごいすごい! ねぇ、シャロ! 家のお庭の森より素敵!」
アッシュダウンの森は松とヒースが立ち並び、他には冬の花や枯草が点在する。
空気は冬の匂いを醸し、それを肺に取り込んだアリスは満悦の笑みを浮かべた。
そんなアリスの様子にシャロは叱るでもなく呆れるでもなく、小さく笑みを浮かべると立ち止まったアリスの下へと向かう。
「広いねぇ。すごいね、ここっ。なんだか絵本の中の景色みたい!」
「地元なので感慨はありませんが……お気に召していただけたとあれば幸いで御座います」
「うん、すっごく好き! あ、ほら見てシャロ、川もある!」
様々な物を発見するとアリスは直ぐに駆けていく。
例えば見知らぬ木や花を見つけるとシャロに名前を問い、或いは触れたことのない物には即座に心を奪われた。
今度のアリスは小川へと近づき、橋を渡ると澄んだ川面を覗き込んだ。
「落ちないように気を付けてくださいね」
「大丈夫だよ、そこまで子供じゃないもんっ」
(歳相応で御座いますよ、お嬢様……)
齢十三となればやはり精神的にもまだ幼い。
如何に侯爵家の息女として高度な素養を持っていようとも、やはり未知に対しては素直になる様子だった。
アリスは川の潺に耳を傾け、そうして流れに心を任せた。
空では冬の鳥が旋律を奏で、午後の森は穏やかさが匂う。
「この水おいしそう……」
「飲んではなりませんよ」
「わ、分かってるよ……言ってみただけっ」
「然様で御座いますか」
透明感のある川を見て、さらに上流へと視線を移せば沢がある。
アリスは暫し景色に浸ると言葉を零した。
こういった大自然に足を踏み入れたことはなかった。
決して彼女が外界に疎い訳ではない。
年に二度は父の休暇に伴いバカンスに出掛けもする。
が、行先は決まって栄えた場所だったり、或いは海を臨む景色だったりで、返ってこういった景色は新鮮味に溢れていた。
「知らないものがたくさんあるなぁ……やっぱり着いてきてよかったね!」
「……わたくしは未だに認めておりませんよ、お嬢様」
「もうっ。いいじゃない、そんなに怒らなくってもっ」
「その態度は鼻もちなりませんよ、お嬢様。悪いことは悪いと自覚し、反省を――」
「してる、してるよっ。故郷に帰ってからのシャロってば、本当に容赦がない……」
果たしてシャロが意識をしているかは謎だったが、事実として帰参してからのシャロは普段よりもアリスに対する態度が厳しい。
しかし、これも転ずれば、それだけアリスを意識していると言うことでもあるので、つまり、シャロはアリスの事が心配で仕方がなかった。
「……そんなに心配?」
「当然です」
「……嬉しいこと言ってくれるけど、それは過保護すぎるよ」
「お嬢様。何度も口にした言葉ですが、外の景色と言うのは――」
「危険がたくさんある、でしょ? もう耳にタコだよっ。それに今は……この村にいる間は平気でしょ?」
「平気なことなど……」
「だってシャロがいるじゃない」
その台詞を聞いたシャロは目を見開いてアリスを見つめた。
「……何を仰いますか。私一人程度で如何なる危機をも排除出来る訳では御座いません」
「でも今までずっと平気だよ?」
「運の問題です。例えば先程駆けている最中、躓いて転んで怪我でもしたら一大事です。今もそうです。冬の川に落ちてしまえば最悪命にかかわる重大な事故になりかねます」
「本当に過保護だなぁ……」
「過保護結構。お嬢様の身を案じ、生活の全てを支えるべくして私は存在しているのです」
「現にそうなってるよ」
その返答はあまりにも早かった。
寧ろシャロの言葉を遮る勢いで、再度シャロはアリスを見つめた。
「シャロ。わたしはあなたに凄く感謝をしているし、シャロのお蔭でわたしの日常はいつだって幸せで楽しいの」
「…………」
「それってね、シャロがいつも頑張ってくれてるからだよ。それをわたしはいつも感じて、理解して、いつも……ありがとうって、そう思ってる」
「っ……そんな、そんなお言葉……」
あまりにも畏れ多い――そう言いたかったシャロだが、胸が苦しくなり言葉が詰まる。顔は赤らみ、視線は他所へと向いた。
そんなシャロへと顔を向けたのはアリスで、アリスはシャロの手を握りしめた。
「……ごめんね。無理やりついてきて。怒るのも当然だって分かってる。でもね、それでもわたしだって……気が気でいられないの」
「……お嬢様」
「別にね、いいんだ。待つのも恍けられるのも。けどね、まるで逃げるように背を向けられるのは、なんか……嫌だったから」
そもそもアリスがこの帰省に乗じた理由はシャロの気持ちを確かめる為――答えを、返事を得る為だった。
結局、今の今迄その話題に両者は触れてこなかったが、しかしアリスが切り出したことによりシャロは向き合うことになる。
シャロの手を握りしめるアリスの手は震えていた。
それは寒さの所為ではなかった。
緊張と恐怖が故だった。
「昔は、昔はって……昔のことばかり最近は思い出してた。シャロは昔のこと、よく思い出す?」
「……どうでしょうか」
「自分のことなのに分からない?」
「いえ。もしかしたら……」
「え? なに?」
「……いいえ」
過去を思い出すのではなく、過去に囚われているのは己自身で、未だにその景色と幻影に惑わされているのではとシャロは思う。
そうして彼女は正常を保つ。
今、こうしてアリスが自身に触れているのは去来する過去が自身の望みのままに形を持ち、現実を侵食して己を混乱させようとしているのではと思う。
そうでもしなければシャロは耐えられない。
初めて出会った時からシャロはアリスのことだけを考え、ある日を境に仮面を装着し、自身の感情を封じ込めた。
だが今になって封じ込めた感情や望みのようなものが溢れ誘惑する。
気持ちを曝け出せとせがむ。
それにシャロは抗い、なんとか今まで凌いできた。
「……冷たいですね」
「え?」
「手……お嬢様の手は、冷たいです」
「……うん。そうだね」
互いの温もり。
手をつなぎ、川辺で佇む二人はそれを今更ながらに感じた。
シャロの手は温かく、アリスの手は冷たかった。
「歳若いお嬢様がこうも血行が悪いとは思いもしませんでした」
「多分、普段からいいものを食べすぎてるんだね」
「野菜を食べてください」
「うっ……あ、あれは、そのぉ……ほら、動物が食べるものだから!」
「わたくしは野菜も好んで食べますよ」
「ぐぬっ……!」
新情報得たり、と同時に間接的にシャロを動物呼ばわりしたことに気付くアリス。
二人のやり取りは普段と似たようなものだったが、けれども確かなのは自然体そのものということで、それはある意味では普段とは違った。
アリスは微笑み、シャロは変わらずの鉄面皮。
だが二人の空気は朗らかで、穏やかで、それでいて温かかった。
「……そろそろ戻りましょう、お嬢様」
「ん……もう?」
「はい。じきに夕暮れです。夕食の用意をせねばなりません」
「ふふっ……野菜たっぷり?」
「ええ。お嬢様の健康管理も……私の役目でありますれば」
そう言ったシャロはアリスへと視線を寄越す。
「っ――……」
アリスはそれを見た。
久しく見ることの出来たシャロの微笑みを。
それは一瞬にも等しく、本当に分かり難い程度だったが、それでも確かにシャロは微笑んでいた。
「さぁ……行きましょう」
「……うんっ」
アリスの手を引いてシャロは歩き出す。
そんな彼女の腕にしがみ付くアリスは目元に小さく涙を浮かべ、赤くなった顔を隠した。
アリスの重さを腕に感じつつ、そして胸の中が軽くなった気がしたシャロは、レディをエスコートしながらに帰りの道を歩く。
(……二つの足跡、か)
シャロは振り返って軌跡を見る。
地面に描かれた二つの足音は、まるで歩幅の間隔も大きさも異なっていたが、それでも確かに距離は近かった。
同じように歩くというのはその実、難しいことだ。
しかしそれが自然に出来るくらいには、二人の距離は縮まる、もとい、戻ったように思えた。
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