十二 好きと嫌い


 ハートフィールド村は田園地帯だ。

 田舎ならではの景色――緑の広がる景色にアリスは度々声を上げ、瞳を煌めかせて忙しなく感動をしている。


 そんな彼女の隣ではシャロが未だに眉を顰め、時折唸りをみせた。


「ねぇねぇシャロ、凄いねハートフィールドって! 草原と田んぼばっかりだよ!」

「……そういう土地で御座います、お嬢様」


 興奮するアリスはその感動を彼女に伝えようとする。

 しかし元より彼女の出身はこの田舎町で、帰省の目的でこうして馬車に揺られていた。


 普段感情の一つも見せない彼女だが、愛しき故郷に帰還するとなるとその表情も柔らかくなった。

 が、現状の彼女は普段よりも数割険しい表情で、アリスの言葉に刹那の間を置くと無感情な言葉を返す。

 その反応にアリスは少々おののいたが、けれども折れず屈せず彼女の膝の上へと腰を据え、彼女を仰ぎ見やる。


「……まだ怒ってるの?」

「当然です」

「いいじゃない、こうなっちゃったものは」

「何一つとしてよいものはありません」

「厳しいなぁ、シャロは」

「お嬢様……」


 分かっていての反応、ということくらいはシャロにも分かっていた。

 しかし受け入れ難いことだった。更には許し難い。それは何もアリスにのみ向かう訳ではない。


 例えばことに関与したと思われる仲間達、ティレル城に残る使用人共を思い浮かべると怒りが湧いてくる。

 馬車を操縦している御者には殺意すら芽生えた。

 まるで話の一つも聞こうとせず、どころか今は陽気に鼻歌まで奏でている。

 シャロの拳が硬く握りしめられるがアリスの手前であるからか次第にその拳からは力が抜ける。


 兎角、膝の上に乗るアリスを落ちないようにと擁するシャロは、赤く染まった貌をするアリスを無視してどうしたものかと苦悩した。


(結局、到達してしまった。どうしたものか……馬はもうない。とはいえ近く馬車が出る日なんて……)


 田舎であることもそうだが、冬の時期、簡単に馬車を出してくれる者はそうはいない。

 今回の御者は雇われの一般の者だった。


 イギリスとは見栄と繁栄こそが全ての国家である。

 例えば如何に凡な者であれ、それが城住まい――貴族の僕となったら当然主は馬を貸し与え御者を伴わせる。

 そんな経済能力もないのか――人間一人を満足に働かせるだけの力もないのか、と他者に誹られるのすらも我慢ならない。


 だがティレル家に務める者達は自身で都合を見つけ、更には御者も故郷に所縁のある者か、或いは適当な者等に頼んだ。


 理由は簡単だ。

 単純に言えば見栄を張る必要もないくらいにティレルの名は知られているし、何よりとしてティレル侯爵の用意する馬車と言えばお察しの通り派手で豪華な籠ばかりだった。

 それで通りを行けば周囲の反応は一つの騒ぎで、よもや王族の方か、或いは所縁の者か、などと盛り上がる。こと、それが故郷で見られると居心地が悪い。


 結局、従者達はティレル卿の有難い親切心を丁寧に断ると、庶民らしく、ある程度普通と呼べる馬車に乗り付けて帰省するのが通例だった。


「帰ったらすぐに馬車の手配をせねば……」

「え? そんなに早く帰る予定だったの? 一カ月くらいは休むのかと思ってた」

「……そうせねばならない理由がありますので」

「……へぇー。そうなんだぁー」

(なんとわざとらしい……)


 据わった瞳で妖しい笑みを浮かべるアリス。

 シャロの言葉に思い当たることがある、どころではなく彼女は自身こそが原因だと言う自覚があった。


 アリスの優位は変わらない。既に目的地であるハートフィールドに到着をした。

 今更城に帰るとなっても時は遅い。本日の御者もこの日ばかりは馬を出すことはないだろう。


 完全に手詰まりだと悟ったシャロは本日何度目かも分からない溜息を吐くとアリスを更に強く抱きしめる。


「うぎゅっ。ちっ、ちょっとくるしぃかなぁって思うんだぁ、シャロ?」

「然様で御座いますか」

「お、怒ってるのは分かったから、もう少し力緩めてほしいなぁ?」

「はい。では更に締めますね」

「ひぎゅぅっ!」

「この一帯は道が荒いので。しっかりと掴まっていないと落ちてしまいますよ、お嬢様」

「あっ、あいあいーっ……」


 そういう理由ならば至極納得、とアリスは丸め込まれるところだったが腹を圧迫するシャロの腕に情けのない声を漏らしてしまう。


「……あははっ」


 ふいにアリスは笑いを零した。

 それは愉快そうで、とても幸せそうな笑顔だった。


 疑問に思ったシャロはアリスを見下ろすが、アリスはシャロへと丁度視線を向けていた。


「楽しいね、シャロっ。久しぶりにこんな風に笑ってる気がする」

「何を……」

「だって……久しぶりだから。怒ってるシャロを見るの。それにムキになってるシャロを見るのもね?」


 その台詞にシャロは数瞬沈黙し、己はムキになっていたのかと自問自答した。

 存外、己のことと言うのは分かり難いことだが、しかし今の彼女を見れば誰もが口を揃えて分かりやすい娘だと言うだろう。


「ねぇ、知ってるシャロ?」

「……何がでしょうか」

「〈好き〉の反対」


 唐突な質問にシャロは首を傾げ、何を簡単なことを言っているのか、と言いかける。


「答えは〈無関心〉なんだよ」

「……無関心?」

「うん。〈嫌い〉は反対の言葉じゃないの。意識を向けてるから。それって相手を認識してるってことなの」

「…………」

「つまりね、〈嫌い〉って言う人は〈それ〉に対して主観を向けて、更には感情を抱くだけの思いがあるの。だから〈嫌い〉は悪いことじゃないよ。感情や気持ちっていつかは変化するかもしれないから」


 でもね、とアリスは言葉を続ける。


「〈無関心〉ってね、何も抱かないの。感情も、思いも、意識そのものも向けないの。まるでそこらへんの石ころを見るように接するの。それって怖いことだよね」

「……そうですね」

「だからね、シャロ。わたしは今凄く安心してるんだよ?」


 アリスはシャロの手を握りしめ、更には瞳を見つめて言葉を続ける。


「わたしに意識を向けて、感情を向けて、気持ちを抱いてくれてるから。今のシャロは怒ってるけど、でも、それが凄く嬉しいんだぁ。だって興味無いことの方が怖いもん。私はこんなに……必死なのに」


 先日の一件からアリスは気持ちを隠すことがなくなった。

 シャロに対しては正々堂々と真正面から気持ちをぶつけてやると心に誓った。


 それと対するシャロは変わらずに寡言だが、しかし――


「仮にそれを哲学と呼ぶにせよ……お気楽な考えです」

「……そうかな?」

「ええ、楽観です。如何に興味や関心を向けられているとしても、嫌い、と言う感情が逆転する可能性は不明確で御座います」

「……確かに、そうかもしれないけど。でもっ――」

「それもまた一つの可能性。それに賭けるのも悪くはないと言いたいのですか、お嬢様」


 彼女はそんな風にアリスを否定するが、けれどもアリスは先から感じていた。

 シャロの手が、握り合う手の感触が強くなっていることに。


 アリスはシャロを見つめる。

 相変わらずシャロの瞳は伏せられているが、その頬には微かに熱が差す。


「甘えた考えは捨て去るべきで御座います」

「そう?」

「はい。これからはもっと徹底した教育を心がけましょう」

「ふふっ……うん。そうだね」


 間も無く、揺れ動いていた馬車は停まり、その中から可憐な美少女と佳人が姿を見せる。

 馬車から先に降りたのは佳人で、彼女はそのままに握りしめていた手を引き、己の主である乙女を抱き留めると、互いの身形を正してから傍に立った。

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