十一 アクシデント


 ある日を境にシャロの態度は急変した。


 元より感情を前面に出すような性格ではなかったが尚更にそれは鳴りを潜め、アリスに対する接し方などは一歩も二歩も引いた感じになった。

 それは従者としては正しい在り方かもしれないが、これにアリスは戸惑い、もしや己はシャロを怒らせたのだろうかと恐怖や焦燥を抱いた。


『わたし、なにかした? ねぇ、シャロっ』

『……いいえ。何も御座いません、お嬢様』


 向けられる冷徹な瞳に冷淡な声。

 アリスにのみ見せた笑顔は仮面に隠れた。

 シャロは無感情のままにアリスにそう告げ、後は通常通りに従者のそれとしてアリスに尽くした。


 以降、二人の関係には隔たりが生まれることになる。


『……きらいになったの?』

『…………』


 果たしてシャロはアリスを嫌ったのか――それの真相は不明で、アリスは涙目で問いを向ける。

 だがシャロはそれに目を伏せると寡言になる。


 無言――それは肯定の意味を含むが否定を意味する時もある。


 答えは存在しないと言外にシャロは伝える。

 幼いアリスにはそう言ったやりとりだとかはよく分からない。


 だが空気から伝わるものもある。

 言葉を用意できないシャロの様子を察するとアリスは面を伏せた。


『ねぇ……いい子にしてたら、また笑ってくれる?』

『…………』


 アリスは勉強が苦手で、得意なことと言えば遊ぶことくらいだった。

 特に誰もアリスの性格に口を出すことはなかったが、アリスはその日から筆をとるようになった。


 弱音や愚痴を零し、授業が終われば毎度茹で上げた蛸のように伸びてしまう。

 だがそれでも必死になって彼女は勉学に励む。


 その他の芸術、音楽、馬術から始まり必要な素養の全て、それらに真面目に取り組むようになった。

 見違えるような変化に城に住まう者達は如何したのだろうかと首を傾げ、ティレル侯爵ですらも心配を寄せた。


『頑張ればね、きっと……また笑ってくれるから。だから頑張るよ』


 父に問われた時、アリスはそう答えた。

 それが何を意味するのかはさっぱり謎で、彼は尚更疑問を抱いた。


 けれどもアリスは構わない。

 己のみがそれを理解し把握していれば問題はないと信じていたし、何よりも日々勉学に励む理由こそは彼女のみの秘密だった。


『お嬢様。次は数学で御座います』

『えー、止めようよ、数字はいやぁー!』


 アリスは彼女の下で学ぶ。

 日々を共に過ごす中、最早彼女の鉄面皮は定着したものになったが、それでもアリスが諦めた日はない。


 再度この目で笑ったシャロを見る為に。

 そして何故全てが変わったのか――その理由を問う為に、今日もアリスは必死でシャロから教えを乞う。


 ◇


 馬車の中ではのっぴきならない空気が流れていた。

 それというのもシャロが珍しく怒気を露わにしているからで、更にはそんな彼女の向かいには勝手に潜りこんでいたアリスが身を縮こませていた。


「ご自分が何をしているのか理解出来ていますか、お嬢様」

「ん、んー……何かな? 何か問題があるのかなぁー……?」

「ふざけないでください」

「ぴぃっ!」


 珍しいまでの剣幕だった。

 容赦もないシャロの態度にアリスは汗を滴らせ、顔を俯ける。


「再度訊きます。ご自分が、今、何処にいるのか……理解出来ていますか」

「え、えぇっとぉ……シャロと一緒にお城から遠く離れたどこかの田舎道にいて、馬車の中で揺られてる……?」

「……はあぁっ……」


 渋い面をし、更に眉間に指を添えたシャロは深く、それはもう深く溜息を吐いた。

 現在、位置はティレル城から一時間ばかり離れた距離だった。こうなれば急ぎ引き返しアリスを城に連れ戻さなければならないと思うシャロ。


「御者の方……すみませんが急いで城に戻ってください。お願いします」

「ちょっ……シャロ、そんなのってないよっ」

「それはこちらの台詞です、お嬢様。再度訊ねます。ご自身が何をしているのかちゃんと理解出来ていますか」

「うっ……そ、それはぁっ……」


 ティレル侯爵の一人娘が突然に城館から姿を消した。

 恐らくは従者達全員を丸め込んだと思われる。

 一人娘殿はこの日、己のレディースメイドが帰省すると知ると馬車に潜り込み勝手についてきた。


 従者達は顔面を蒼白にし、ああ、願わくば何の問題もないままことが済みますように、と祈ったが、そうは問屋が卸さぬとシャロ。


「再三言ったはずです。外は危のう御座います、と。更には何と言う真似をしているのですか。勝手に抜け出しただけではなく城の者等を懐柔しましたね、お嬢様」

「だ、だってっ……!」

「何の〈だって〉かは問いません。これは大問題です。今すぐに道を戻ります」

「そんなっ……」


 シャロが身を乗り出して御者に言葉を紡ごうとするが、そうすると今度はアリスがシャロにしがみ付いて必死で止めようとする。


「……お嬢様」

「い、いやだいやだっ……お城には戻らないもん……!」

「……そんな我儘や身勝手は許されません。もしもこれがマスターに知られたら使用人仲間達の首が一斉に飛びます。お嬢様、あなた様はご自身のなさったことを理解出来ていない御様子で」

「だ、大丈夫だよ! お父様なら分かってくれるもん!」

「否で御座います。マスターがあなた様を如何程に愛し、そして如何程に大切に思っているかをあなた様は知りません。外に知られる前に急ぎ戻らねばなりません」

「やだってば……!」

「……怒りますよ、お嬢様」


 久しく感情を露わにするシャロ。

 それと対峙するアリスは恐怖を抱くが、しかし不思議と嬉しさもあった。


 こういった形でしか気持ちや感情を見せない。

 それは人格的な問題でもあるが、それであったとしても人間らしい反応というのは見ても聞いても安心する。


 アリスは怒りを孕んだ瞳で見つめてくるシャロを見上げる。


(怒ってる……そうだよね。きっとそうだと思う。でも、わたしだって思うことやしたいことがあるんだから……!)


 例え自身の立場が特殊や特別であったとして、だから何なのか、とアリスは突っぱねる。


 それは本来ならば許されざることだろう。

 だが関係がないとアリスは判断した。


 意思を持って生まれ、そして気持ちを抱き心が在るならばそれに従うことはきっと正しいはずだと彼女は信じていた。

 故にアリスは譲らない。

 シャロの瞳を真っ直ぐに見つめ返し、彼女の袖を握りしめながら言葉を紡ぐ。


「外が見たかったんじゃないもん……」

「……?」

「勝手なのは分かってるし、無責任なのも分かってるよ。でも、曖昧なまま、先延ばしにし続けて苦しむのはお互い様じゃない……!」

「――っ」


 何を言っているのか――そう言いたいシャロ。

 だが思い当たることがあるのか彼女は言葉を失ってしまう。

 そんな様子を理解したアリスは更に畳みかける。


「逃げようとしてたんでしょっ」

「……仰る意味が分かりません」

「嘘ばっかし! 急に帰るだなんて言って、いつもならもっと前に予定を言うじゃない!」

「……その件については色々と込み入った事情がありました」

「それは何っ」

「……プライベートな内容ですので」

「ほら、またそうやって逃げる!」

「逃げていません」

「逃げてるもんっ」


 捲し立て、この勢いならばなんとかなるかと楽観するアリス。しかし――


「そうやって話を逸らすのは後ろめたいことがあるからですか、お嬢様」

「へっ」

「如何なる理由があり、思惑や目的があろうとも許されぬことは許されないのです」

「んなっ……め、命令、命令です! わたしの言う通りにして!」

「頷けません。今この時こそはマスターの意思を汲みます」

「ぐぬぬっ……この分からず屋……!」


 アリスはシャロにしがみ付き何とか阻止しようとするがアリスはそんな努力を歯牙にもかけない。

 窓から顔を出したシャロは馬を操作している御者へと言葉を紡ぐが――


「もし。今から急ぎ道を引き返してはくれませんか」

「あー? あんだってー?」

「……あのっ。道を、引き返して、くださいっ」

「はぁあー? なぁんだってー?」

「わざとですかそれはっ。いいから手綱を――」

「こらぁ! オラの馬に触るでねぇわ!」

「あうっ! くっ、このっ……人の頭を簡単に叩くとは……!」

「まぁったくぅ……しっかしハートフィールドかぁ、かなり遠いだべさなぁ……暴れてないでちゃんと席さ座っとれよぉ、まったくぅ……」

「ちょっ、御者殿……」


 お年を召された御者は耳が非常に遠い上に話を聞こうともしない。


「いひひっ。それじゃあ旅路を楽しもうか、シャロ?」

「なんという……ことですか……」


 シャロはいよいよ完全に言葉を失うと背後から抱き付いてきたアリスすらも無視し、絶望のままに深く溜息を吐いた。

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