十 帰省の品
いつしかシャロはアリスに通常とは違う想いを抱くようになった。
果たしてそれが恋情かは彼女自身には分からなかった。
そもそもとして彼女は恋愛経験がなかったし、そういった知識も乏しい。
結果的に、彼女はその感情を友情と同義のものとして認識した。
『むにゃっ……』
『ふふっ……よく寝ますね、お嬢様』
アリスはシャロの膝の上をよく占領した。
理由は居心地がよく、更には寝心地が最上だったからだ。
その日もお決まりのように午後の昼寝を堪能するアリス。
幼い彼女の頭を撫でつつ、シャロはアリスを観察する。
(本当に美しいお方……)
さながらに人形然といった容姿。
白磁の肌にブロンドの髪。
甘い薫香はアリス特有のもので、それを聞く度にシャロは胸が締め付けられた。
無防備に寝入るアリスだがそれはシャロを信頼している証で、役得である、とアリスの寝顔を見ながら密かにそう思った。
『……今日はいつ頃起きるかしら?』
問いの返事はない。室内には二人きりで邪魔の一つもない。
実を言えばこの一時こそがシャロにとっての最上の癒しであり、こうして間近でアリスを感じることが出来ると心労の一つも残ることはなかった。
(……幸せ、なのかしら)
それは親しき者と時間を共有することが出来るからか――そう自問するシャロ。
アリスへと向ける気持ちは友情の延長か否か。
同性である故にそれはやはり友情であるはずだ、と彼女は自答する。
だがアリスを初めて見た時、そして時を共に過ごすうちに彼女は自覚をする。
それが普通とは呼び難い、通常とは違う感情であることを。
『馬鹿ね、わたし……』
その呟きの意味は何か。
気持ちを誤魔化している事実か、或いは許されざる気持ちを持つこと自体にか、というのは恐らくは考えるべくもなく、つまり彼女は両方の意味で自身にその言葉を向けた。
『……ごめんなさい、お嬢様……』
それは通常ではなく、普通ではない。
しかしそうだとしても自覚をし、それを認め、受け入れてしまえば時は遅い。
シャロはアリスの額に静かに唇を宛がう。鼓動は高鳴り目が潤む。
『好きです……アリスお嬢様』
その言葉に対する返答も、やはりない。
静かな室内にはアリスの寝息が響くのみ。
シャロはその虚無こそが救いであり、そして絶望でもあると理解をすると、静かに涙を零した。
◇
荷造りを終えたシャロは一つにまとめた鞄を持ち上げる。
明日には馬車に乗り故郷であるハートフィールドに帰省する。
久しく見る故郷の景色は如何程か――瞳を瞑り想像するシャロだが、彼女の脳内に生まれるのはどこまでも続く草原と田畑だった。
ロンドンから馬車で凡そ五時間強の距離。そこにシャロ邸はある。
豪農として地元では名の知れる家庭だが、それもこれも全てはティレル家から借り受けている広大な土地と畑のお蔭だった。
主に麦等を育て、シャロもこれの手伝いをよくした。
今の時分に然程仕事はない為、帰っても仕事を任されることはない。
つまりは帰るにはうってつけの季節だった。
久しく気が休まりそうだと思いつつシャロは土産の品を幾つか確認し、それもまた別の鞄へと詰める。
シャロに兄弟姉妹はいない。一人娘だった。
おまけに父と母は年を召しており、そんな両親の口癖は早い所孫の顔が見たい、というものだった。
幾つかの縁があり見合いをすすめられもしたがシャロは全て断った。
時代からして普通は許されない、というよりは親の独断で決まることが往々だが、シャロの両親は彼女の意向を第一に考えた。
兎角、そんな事情等もあるシャロだが帰郷には少なからず心が躍る。
何だかんだ、生まれ育った土地というのはよいもので、羽を伸ばすには最高の場所だった。
そして悩みを整理するのにも最適だった。
「よし、っと……」
先日、アリスに帰省の旨を伝えると彼女は大層驚愕した。
その表情を見たシャロは胸が苦しくもなったが、けれども彼女の反応を無視して場を去る。
急な報せ――明後日には帰るという内容だが、これにはシャロなりの思惑があった。
(猶予を与えたら何を仕出かすやら……)
本来ならば一月前かそれより前もって伝えるのが当然のことだが、先日の一件――アリスの暴走の件を踏まえてシャロは今になって許しを乞いにいった。
もしかしたら再度無理矢理に襲われるかもしれない。
或いは最悪な予想の範疇としてはシャロの帰省を突っぱねたかもしれない。
有無を言わさぬシャロの空気に対しアリスは渋々と頷いたが、それもシャロの狙いだった。
考える隙を見事に奪った。
(……これでは、まるで逃げているみたいね)
それはアリスから距離をとろうとするかのようで、無意識のうちにシャロはアリスを避けていたのかもしれない。
彼女には決してアリスを嫌う気持ちはない。
だがやはり胸中には煮凝りのようなものがあり、それこそは先の一件が関連する。
愛を告げられ、唇を奪われた事実。命令のままに従いはしたがアリスを抱きしめたという現実。
正気など欠片もなかったが、しかし――
(だめね、わたし……)
幸せだと感じたのも事実だった。
シャロは湧いてくる感情を抑えるとかぶりを振り、明かりを消すとベッドへと沈んだ。
瞼を閉じ頭の中を無にする。静寂に満ちた室内だが、暗がりの世界には彼女の心音が響いた。
全てを思い出していた。
アリスの温もり、香り、そして感触。
(柔らかかった……温かかった……)
胸が締め付けられ呼吸が苦しくなる。次いで顔は熱を持ち汗が浮く。
寝返りをうち、必死になって興奮を冷まそうとするシャロ。
だが瞼に描かれる景色にはアリスの顔が――発情した貌がある。
あの日の光景はどうあっても掻き消すことは出来ないのだとシャロは悟り、いよいよ頭まで布団を被り、そうして夜明けの時まで悶え苦しんだ。
◇
気がつけば朝となり、シャロはティレル城の前に停まる馬車に乗り付ける。
見送りには複数の仕事仲間が立ち会った。その中にアリスの姿はない。
シャロは相変わらずに鉄面皮だったが、景色の中にアリスがいないと理解すると彼女の胸は痛んだ。
「それでは少々行ってまいります。留守の間、お嬢様のことを宜しくお願いいたします」
そう言葉にしたシャロは頭を深々と下げると馬車へと乗り込むのだが――
「……?」
何故か馬車に乗り込んだ時に再度使用人達の顔を見やれば、皆は一様に渋い表情で、作った笑みを浮かべぎこちなく手を振る。
それに疑問を抱いたシャロだったが、兎角、御者は馬の手綱を握ると静かに丘の道を走り出し、シャロは遠ざかる城を見つめながら帰郷の一時を堪能しようとする。
(お嬢様、もしかしてお怒りになったんじゃ……)
が、堪能できる程に彼女の精神は落ち着けなかった。その最たる理由こそがアリスだ。
普段のアリスは、毎年のことなら門まで見送りに駆けつけてくれたが、今年に限っては姿を見せなかった。
思い返せば朝食の時も視線を合わせてくれなかった気がするとシャロは思い返し、尚更に気分は沈み、深い溜息を吐く。
(わたしは……一体どうすれば……)
封じた気持ち、隠した思い。
過去のものが今になって顔を見せようとする。
それを理解し実感する度にシャロは苦しくなり、再度それらを押し返して感情を殺そうとした。
だが如何に誤魔化そうとも時は既に遅く。
何故こうなってしまったのだ、己はどうするべきなのかと思慮を巡らせ、旅路の最中に問答を自己の内で繰り返すのだが――
「――あうっ!」
「……へっ?」
途中、固い地面に乗り上げた馬車だったが、その衝撃に揺れる最中、何故だか聞き覚えのある声が聞こえる。
シャロはそれを幻聴だと思った。
何せそれは有り得ない声であるので、どうあっても現実には思えなかった。
しかし今更になってシャロは気付く。何故か己の足元に大きな布の袋があることに。
そんなものを積んだ覚えはなかった。そもそも然程の量の持ち物を持ってきてはいない。
やがてその袋は動きを見せる。もぞり、もぞりと。
それはさながらに虫がのたうつような様子で、シャロは黙して見つめると次第に顔から血の気が失せ、恐る恐るといったようにその袋へと手を伸ばし、呼吸を二、三繰り返すと決心したようにその袋を開け放った。
「――ぷはぁっ! ふえぁっ、苦しかったー!」
中から飛び出て来たのは自身の主であるアリス・ティレル嬢。
シャロは硬直し、更には完全に顔面を蒼白にする。
そうして先程の別れ際に仲間達が見せた表情を思い出し、更にはその表情の意味を理解した彼女は――
「何ということをしているのですか、お嬢様!」
珍しく声を荒げ、アリスを叱りつけた。
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