九 ブルース
幼い頃からアリスにとってシャロは特別な人物だった。
身の回りの世話の全ては彼女が済ませ、寝起きから寝入りまで常に傍に控える。
時に下らない話題に花を咲かせ、或いは彼女の語りにアリスは頬を綻ばせる。
そんな様々がある中、特にアリスはシャロのピアノが大好きだった。
『シャロはピアノがじょうずだねっ』
『そんな、わたくし程度……』
シャロは毎度そう言うが、その腕前は熟練に達する域で、結果的に彼女の評価はアリス以外の者等からも高かった。
一度は然る催しの際に演奏を、とティレル侯爵に願われたが、彼女はこれを慎んで辞退した。
『ねぇ、なんでそんなにじょうずなの?』
『何故、で御座いますか……?』
アリスの問いにシャロは少々悩む。
この頃のシャロは感情が豊かで、悩む素振りも分かりやすい方だった。
顎に手を添え宙へと視線を泳がせ記憶を漁る。
そんな彼女の膝元ではアリスが急かすように彼女の胸元を手で引いた。
『……それしかなかったから、でしょうか』
『それしかない……?』
『はい。お恥ずかしながら実家は田舎の方でして……することと言えば川で遊ぶとか、野を走り回るとか、そういうくらいのことしかありませんでした』
『へぇー……』
川で泳ぐ、或いは野原を駆け回る――そういったことをアリスはしたことがない。
故にその内容が理解出来なかった。
だが、何となしそれは本来の子供らしい遊び方なのだろうな、と彼女は悟る。
『わたくしは運動が苦手でしたから、基本は家の中で過ごしていました』
『そうなんだ』
『はい。それで、我が家にはスクエアピアノがありまして。それをよく弾いておりました』
幼い頃からシャロにとっての遊具はピアノだった。
鍵盤に触れるとその日一日は延々と指を走らせ音を奏でた。
彼女の両親曰く、その姿はピアノの亡霊然といった具合だったが、今となっては彼女の誇れる特技となった。
とはいえ彼女の性格は謙虚であるので、それを誇示するだとか、或いは自慢気に語るでもない。
頼まれたら弾くが自発的にピアノの前に立とうとはしなかった。
『そっかぁ。シャロはお家でピアノをずっと弾いてたんだねぇ』
『はい。とはいえスクエアサイズですから……このようなグランドサイズとは比較にならない程粗末なものですよ、お嬢様』
音の鳴り――それを構成する木材から弦の長短、更には調律を取ってしても比肩することがおこがましい、とシャロは恥ずかしそうに語る。
だがアリスはそれを笑うでもなく、シャロのその表情――懐かしむような顔を見ると興味を抱いた。
『……シャロの宝物なんだね?』
『そうですね……おそらく、そう呼べるのかもしれません』
『そっかー……ねぇ、シャロ』
『なんですか?』
名を呼ばれたシャロはアリスを見やる。
『そのピアノの音、いつか聴いてみたいなぁっ』
この時、アリスが彼女に恋をしていたかは謎だった。
だが、シャロを構築する上での――彼女が今に至るまでに築いた歴史の中、それは欠かせないものだとアリスは幼心ながらに理解する。
そうして思う。いつかこの目で彼女の宝物を直接に見てみたいと。
そして願わくば、そのピアノを奏でるシャロの姿が見てみたいと。
◇
冬も中ごろの時期、ティレル家の使用人達は暇を頂くと一時の帰省をする。
長い者では一月は留守にするが、これをティレル侯爵は咎めもせず、寧ろ休暇なのだから存分に休むべきだと皆に伝えていた。
半数がティレル城から姿を消すと、広い城館内はどことなく物寂しい景色になる。
この日、アリスは人を伴わずに回廊を歩いていた。
響く自身の足音を耳にしながら彼女は適当に足を進める。特に目的はない。
単なる暇潰しだった。
「お昼のお勉強も済んだし……夜までなにしよう?」
先まで国史の勉強をしていたアリス。
凝った首を解すように回し、伸びをすると窓辺へと歩みを進める。
開け放たれた窓からは丘の景観を一望できる。
本日の天気は快晴で、煩わしい湿度も鳴りを潜めていた。
丘の道では百姓らしき人々が荷馬車を駆り都市へと出向く最中だった。
その様子を頬杖を突きながら眺めていたアリスは穏やかな景色に何となし気が抜けた。
「……お外かぁ」
未だに憧れはある。
だが再度駄々をこねてシャロを困らせることこそが問題だ、と彼女は自信を強く律した。
誇り高きティレル家の息女。
いい加減自覚を持ち相応に生きねばならないのではないかと、アリスはそんなことを思いもした。
「はーあぁ……」
が、彼女はそれを悩みとはしなかった。外への憧憬は割り切った問題だったからだ。
それよりも何よりも、先もそうだが、アリスは真っ先にシャロを思い浮かべるくらいに彼女のことばかりを考えていた。
「……どうしたらいいんだろう」
あの日から――口付けを交わし本心を伝えた日から二人の関係はぎこちないままだ。
先日のシャロの仕返しの一件から大分緩和した空気にはなったが、けれども互いは強く意識をしてしまったが為に元のようにはいかない。
何よりとしてアリスは自信の暴走行為――シャロを褥に引きずり込んだ事実そのものを悔やみ、または羞恥が晴れないままだった。
はしたないどころの話ではなく、歳若い乙女が、如何に恋心を寄せ、その焦がれるような気持ちを抑えきれなかったとて、無理矢理にも等しい形で襲った事実。
シャロはあの日のことをどうこう言うことはなかったが、それが返ってアリスの心を苦しめた。
「何で何も言ってくれないんだろう……」
例えば拒絶の意思を示されるならそれもよかった。
それも一つの答えであり、それを寄越されたら頷く他にない。
最上の答えとしては愛を以ってしての返答だが、それを想像するだけでアリスの顔が赤く染まる。
が、かぶりを振ったアリスはそれらのどちらも存在しない事実を思う。
決して蟠りがある訳ではない。だが相手にされていないような気もする。
反応の一つ一つ――照れたり恥じらうシャロの様子を見れば何となしに彼女の胸中も窺えるが、果たして言葉で伝えられることはなかった。
歯痒いような、或いはもどかしいような気持ち。
空の模様に反して彼女の心は曇る。
それは苦しみではなく悶えるようなもので、つまりは恋煩いだった。
「シャロのばーかっ……」
そう零したアリス。
報われるかどうか以前に、やはり乙女であるが故に答えが聞きたかったし、もしも同じ気持ちであるならば、やはりその言葉が聞きたかった。
あの日の景色――シャロを抱きしめ、また抱きしめられた時のことを思い出す。
感触は未だに身体に焼き付いたままだった。
シャロの震えるような腕。それでも強く、優しく包み込んでくれたシャロの温もり。
祈るような、切なくて悲しくて、けれども待ち望んでいたような表情をしていたシャロ。
それを見た時にアリスの正常の箍は吹き飛んだ。
或いは彼女の香り。それは薔薇のようで、ともすれば果実然とした薫香。
肌の滑らかさを思い出せば胸が締め付けられ、今一度それらの全てを得て感じたいとアリスは思った。
「……わたしの、ばーかっ……」
暴走――暴走だった、とアリスは後悔をする。
もしかしたらシャロは本心では嫌がっていて、己に対する態度や所作のそれらは全て傷つけまいとする演技なのでは――そんな風にまで思えてしまう。
迫られたが故に仕方なく抱きしめ返し、口付けに関しては抵抗の一つも出来なかったから――考えれば考える程に悪い方向へと思考は回った。
アリスは再度嘆息し、窓から身を乗り出し、憎らしい程に快晴な空を見上げた。
「危のう御座います、お嬢様」
「シャロっ……」
ブルースに染まるアリスだったが、そんな彼女へと凛とした言葉が向けられた。
寄越された声を耳にした途端にアリスは緊張の表情を浮かべ、身を正すと回廊の先から歩いてきたシャロを見つめる。
「このような場所で如何様な用事でもあるのですか」
「ん……ないよ。少しぼけっとしてただけ」
「然様で御座いますか」
相も変わらずの無感情な表情に冷淡な声色。
しかしアリスは彼女のそれらに嫌な気はしないし、どころか彼女が接近すると不思議と頬が熱くなる。
そんな表情を見られまいと顔を背けたアリス。
シャロはそれを問うことはせず、再度静かに口を開いた。
「お嬢様」
「なに?」
「いえ、少々お話しを」
「お話し?」
よもやついに返事がもらえるのか――アリスは嬉々とし、心臓の高鳴りを抑えることが出来ない。
期待に満ちたような、けれども不安をも思わせる表情を作ったアリスはシャロを真正面から見つめるが――
「えーと……なに、これ?」
シャロは手に紙を持ち、それをアリスへと差し出した。
受け取ったアリスは訝しんでその内容を確認するが――
「少し遅れましたが、明後日には少々お暇を……」
「……えっ」
その内容こそは休暇届であり、そういえば遅れた時期に毎度シャロは休暇をとるのだった、とアリスは思い出す。
「えぇええっ!?」
この苦しみは一カ月も続くのかと大きく叫び、アリスは絶望に顔を歪めた。
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