八 仕返し
シャロがティレル家に来たのは凡そ八年前。
彼女は百姓の生まれで代々ティレル家の世話になっていた。
そんな彼女は奉公としてティレル城の門戸を叩く。
その美貌を見たティレル侯爵は彼女を気に入り、一年もしない内に彼女をアリス専属のレディースメイドへと任命する。
元よりレディースメイドは歳若い女性に任されるが、この時分のシャロ未だ拙い十代だった。
予想外の出世に彼女自身大層に驚愕をしたが、しかしその驚愕を遥かに超える衝撃こそがアリス本人を前にした時だった。
『あなたはだぁれ?』
彼女と初めて対面した時、シャロは言葉を失った。
幼いにしても既に片鱗を思わせた。
将来は花も恥じらう佳人のそれになると。
そして同時に鼓動が忙しくなった。
(なんと可憐な……)
両者の歳の開きは十と幾つか。
更には同性な上に主従の関係になる。
だがシャロはそんな事実は他所に胸に淡い気持ちを抱いた。
あどけない笑みを寄越されると顔を赤く染め上げた。
『あなたがわたしのメイドさん?』
『あっ……は、はいっ』
呼ばれ、情けのない返事をするシャロ。
そんな反応にアリスは笑う。
『くすくすっ……ねぇ、よろしくね、メイドさんっ』
『はい、お嬢様っ』
『おなまえはなんていうの?』
『シャロと申しますっ』
てんやわんやとするシャロだったが、そんな彼女へと近づいてきたアリスは小さな手を伸ばす。
それをシャロは呆けたように見つめるが――
『あくしゅっ』
『へっ』
『だめ?』
『あっ、いやっ……』
思わぬ行動に面食らうシャロは、それでも求めに応じてアリスと握手を交わす。
その小さな手のひら、更には柔い感触にシャロは今一度アリスの歳を理解する。
更には遅い実感が湧いてきた。
(……私がこのお方の支えになるんだ)
従者としてアリスを支え、彼女の生活全てを充実させるべく、彼女に何もかもを捧げ、彼女の幸福の為に身を粉にするのだ、と。
庇護欲と責任感の板挟みになったシャロだったが、けれども不思議と彼女はその状態に心地のよさを覚えた。
◇
先のアリスの暴走から一日が経過した。
その日の午後、シャロはアフタヌーンティーの準備をしながら過去の出来事に意識を向けていた。
初めてアリスと対面した時の気持ちを思い出し、彼女は深く嘆息する。
決してやましい気持ちがあった訳ではなかった。
従者としての責務をまっとうせんと心に決めた瞬間だった。
(どうしてこんなことに……)
昨日アリスに口付けを寄越されたシャロはその日一日気が気ではなかった。
例えば皿を落としたり、躓いて尻を突いた。
他の使用人達は珍しい彼女の様子に如何したかと問いを向けたが、それに対してもシャロは適当な返事しかしなかった。
更に上の空だったのはシャロのみならず、問題の張本人でもあるアリスもだった。
食事の際はフォークとナイフを逆に構え、シャロとの授業となると常々顔を赤く染め上げまともにシャロを見ようともしなかった――これはシャロも同様だった。
今朝には久しく落馬した。
落馬といえども振り落された訳ではない。跨る寸前にずり落ちた。
これには講師だけでなく愛馬であるクラウンすらも驚き、本日の乗馬はその瞬間に取りやめとなる。
「あ……」
シャロの深い溜息が静寂に染まるが、その時になってようやく彼女は準備が完了していることに気付いた。
何をしているのかと自身に苛立つ。
今の今迄従者のそれとして相応に生きてきたつもりだった彼女だが、今の彼女はまるで素人同然だった。
(気を引き締めなさい、私……)
そう発起するも昨日の口付けを思い出すと再度顔は赤く染まり視界が揺れる。
堪らずに自身の頭を叩いた彼女はその映像を掻き消そうとしたがそれに効果はなかった。
それでもある程度の冷静さを取り戻した彼女はワゴンを押して主人の部屋へと向かった。
「……失礼します、お嬢様」
「えっ、あ……うん……」
戸を叩き部屋の主、アリスの返事を待つ。
返事がくるまでにかかった時間は凡そ十秒。
何をそうも戸惑うのか――それはある意味では明確なものだった。
しかしシャロは問いを向けることはせず、静かに扉を開くとワゴンと共に入室を果たす。
そうしてソファの上で何故か正座をしているアリスを発見すると、何故か彼女も動きがぎこちなくなった。
「……お待たせいたしました、お嬢様」
「う、うん……」
アリスの様子は端的に申してらしくないどころの騒ぎではなく、また、昨日の様子から比べると非常に不自然だった。
つまり、彼女は振り返ったらばようやっと自身の仕出かした所業に自責と後悔を抱いた。
シャロと口付けを交わすまでの記憶は曖昧で、自己と呼べるものを取り戻したのは情熱を交わした瞬間だった。
結局、二人は言葉を失ったままに自然と離れ、以降は普段通りに徹しようと互いに努力をしたが、それは下手な役者の芝居だとか演技にも等しかった。
「き、今日のスコーンは……」
「……こちらのクリームとクランベリージャムにて御堪能なさいませ」
「わ、わーい、わたしクランベリー大好きー……」
瞳を伏せて説明をするシャロに対しアリスはしどろもどろだった。
スコーンを手に取りジャムを乗せ、更にクリームを添えようとするが何を思ってかクリームの行方は紅茶の中だった。
だがアリスは構わずにクリーム仕立ての紅茶を口腔へと含み、妙な食感を味わいながらにそれを飲み込む。
「あ、そっちのケーキって……?」
「如何なさいましたか」
「あ、ううん、その……まだ切り分けてないんだなっ、て」
「――……っ」
アリスの視線の向かった先にはホール状のケーキがある。
フルーツを大量に散りばめられたケーキを見てアリスの胃が急速な動きを見せたが、しかし珍しいことにカットの一つもされていない。
よもやこの場で切り分けるつもりか、とシャロを再度見つめたアリスだが――
「……申し訳ありません、お嬢様……」
彼女は顔を真っ赤にすると、急いでナイフを手にケーキを切り分け始めた。
その様子を見たアリスは何故だか安心をする。
緊張をしていたのは、普段の通りにできないのは己だけではないのだ、と。
彼女も緊張をしてくれている、己に意識を向けてくれているのだと、そう理解する。
「ふふっ……」
「……? 如何なさいましたか」
「ううん。ねぇ、シャロ?」
「何でしょうか」
「好きだよ」
――凛と響いたのはシルバーが落下した音だった。
シャロは目を見開き動きを止めた。
それを見つめるアリスは顔を真っ赤にしつつも、してやったりといった笑みを浮かべていた。
「ふふふっ……可愛いね、シャロは」
「……お遊びが過ぎます、お嬢様」
「怒る?」
「怒っています」
「どうする?」
「…………」
結局、シャロは数瞬考えたが名案は浮かばず。
兎角としてシルバーを回収すると平常心を取り戻し、若干不機嫌そうな顔でアリスを見つめると改めて紅茶を注ぎ――
「ところでお嬢様」
「ん? なぁに?」
「頬にクリームがついております」
「頬? どこ――」
しなやかな指をアリスの頬へと伸ばし、乳白色のクリームを掬い己の口へと運ぶ。
はしたない云々と言えたらどれだけよかったことか。
アリスは顔を赤熱に染め上げると口を幾度もまごつかせるばかり。
「美味で御座います」
昨日の仕返し――久しく感情を見せたシャロに対しアリスは怒ることはない。
ただ、彼女の気持ちと己の気持ちは同じ尺度だと理解し、やはり照れ臭そうに笑った。
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