七 恋情


 少女と乙女の関係は曖昧だった。

 それが恋仲かと問われたら明確なものはなかった。


 ただ、両者は互いに通常とはまた違う感情を抱いていたのは事実で、少女も乙女も、互いは恥じらいつつも、それでも気持ちを互いに向けていた。


 一種は友情関係の延長のようなものだった。

 少女が歳若いこと、そして乙女が恋愛経験に乏しいこともあったが、二人はそれが愛なのかすら理解出来ていなかった。


 好意には様々な形がある。

 結局、お互いがそれを初恋だと理解したのは関係が壊れてから――互いが距離をおいてからのことだった。


「シャロ……」


 シャロを抱き寄せるのはアリスだった。外では相も変わらずに雨が降り続ける。

 朝のティレル城は静かだった。物音の一つもせず気配もない。


 肌寒い気温の中、それでも二人は熱を抱き顔は火照る。

 アリスはシャロを逃すまいと見つめ、シャロは必死で瞳を閉じようとするが何故か閉じることが出来ない。


 アリスに名を呼ばれたシャロは返事をすることはなかった。

 それは一つの反抗の意思で、つまりはこの状況を受け入れるつもりがないと言外に伝える。


 だがアリスはそれも構わないとばかりに更にシャロを抱き寄せる。

 密着すると互いの体温がいよいよ重なった。


「……温かいね、シャロ」

「…………」


 アリスの体温は低いがシャロの体温は高い。

 両者の体温が交わるとそれは丁度良い塩梅だったが、シャロの胸中は穏やかではない。


 表情は平時の如く鉄のそれだったが、眉根を寄せ、頬を染めるその表情は佳人そのものだった。

 月花も恥じらう様子にたちまちアリスも虜となり、蕩けた眼でシャロを見つめる。


「抱きしめて、シャロ」

「お嬢様……」

「命令だよ……ねぇ」


 令となれば従わぬ訳にはいかない――だがシャロは戸惑い、その震える腕をぎこちなく動かすのみだった。

 対するアリスはその様子に文句を言うでもなく、けれども待ち望むような顔をして彼女の抱擁を今か今かと夢見ていた。


 アリスは口元をシャロの首へと埋め薫香を聞く。

 シャロ特有の果実然とした薫りにアリスは脳を掻き乱され、次第に吐息が荒くなる。


 首元に寄越される熱い息にシャロの心音は跳ねるばかりだった。

 視線を下ろせば、そこには仔犬のような上目使いで見つめてくるアリスがいる。


 シャロの動悸は急き、ともすれば呼吸が乱れる。

 如何に鉄面皮と称される彼女でも、主人の乱れる様と対すれば平常心は消え去る霞の如くだった。


「……聞けません」

「ダメ……ダメだよ、シャロ……」

「お嬢様っ……」

「抱きしめてっ……」


 唇と唇が触れる距離――触れずとも伝わるのは熱情であり、駆り立てるそれは容易にシャロを狂わせる。

 箍と呼ばれるものがあるとすれば、今この時にこそ彼女の制御は解き放たれてしまった。


「あっ――」


 シャロは震える腕でついにアリスを抱きしめた。

 柔らかくしなやかな体躯、細い肢体。

 齢十三のアリスの情報が触れることにより明確になる。


 肌は瑞々しく薄らと汗が浮く。

 興奮の作用もあってか若干上気し、心音は大きく響く。


 漏れた甘い声はシャロの耳朶を濡らし中耳を突き抜け脳へと突き刺さった。

 官能、かつ扇情的な響きは思考を鈍らせていく。


(私は、何をっ……)


 正常な部分が自身に問いを向ける。だがそれに対する返答はない。

 シャロはその事実に驚き、いよいよ気でも違えたかと叫び散らしたくなった。


 だが本能こそが彼女をそうさせていた。

 彼女が今に至るまでどのような想いを秘めていたのか――それは未だに定かではない。


 しかし、例えばアリスのベッドのシーツを抱きしめたり、或いは彼女の残り香に浸ったり、ともすれば体温を求めたのは事実だった。そういった事実こそが全てを物語る。


 対してアリスは長い睫毛を震わせ、更には涙を浮かべながらも笑みを浮かべる。

 その腕はいつのまにかシャロの首元から離れ、背を抱きしめると離さぬように擁する。


「ずっと……こうしたかったっ……」

「っ――……」


 アリスの台詞にシャロの視界が揺れ、まるで鈍器で殴られたような感覚に陥る。

 つまりは衝撃的な言葉だった。


「……友情の台詞ではないのですか」

「……そんなのじゃないもん」


 幼い彼女に恋心というものが理解出来るのか――シャロは内心で思った。

 昔、互いが交わした愛の言葉は友情のそれと同義だろうとシャロは結論付けていた。

 ところが今のその台詞は恋情を意味する台詞だった。


「お嬢様。あなたは勘違いをしています。私は……女です。あなた様と同性なのです。ならば抱くのは愛情ではなく――」

「だからなに?」


 言葉を遮るアリスは再度シャロの顔へと急接近する。

 迫ったアリスの表情は真剣そのもので、シャロは初めて垣間見るその表情に、まるで歳不相応な雰囲気に完全に呑まれてしまった。


「もう誤魔化すことなんてできないよ。ねぇ、シャロ。ずっとずっと……好きだった。シャロもそうでしょ? 何も可笑しくなんてないよね?」

「お嬢、様……」

「普通だとか、一般的だとか……わたしの立場が特別だとしても。それでも誰を好きになったっていいはずでしょ。わたしが誰に恋をしたってわたしの自由でしょ」


 アリスの様子は暴走状態にも等しかった。

 だがそれもある意味では仕方がなかった。


 ある日突然シャロの態度は変わり、以降互いの距離感は詰まることもなく、また、以前の時のような友人関係らしいものもなく、結果としてアリスは愛しい日々を失った。


 だが昨夜のことだ。

 シャロが口にした台詞――夢は見るものであり叶わないものという台詞。

 そして夢を忘れてしまったと言う台詞。それがアリスを極限まで追い詰め、覚醒へと導いた。


 最早止まる術もなく、また、止まる気もないアリス。

 そんな彼女はシャロの唇へと迫る。


「いつか……いつか夢を見ることが出来なくなるとしても。それでも好きな気持ちに嘘はつけないよ。夢を叶えたいと思うのは悪いことなの?」

「ダメです、お嬢様、それだけはっ――」

「思い出させてあげる。一緒に夢を見て、そして叶えよう、シャロ」


――朝のティレル城は雨に濡れる。梢には身を寄せ合う番の鳥が朝焼けを待ち望んでいた。

 だがこの日の雨は止まない。

 何故ならば雨は恋をするからだ。


 口付けを交わす二人を、せめて夢の心地のままにと。

 雨は降り続け、そうして秘めた愛を静かに見守り、静寂を以って乙女達を祝福した。

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