六 追憶
アリスは夢を見ていた。
それは幼い頃の記憶だった。
当時アリスは未だ齢十にも満たなかった。
その頃は父のティレル卿も城館で生活をしていた。
従者等に愛でられつつ、時に悪戯をしては叱られつつもアリスは健やかに育った。
『初めまして、アリスお嬢様。シャロと申します』
いつかの年の春に彼女はやってきた。
優しい笑みを浮かべ、背の低いアリスの視線に合わせて屈む。
長い睫毛、緩やかに巻かれた髪からは淡い薫香がする。
何よりその美貌は比類なき程で、アリスはまるでお人形さんがきたみたいだ、と思った。
レディースメイドとしてアリスに宛がわれたシャロ。
アリスは彼女によく懐いた。それというのも優しい性格と、何よりも温かな笑みがあったからだ。
それを向けられ、或いは触れられるとアリスは心臓が熱くなる。
幼いアリスにその理由は分からなかったが、しかしアリスは自身の感情を大切なものとして認識していた。
『シャロ、あそんであそんでっ』
『ふふっ……はい、喜んで』
シャロは当時から言葉数は少なかったが今よりかは喋るし、感情も素直に出していた。
アリスの願いごとには笑顔で頷き、例えば悪戯をしても叱りつけたりはせず、優しくアリスの頭を撫でた。
ティレル卿はそんな二人の様子を知りつつも許容していた。どころか仲睦まじい関係性に安心した。
彼女――シャロならばアリスのよき理解者となり、その分アリスに親身になって教育や躾もこなすだろうと。
そして淑女としてアリスを導き、アリスが嫁ぐまで、よく尽してくれるだろうと思った。
『お早う御座います、お嬢様』
ある時からシャロは笑わなくなった。
声も冷淡で感情を見せなくなった。
アリスは困惑し、何かあったのかと訊ねたがシャロがそれに答えることはなかった。
彼女の変化には城中の者等が戸惑ったが、けれども一年が過ぎ、更に二年が過ぎ、時が経過するにつれ皆の認識は現状のシャロで落ち着いた。
鉄面皮とまで揶揄される無感情な様。
決して仕事を蔑ろにすることはなかったが、その生き様はある種は機械的であり、誰かは産業、工業革命の見本だとかと侮蔑した――この人物はアリスに解雇を告げられた。
兎角、シャロはとある時期を境に人が変わってしまった。
アリスは大好きだった彼女の笑みを見ることが出来なくなった。
それに対する悲しみは深く大きくて、最早彼女の笑みを見ることが叶うのは夢の中だけだった。
(どうして。どうしてなの、シャロ)
理由は不明――ではない。
本当は理解をしていた。
しかし未だ本人から真意を確かめたことはなかった。
二人には秘密があった。
それは愛しの父に対してもいえなかったことだった。
だがそんな秘密は時の経過と共に追憶の断片と化す。
(夢……夢なんだ。本当に夢の中だけでしか見ることが出来ないの……?)
夢は叶えるものではなく見るもの――シャロが口にした台詞をアリスは思い出す。
その言葉は夢の世界に響き、景色に映るシャロの笑みを掻き消していく。
それにアリスは焦燥し、シャロの笑みを護ろうとした。
小さな手足を動かして響きが掻き消す笑みを追う。
だが追えども追えども景色は崩れるばかりで、次第に辺りには虚無が広がり、アリスは立ち竦んだ。
(追っても追っても……追いつけない。なんでなの……)
それが夢であり、叶わないものだとアリスは理解をしていた。
だがそれでも諦めたくはなかった。
景色に再度シャロの笑みを取り戻そうとする。
だが恐ろしいことに、アリスはシャロの笑みを忘れてしまった。
(やだ……やだよ。笑ってよ、シャロっ……)
景色が暗黒に支配された。
何も響かず、何も生まれず、アリスは蹲り、涙を零して記憶に縋る。
愛しいその景色を、未だシャロが優しく笑ってくれた日のことを思い出そうとするが、いつしか夢は覚める。
去来する景色は色褪せ、時の経過と共に形を失っていく。
アリスは己の中の何かが奪われた気分だった。それを失う訳にはいかないと必死になる。
「やだよ、いかないでよ、シャロ!」
その叫びが今朝のアリスの目覚めだった。
外の景色は雨だった。
夏とは違い高湿度の冬の時期、冷たい雨が朝の窓辺へとやってくる。
窓を叩く雨音を耳にし、アリスは忙しく鳴り響く鼓動を鎮める為に深く呼吸を続けた。
「――……大丈夫ですか、お嬢様」
そうしてアリスはようやく彼女の存在に気付いた。
それは彼女専属のレディースメイドのシャロだった。
シャロは珍しくその表情を曇らせアリスを見つめていた。
半身を起していたアリスは声のする方へと、出入り口の方へと視線を向け、そこに立っているシャロを見つけると静かに涙を零す。
「如何なさいましたか。悪い夢でも……」
言葉を発することもなく、更には瞬きの一つもせず、まるで壊れてしまったように涙を流すアリスへとシャロは慌てて駆け寄る。
そうしてアリスを心配そうに見つめるシャロだったが――
「シャロ……」
「お嬢様……」
アリスは寂しそうに、そして悲しそうに笑みを浮かべた。
それを目の前にしたシャロは視界が揺れ胸が締め付けられる。
何故アリスがそのような状態になっているのかは謎だったが、しかし精神的負荷は多大なものだとシャロは即座に悟った。
「お嬢様、すぐに医者を呼びます。少々お待ちに――」
「いかないで……」
身を翻し再度表へ飛び出ようとしたシャロの手をアリスは咄嗟に掴む。
その力の加減は幼子らしからぬ程で、シャロは驚愕した。
更には勢い余り、シャロはアリスに覆い被さるようにベッドへとなだれ込む――否、それはアリスが無理矢理にシャロを引き寄せ、己の意思でベッドへと招いた結果だった。
「…………」
「…………」
互いの顔の距離は近かった。
いっそ唇と唇は触れても可笑しくない間隔で、互いの瞳には互いしか映らない。
アリスは熱っぽい瞳でシャロを見つめる。
それに対してシャロは毎度のように瞼を閉じようとするが不思議と閉じることが出来ない。
「……お嬢様。危のう御座います。無理に引き寄せてはいけません。それにお身体に触れてしまいます」
「…………」
「……腕を放して下さいませ。これでは外に出られません」
「…………」
「お嬢様」
「いや……」
反抗の意思を向けられたシャロは面食らう。
珍しいその態度――それは先までの危うげな空気の所為もあるのかもしれないとシャロは自己完結をする。
だが未だに不安は残るし、何よりとして理由も経緯も不明なままに現状を見過ごす訳にもいかなかった。
故にシャロはアリスの身体に触れないようにしつつ、ベッドに腕を突いて立ち上がろうとした。
「いやだっ……」
「っ……」
今度はアリスの腕がシャロの首へとまわされ、より一層互いの距離は狭まる。
アリスの自重を受けシャロは立つことが叶わなくなる、どころか既に密着していた。
互いの体温を感じる。
吐息は互いの頬を撫で、互いの持つ香りが入り混じる。
「ねえ、覚えてる、シャロ……」
「…………」
「わたしは忘れた日なんて一度もない。あの日々を……毎日笑ってくれたシャロのことを。そして――」
一度言葉を切ったアリスは再度息を吸うと残りの言葉を紡ぐのだ。
「好きだって……いってくれた日のこと」
――アリス嬢と寡言なシャロには二人だけの秘密があった。
それが全ての原因となり、それ故に互いは距離をおき、アリスはそれでも尚とシャロを求め、シャロは仮面を身に着けアリスから距離を置いた。
『好きだよ、シャロっ』
『私も大好きです……アリスお嬢様』
ティレル城と呼ばれる城館には見目麗しき少女と乙女がいる。
少女の名はアリス・ティレル。乙女の名はシャロと呼んだ。
主従の関係にある二人だったが、二人はお互いが初恋の相手だった。
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