五 雨


 雨の降るロンドン。

 夜雨に打たれるティレル城では弦を弾く音がある。


 コンサートグランドを撫でつけるように弾くのはシャロだった。

 軽やかなハーモニー、そしてメロディから生れ落ちる世界は聴く者の心を澄ます。


 雨粒は窓を叩くのだ。

 それは彼女の奏でる音楽に身を寄せんとする為だった。

 優し気な囃子を耳にしながらも、しかしシャロは指を休めない。


 曲の名はない。即興だった。

 普段から感情を思わせない彼女だが、不思議と音色からは感情が豊かに伝わってくる。


「ふわぁー……」


 瞳を瞑り世界を構築するシャロ。

 そんな彼女の傍では一人の少女が――アリスが鍵盤と向かい合うシャロを眺めていた。


 その指の動きからペダルを踏む動作の一つ一つを注目する。

 更に視線はシャロの表情にまで向かう。


 まるで画に描いたような――そう思う程に鍵盤を叩くシャロは名画のそれだった。

 見てくれはそもそも佳人に相応しく超絶の域だが、普段の鉄面皮が嘘のように彼女の顔には笑みがあった。

 長い睫毛が時折動きを見せる。

 何を思うのか――本人にしか分らないが、伝う音、そして空気感からアリスはシャロの機嫌が頗るよいものだと察する。


 アリスは再度彼女に注目する。

 シャロの長い指が鍵盤を叩く。

 そのしなやかな指、白磁のような肌の質感、そして緩く巻かれた長い黒髪に頬を染める。


(……きれい)


 美しいと誰もが思うが、アリスは見惚れることすら恥じらう。

 それ程にシャロの醸す空気は極まっていた。


 アリスは、いっそ、外の雨はシャロが降らせているものだとすら思った。

 今宵の雨は彼女の音楽と戯れ、踊る為にあるのだと思った。

 優しい律動はロンドン市を包み安寧を齎すだろう――つまり、アリスはシャロのピアノが大好きだった。


「……このような感じで宜しいでしょうか」

「あっ……うん、うんっ。すっごくよかったっ」

「お褒めに与り恐悦至極……」


 が、アリスが浸っている合間にアウトロへと移り最後のコードを叩いて了となる。

 唐突に世界が終わったことにアリスは呆けたが、普段通りの無表情を装着したシャロを見たアリスは、少し物寂しくも思ったがシャロを絶賛した。


「久しぶりに聴いたぁ、シャロのピアノ! ねぇ、なんであんまり弾かないの?」

「……畏れ多いことですので。お許しを得たとはいえ、わたくし程度の者がグランドサイズのピアノに触れることは憚られます」

「そんなことないのに……ねぇ、やっぱりシャロがピアノを私に教えてよ」

「なりません。専属の講師の方がいらっしゃいます」

「シャロのピアノが好きなのに……」


 今宵、アリスは駄々をこねた。

 その内容というのは、久しぶりにシャロの奏でる音楽が聴きたい、というものだった。


 これを寄越されたシャロは悩む。

 シャロは幼い頃からピアノを得意としていたが、大きなピアノに触れることには抵抗があった。

 経験としてはスクエアが最も親しみがある。


 ティレル家に勤めるようになってから何度か触れる機会はあったが、その度に彼女は何ともいえない気持ちになった。


 荘厳、に足すことの高揚感。

 弦の重さから音の弾みまで、兎角、全てが別次元で、一瞬で彼女はグランドに恋をする。

 だが頻繁に触れることは許されず、また、やはり彼女の謙虚な性格故か己から弾こうとすらしなかった。


 しかしそれでも触れる機会はあった。

 その理由の全てはアリスだった。

 アリスが幼い頃からシャロは面倒を見ていたが、アリスは特にシャロのピアノに夢中だった。


 彼女に求められたらシャロは断れない。

 だがそれを理由にピアノに触れられるとなると、実のところシャロも悪い気はしないし、久しく音楽と向き合うと、それは己との対峙にも思えた。


 音楽に生涯を捧げた訳ではなかった。

 だが命を形成する一つのものとして、シャロにとって音楽は欠かせない要素だった。


「さあ、今宵はこのくらいで」

「えーっ……」


 シャロは席から立ち上がりアリスへとそういうが、アリスは物足りない様子だった。


「あ。ねぇ、そうだシャロ。私が歌うから範奏をお願いっ」

「歌、で御座いますか」

「うんっ」


 乞われたシャロは仕方なしに再度腰かける。


「それじゃあ、いっくよーっ」

「畏まりました」


 三つの指を立てたアリスの指示を見てシャロはキーを把握する。

 ジャムセッションだった。

 Eから始まり、スケールをなぞるシャロはなんとなしにアリスの音階を把握し、彼女の歌声に添えるように音を重ねた。


 こういった戯れは初のことではない。

 これもアリスに幼い頃から要求されてきたものだ。


 空気はカプリッチョ。

 アリスの性格からして展開は先が読めない。

 故にシャロは変則的な旋律を奏でる。それに応えるようにアリスも笑いながらソプラノを奏でた。


(……心地がいい)


 ピアノと戯れる少女の美声。

 シャロは自身の音色ではなくアリスの歌にばかり気が向く。


 ハイトーンな、そして甘えるような歌声。幸

 せそうな笑みを浮かべ踊るアリスはシャロの舞台を花咲かせる。


 その景色に心地よさを、そして幸福を得たシャロは自然と笑みを零す。


(楽しいね、シャロ……)


 シャロの表情を見てアリスは胸が締め付けられた。頬に熱が差し歓喜が湧いてくる。

 アリスは段々とシャロの傍へと歩み寄ると、いつしか互いは互いを見つめ合っていた。


 アリスが微笑む。

 シャロも微笑みを返す。

 今宵の舞台に水を差す者は誰もいなかった。


 窓の外ではロンドンを静寂に包む雨が降り続く。

 二人はこの世界には己達しか存在しないのだと思った。


「……了、で御座います」


 だがそんな世界もシャロの手が止まると消え去る。

 アリスは一つ呼吸を置き、対してシャロは瞳を伏せて無感情に言葉を紡いだ。


 二人の距離は近かった。

 アリスの眼前にはシャロの横顔がある。

 アリスは意図せず、無意識のままに彼女の頬へと――シャロの頬へと手を添えた。


「……楽しかったね」

「……はい」

「ねぇ。やっぱりシャロが教えて。ピアノを」

「それはなりません」

「……どうしても?」

「……お嬢様。お手を……」


 シャロは未だに瞳を伏せたままだ。

 その理由はアリスを視界に捉えない為だった。


 二人は描かれた景色で存分に互いを見つめ合った。

 心を交わし、全てが完了した時、そして現実を取り戻した時、シャロは胸に苦しみを抱く。


 だがそんな彼女に熱を与えるのはアリスだった。

 その瞳は揺れ、シャロはそれから逃れようとした。

 対するアリスは双眸を真っ直ぐにシャロへと向ける。


「楽しかったね、シャロ。まるで……昔みたいに」

「…………」

「昔はもっと、わたし達の距離は近かった気がする。もっと身近で、もっと……幸せだった気がする」

「…………」

「シャロ。わたしを見てよ」


 その一言にシャロの心臓が跳ねる。

 だが瞳は閉ざされたままで、表情にも変化はなかった。


「手を取って、お膝の上に乗って……昔のままに接しようとしてくれる。でもね、シャロ。なんで笑ってくれないの」

「…………」

「さっきまで本当に幸せだった。シャロもそうでしょう。笑ってくれた。前みたいに……笑ってくれたじゃない」

「…………」

「それとも夢だったの――」

「夢で御座います」


 シャロはアリスの手に己の手を重ねると退け、更には無感情な瞳でアリスを見つめた。


「夢なのです、お嬢様。全ては夢。過去は過去なのです」

「シャロ……」

「……夢はいつか覚めるもので御座います」

「……なら、いつ夢は叶うの」

「叶いません。夢は見るもので御座います」

「っ……」


 アリスの瞳に涙が浮かぶ。


「さあ、お部屋へとお戻り下さいませ、お嬢様」

「…………」

「お嬢様――」

「シャロの夢はいつ覚めたの」


 窓を叩く雨音。

 次第にそれは強まり、ティレル城を包み込んでいく。


「……とうの昔に」

「……叶えようと思わないの」

「…………」

「ねぇ、シャロ。いつかわたしも夢から覚めるのかな。このお屋敷から出て、誰かの下にいくんでしょ」

「……はい」

「それって幸せなことかな。わたしはずっと夢を見ていたいよ。シャロがいれば――……」


 景色には雨音が響くのみ。広間では沈黙が生まれ、二人は顔を伏せ言葉を失った。


「……お部屋へどうぞ」

「……最後に一ついい」

「なんでしょうか」

「シャロの夢ってなんだったの」


 シャロはアリスに背を向け先導するように足を運ぶ。

 そんな彼女へと最後の質問を投げかけたのはアリスだった。

 シャロが振り返ることはない。ただ、唇を噛みしめ、悲痛な表情をした彼女は――


「忘れました」


――そう呟く。

 シャロの背に立っていたアリスは、その言葉を聞いて静かに一筋の涙を零した。

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