四 語り部


「なりません、お嬢様」

「ぶーっ……!」


 この日、アリスは我儘をいった。

 その内容は市邑を見て回りたいというものだった。


 貴族諸侯の多くは城、或いは屋敷から外へと出ることが少ない。それは無用だからだ。

 だが年頃の彼女は常日頃退屈だった。

 勿論忙しない身であるのは変わらない――内容は教育がほとんどで、目覚めてから寝るまでは多くの素養を授けられるが精神的に暇だった。

 本日は芸術の教科を終えた頃、アリスはシャロを睨み付ける。


「なんで外に出ちゃいけないのっ」

「無用だからで御座います」

「いつもそればっかりっ」

「外は危のう御座います」

「子供じゃないんだよ? そうそう危ない目になんて遭わないよっ」

「ご自身の立場をお忘れで御座いますか、お嬢様」

「侯爵令嬢がなんなのっ」

「あなた様を目当てに何かを企てる輩がいるかもしれません」

「憶測じゃないっ」

「危機の範疇で御座いますれば。それを排除するのが当然で御座います」

「他のお家の皆も退屈だっていってたよ、わたし達は鳥籠の中にいるみたいだってっ」

「不自由は御座いません」

「でも自由もないよっ」

「……お嬢様。どうかお聞き分け下さいませ」

「むぅーっ……」


 アリスはここ最近こうして駄々をこねた。

 外の景色が見てみたい、歩いてみたい、買い物というものをしてみたいと。


 彼女は外の世界に興味津々だった。

 例えば愛馬のクラウンに乗り付けて丘から市邑を見下ろせば羨望の眼差しを向けたし、従者達に今時はどういった物が外で流行っているのかと訊ねもした。


 それを傍で聞き、或いは見ているシャロの胸中は複雑だった。

 己の主が外の世界に興味を示すとあればそれを叶えてやりたいとも思う。


 ところがそういう訳にはいかない。

 貴族とは外に出る必要はないが、しかし貴族を目的とする者は少なくはない。

 外で何が起こるかは不明だ。ましてや歳若く知識の拙いアリスを外へ出すことは尚更難しい。


 こういう、所謂お嬢様の退屈は多く見受けられる。

 各家では常々お嬢様方は外の景色に憧れた。

 お忍びするような真似をする者も少なくはなかった――パパラッチにあうのが往々の結末となる。


 兎角、シャロは不機嫌そうに頬を膨らませるアリスの前に立つと、いつもの鉄面皮で罷りならぬ、と主の要望を拒絶した。


「ねぇ、知ってる、シャロ。外では今、演劇っていうのが流行ってるんだってっ」

「……お嬢様」

「パンクロフトっていう劇団がね、今ロンドンにきてるんだって。すっごく面白いっていってたっ」

「お嬢様」

「あとね、あとね、ボンドストリートにはいっぱいお洋服や装飾品が売ってるんだって。今の流行りはね――」

「お嬢様っ」

「っ……」


 珍しく語気を荒げたシャロ。

 アリスはまるで叱られた仔犬のように面を伏せた。


「……憎くていっているのではありません。あなた様のことを想っていっているのです」

「……分かってるよ」

「どうかご理解くださいませ、お嬢様」

「……うん」


 アリスの声色は沈み、悲しみを思わせる。

 それを耳にしたシャロは僅かに手に力を籠めたが、相変わらず表情は崩れない。


「……お嬢様」

「……ごめんね。また我儘いっちゃった。そうだね、分かってる。私はティレル家の娘だから。だから……我慢する」


 無理矢理に取り繕ったその笑顔は偽物だった。

 シャロはそんなアリスを真正面から見つめると、何故か一つ咳払いをする。

 そうしてアリスの座る前に膝をつくと、瞳を伏せて静かに語り始める。


「……今時はカルティエが流行っております。製法は巧みで御座いますので、信頼も間違いないもので御座います」

「……シャロ?」

「他にも最近ではエルメスと呼ばれるブランドが人気を博してきているようです。私も拝見させて頂きましたが、恐らく近い内には世界最高峰のブランドとなるでしょう」


 何を急に――そう思うアリスだったが、シャロは口を休めずに言葉を続けた。


「劇団は各地を回っておりますが、ロンドンには後一月程滞在するでしょう。内容は社会風刺などで御座いますが、中々に洒落もきいておりまして、抱腹ものです」

「……うん」

「ロンドン橋の隣で、タワーブリッジという橋が建造される予定です。ロンドン橋は……見てくれはあれですので、期待したいところです」

「シャロ……」

「キューガーデン近くにあるニューンズというお店には、メイズ・オブ・オナーという伝統菓子があります。それは甘くて美味しくて、お嬢様好みの焼き菓子で御座います」

「シャロっ……」


 アリスは涙を静かに浮かべると、己の前に膝をつくシャロを抱きしめた。

 やってきた温もりにシャロが慌てる様子はなかった。

 相変わらずアリスには触れようともせず、抱き返すこともしなかった。

 しかし彼女は珍しく優しい声色で言葉を紡ぐ。


「お嬢様……どうかお許し下さいませ。あなた様を外に出す訳には参りません。ですが……あなた様が望むのであれば、わたくしの知り得る限りのことをお伝えいたしましょう」

「うんっ……うんっ……」

「辛いお気持ちですか」

「ううんっ……有難うね、シャロっ……」

「……畏れ多いお言葉で御座います」


 アリスは強くシャロを抱きしめる。

 或いはそれを思いやりと取るかは個々の判断によるが、アリスには優しさに映った。


「外には多くのものが御座います。そこには魅力的なものも当然あります。好奇心旺盛なお嬢様でありますので、それらに興味を示すのが当然で御座います。御歳もそういう時期でありますれば」

「うん……」

「ですが、それと同時に危機は数え切れず、また、やはりよからぬ目を向ける者もおります。そういったことも、どうかご理解下さいませ」

「……うん」

「お嬢様。どうか私をお許し下さいませ……」

「シャロは悪くないよ。ううん、とっても優しい。ねぇ、もっと聞かせて。お外には何があるの?」

「そうですね、何から語りましょうか……」


 アリスはシャロを椅子へ腰かけさせるとその膝の上へと座った。

 彼女を落とさぬように優しく擁するシャロは、甘い香りと温もりを感じながら唸った。


「ねぇ、さっきのメイズ・オブ・オナーってどういうお菓子なの?」

「はい。メイズ・オブ・オナーはパイのようなものでして、中心にはチーズとカスタードがあります」

「美味しそうだねっ」

「はい、大変美味で御座います。食感も素晴らしいものです。さくりとしていて、ほわっとして」

「ねぇねぇシャロ、それって食べられないのかなっ」

「お望みとあれば、すぐにでも手配いたしましょう」

「うん、食べてみたいっ」

「畏まりました……どなたか、至急お使いに出向いてはくれませんか――」


 程なくして午後の茶の席にはメイズ・オブ・オナーを頬張るアリスの姿があり、そんな彼女の傍で質問を寄越されるシャロは、一つ一つを丁寧に受け答えた。

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