三 腕の中の夢


 朝霧の中に響く音あり。

 それは連なる三拍子だった。


「わっ、あわっ」


 ロンドン市近郊にある小高い丘の上にはティレル城と呼ばれる城館がある。

 主であるティレル侯爵はこの時分、インドへと渡り戦争の指揮をしていた。

 一人残された愛娘であるアリス・ティレルこそが城主代理だった。


 この日の朝、彼女は馬の手綱を握りしめ広い庭園の景色を駆けていた。

 傍には講師が同じく馬に乗り付け指導を施す。


 時は十九世紀中葉。霧の都と呼ばれた都市は濃い霧に包まれ一寸先も見えない。

 露の結ばれた葉は馬が駆けると雫を垂らし、凪いだ風に答えるように小さく嘶きを上げる。


「ん、よいしょっ……えへへっ。今日も元気だね、クラウン?」


 鬣を撫でつけながらアリスは己の白馬に優しい声を紡ぐ。

 馬は再度小さく鳴くと速度を緩めアリスを気遣うように静かに歩きだした。


 クラウン――アリスの愛馬だった。

 アリスは専ら乗馬が好みだった。

 貴族として馬は当然の嗜みだったが、女性にしてはアリスは珍しく芸術関連よりも馬に執心していた。


 曰く「景色を駆け抜ける速度が病みつき」らしい。

 淑女としてその理由は頷き難いが、父ティレルはそんな彼女の性格をよく知っていたし、そのくらい元気ならば親としても安心だと笑った。


 普通、貴族令嬢となれば音楽、踊り、芸術等を素養として躾けられるが、アリスは勉学や芸術はどちらかといえば苦手としていた。特に数字を見ると昏倒する程だった。

 世界史、他に国史には興味を示すがその程度で、結局、彼女は毎朝の日課としている乗馬を何よりもの楽しみにしていた。


 霧の景色を駆けるアリスとクラウン。

 息はぴったりで、クラウンの様子からしてアリスに対する信用や信頼は絶対的とも呼べる。

 しかし獰猛な気性でもあり、アリスがその日に跨ると最初は自身の能力を誇示するように大きく動きまわる。

 ややもして満足をすると以降は従順で、アリスはそんなやんちゃなクラウンを気に入っていた。ある意味では似た者同士ともいえる。


「よーし、クラウン? あっちに行こう!」


 元気よく言葉を紡ぐアリス。

 指示通りにクラウンは蹄を鳴らしながら軽やかに景色を走り出した。

 その後を追従する講師も馬に鞭を打つが、浮かべる苦笑からして、やはりアリスの性格には思うところがあるらしい。


 朝霧に包まれたティレル家の庭園ではアリスの可愛らしい声が木霊するが、そんな可憐な小鳥の囀りを聞くのが侯爵家付近に住まう住民達の一日を迎える儀式でもあった。

 直接に見た数は少ないにしても、毎朝響くソプラノに平民達は頬を緩める。

 ティレル侯爵の一人娘は大層に元気で素直なお方であると。


 アリスは庶民受けがよかった。

 露出することは滅多にないが、その美貌も含めて人々にはよく注目されていた。

 更には現状、父である侯爵の不在も併せて人々は彼女の胸中を慮った。


 侯爵とアリスはとても仲睦まじく、理想的な親子とまで称された。

 そんな愛しの父が戦地へ出向けば当然、彼女の胸中は穏やかではない。


 アリスは知る由もないことだが、人々は、特に侯爵家に所縁のある者達は、屋敷へ訪れると常々彼女に対する言葉を残していき、それを託された従者は、或いは認められた手紙を手に持ちアリスの専属メイドであるシャロへと手渡した。


「…………」


 アリスの部屋にその女性はいた。

 窓辺に寄り添い外の景色を元気よく走り回るアリスとクラウンを見つめている。


 その女性はレディースメイドのシャロだった。相も変わらずに寡言で口を開くこともなかった。

 しかし普段の瞳の色合いと比べて今の彼女の瞳には違う何かがあった。

 それは感情を思わせる色合いで、瞳孔の奥では煌めきが躍っていた。


「……あまり無茶をさせてはいけませんよ、クラウン」


 遠くからアリスの愛馬へと注意を向けるシャロ。

 当然言葉が届く訳もないが、その言葉の内容は単純にアリスを心配してのものだった。

 彼女は現在、アリスの部屋の掃除をしている。既に床は終了し、残るはベッドのみとなった。

 衣服類――アリスが身に纏っていた物も既に他の従者に洗濯を任せている。


 シャロは窓に背を向けるとクイーンサイズのベッドへと歩み寄り、天蓋から下がるレースを手で払い褥へと手を伸ばした。


「……まだ温かい」


 手を伸ばし、触れると先までここで寝ていた主の体温を感じることが出来た。

 既に朝食後で、アリスの寝起きから幾分か時は経過していたが、それでも温もりは微かに残っていた。


 シャロは数瞬動きを止める。

 そうして何故か俯くが、息を整えた彼女は再度ベッドメイキングの作業に戻った。

 シーツを変え、それを折りたたむ。そうすると今度はアリスの持つ薫香が解放され、これに彼女は包まれた。


(……甘い香り)


 アリス特有の香り。それは花蜜を思わせるような悩ましいものだった。

 それを嗅いだシャロは再度動きを止める。

 瞳は伏し目がちになり、腕の中にあるシーツへと視線は落ちる。

 同時に彼女の鉄面皮に何となし赤の色合いが差した。

 それに彼女自身が気付いているか否かはまた別としても、彼女の心音は確かに高鳴っていた。


「お嬢様……」


 呟き、彼女は腕の中にあるシーツを抱きしめる。

 その表情は辛そうな、悲しそうなものだった。

 その理由は定かではない。不明だ。

 だが悲痛な声で主の名を呼んだ彼女は確かに意思を持ち、感情を持つ一人の女性だった。


「あっ……いけない、私としたことがっ……」


 それから如何程に時が経過したのか、彼女は正常を取り戻すと顔を上げ、慌てて景色を見渡す。

 変わらずに景色は無人で、部屋の主も帰還を果たしていない。

 だが外から彼女の声もしなかった。


 外から声が響かない――それはつまり主が運動を終えたことを意味した。

 彼女は焦燥する。

 急いで部屋を飛び出ようとしたが、しかし同時に腕の中にあるシーツの存在を思い出す。


「え、と……あ、うっ……」


 彼女は珍しく狼狽えて動揺していた。

 更には混乱しどうすればいいのか分からなくなってしまった。

 単純に考えて腕の中のシーツを放り出し扉から外に出ればいいのに、彼女はシーツを手放せなかった。


 それは決して変態的な意味合いではなくて、混乱した彼女の優先順位がごちゃ混ぜになってしまった結果だった。

 恐らく既に朝の運動を終えたアリスがシャロの姿を探しているだろう。

 珍しく姿を見せない己の従者は何処だろうかと。

 そうなるといよいよ彼女は急がねばならなかったが、しかし時は既に遅かった。


「はぁ、楽しかったぁ……あれ? シャロ、ここにいたんだ?」

「お嬢様っ」


 扉を開けて入ってきたのは部屋の主であるアリスだった。

 彼女は他の従者に手渡されたタオルで顔を拭きながら満足気な表情で帰還を果たす。

 そうして部屋の中央でシーツを手にしどろもどろしていたシャロを発見すると、何とも無い調子で言葉を紡ぐのだが――


「申し訳ありません、お嬢様……私としたことが出迎えの一つもできずっ……」

「え? んー、そんなに気にしなくていいよ? いつもいつも忙しそうだし。だからそんな落ち込まなくっても……」

「いいえ、なりません。レディースメイド足る者、常に主人の傍にて御身の世話を預かり賜るもので御座います」

「ん……そうだけど、シャロは誰よりもよく働いてるし、今日だってお掃除で忙しかったんでしょう? それに他の人がやってくれたから――」

「後れを取るなど……最早従者失格で御座います……」

「わっ、わっ、そんなに落ち込まないで? いいよ、大丈夫だってば、ね?」

「しかし……」

「うーん、相変わらずシャロは融通利かないなぁ……ん?」


 思案するアリスだが、彼女は今になってシャロの腕の中にある物に気付いた。


「シャロ、なんでシーツ抱えてるの?」

「はっ……」

「あ、もしかしてそれを洗おうとしてて遅れたの?」

「あっ、いやっ……」

「……?」


 珍しい動揺を見せるシャロに尚更アリスは首を傾げる。

 そうして何故か瞳を伏せたシャロだが、次に紡いだ台詞に――


「……申し訳ありません。その……夢心地で……」


――顔を赤らめて紡いだ台詞に、アリスは尚更訳が分からなくなった。

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