二 温もり


 その日の午後、アリスは筆を走らせていた。

 傍にはシャロが立ち、黙して小さな少女を見つめている。


「うぅん、国史って学べば学ぶほど面白いね、シャロ?」

「然様で御座いますか」

「うん。シャロが教えるの上手なのもあるけど……イギリスって結構派手なことしてたんだねぇ」

「栄えある大英帝国で御座いますれば」

「先の百年戦争もそうだけど……フランスとの確執の歴史って面白い!」

「革命期以降も確執は続きましたが……お嬢様は血の気のあるお話が好みでしょうか」

「ううん、そういう訳じゃないの。けど歴史って戦争や対立、あとは領地の拡大拡張があるからこそ生まれると思うの」

「……仰る通りで御座います」

「他にも清やロシアとの衝突の数々……数え切れないくらいに争いがあるね」

「国を育むというのはそういうもので御座います」

「……今もまた戦争してるんでしょ?」

「はい。今はインドにて」

「……お父様もそこで頑張ってるんだよね?」

「それが貴族の務めで御座います」

「……うん」


 時は十九世紀中葉、英国はインドの植民地化を目論んでいた。

 イギリス東インド会社を通じて経済的支配から始まり彼の国を衰退へと追い込む。

 この作戦は功を奏し、インド国内では大混迷が続いたが、現状はシパーヒーを筆頭に英国と対立をしていた。

 この第一次インド独立戦争――所謂インド大反乱――においてティレル侯爵は自軍を率いてインド攻略を目指していた。


「血はお嫌いですか」

「歴史を築くのが戦争なのは分かるよ。けど……他国を蹂躙支配するようなのは嫌い」

「然様で御座いますか」

「ねぇ。なんでお父様も他の人たちも相手の国を無理矢理侵攻できるの?」

「それが国家繁栄の全てなのです、お嬢様」

「……お父様は優しい人だよ」

「存じております」

「そんなお父様も……クイーンからの令があれば人を殺すの?」

「…………」


 言葉に詰まるシャロ。アリスは悲痛な面持ちだった。

 彼女の長い睫毛が震えていることに気付いたシャロは閉口し、更には瞼を伏せる。

 刹那して呼吸を整えたシャロは、諭すように言葉を紡いだ。


「お嬢様。国とは、国家とは……人々の住まう家をいいます」

「家……?」

「はい。現状、大英帝国は嘗ての割拠の時代とは異なり、ブリテンとアイルランドの併合化に伴い必然的に国民の数が増えました。生活は厳しく、先のアイルランド側での飢饉も他人事ではありません。国家とは国民を生かす家なのです。国土、ないし領地拡大拡張化、制圧支配を旨とした政略や軍略……全ては皆を生かす為に必要なことなのです」

「でも、なら、他国を侵略することは相手のお家を壊すことなんじゃないの? そこに住む人たちを傷つけて、無理矢理服従させるなんておかしいよ……」

「……それも必要なことなので御座います。いずれ、クイーンは御自身の御手にて彼の国を統治なされることでしょう。その時こそは英国領インド帝国となる……我が国家に連なる存在となるのです、お嬢様」

「そうやって平和をつくるの? それは正しいことなの?」

「必要なことなのです」

「……分からないよ、わたしには」


 アリスは瞳を伏せて呟く。

 シャロはアリスの様子を見て如何したものかと思案するが、結局、正しい解は見当たらなかった。


「……お嬢様。今日の授業はここまでにしましょう」

「うん……」

「……お茶を淹れてまいります」


 結局、シャロはアフタヌーンティーを用意する為に一度アリスの下を離れる。

 孤独になったアリスは自室で何をするでもなく呆けていたが、視線は窓の外に向かっていた。


 首都ロンドン。中央へ向かえば女王の住まうバッキンガム宮殿がある。

 小高い丘の上から窺うことは出来ないが、アリスは女王を思った。


 優しく、それでいて強い人――会う度にアリスはそう思った。

 言葉を交わした数は少ないが、それでも幼い彼女にも女王の持つ威厳や風格、何よりとして絶対者足る王としての覇気とも呼べる空気感が理解出来ていた。


 世はヴィクトリア朝とも呼ばれ、後にヴィクトリア女王はインドの制圧が完了すると初代インド女帝を名乗るに至るが、この当時のアリスはそれを知る由もない。


 十九世紀のイギリスは怒涛とも呼べる勢いだった。

 各国間との軋轢は絶えず続き、常々戦火が巻き起こる。


「……お父様」


 戦争が勃発すれば軍を動かすのは当然貴族だった。


 貴族とは斯くあり――貴族は働かず、貴族は出歩かず。

 貴族が働く必要はない。

 一代二代程度の男爵、子爵家ならばいざ知らず、侯爵の位を賜るティレル家には収入源など腐る程にある。

 歴史ある貴族とは数多の土地、屋敷を所有しているのが往々であり、それらを貸し与え、それに対する賃貸料のみで十分に生活は可能だった。


 出歩く必要――皆無だ。

 出歩くとすればそれは貴族足り得ない。

 買い物に出かける必要もない。

 それらは全て向こうからやってくるのが通常だ。衣服、他様々な美容品に関しても同じだった。


 ましてや学校へと出向く――論外だ。

 専属の講師や教師がつくのが当然だった。


 そんな貴族が働く時というのは戦時、ないしは政務等だった。

 後者が労働に含まれるか否かはさておき、政務等でも屋敷から出ることは、通常ならば少ない。

 外に出向く時はパーティ等がある場合のみ。その場合もやはり馬車と従者が付き添う。


 自らの足で街を歩く経験をする貴族令嬢など存在しない。

 いたとするならば歴史の浅い御家柄と揶揄されるのが世上の反応だった。

 暮らしに不自由はなく、日々は満たされる思い――アリスはそう痛感するが、けれどもその生活は多くの犠牲の上に成り立っているのだという自覚があった。


 そしてその犠牲を築くのが己の家だということも彼女は強く実感していた。


「いつになったら戦争ってなくなるんだろう」


 呟くアリスだが、それに対する景色の返答は沈黙のみだった。


「失礼いたします」

「……うん、どうぞ」


 ややもして先程部屋を出たシャロが戻ってきた。

 ワゴンを押しながら入ってきた彼女だが、視界に入ってくるのは外の景色を見つめているアリスの姿だった。

 宛らに深窓の令嬢とは正しくだと思いもするが、シャロは黙して近付き、アリスの前に膝をつく。


「……お嬢様、どうぞ」

「ん、ありがとう」


 シャロは紅茶を注ぐとアリスへとそれを向け、アリスはカップを傾けた。

 口腔へと内容を含む。

 午後の茶の文化はこの時代から広まるが、ティレル家でもそれは通常の景色だった。


 茶を口にしてもアリスの表情は晴れない。

 いつもならば喜んでスコーンやケーキを貪るだろうに、先の件が関係してか酷く気分は落ち込んでいた。


「ねぇ、シャロ」

「何でしょうか」

「わたしもいつか、人を殺すのかな?」


 その言葉を耳にしたシャロの手が止まる。次いで瞳の奥の瞳孔が僅かに開いた。

 それは彼女の動揺を如実に語る反応だったが、彼女は悟られまいと平静を取り繕った。


「有り得ません」

「……私は侯爵の娘だよ?」

「それでも有り得ません」

「それは……いつか、わたしの旦那様がすることだから?」

「……はい」


 旦那様――いつかはそんな存在が彼女にもできる。

 それは当然のことだが、シャロは眉根を寄せて僅かに面を伏せる。

 彼女の反応をアリスは見ていない。相変わらず視線は窓の外へと向かっているからだ。

 ワゴンの傍で操作をしていたシャロは背から投げかけられた台詞に言葉を返すが、その声がほんの少しだけ震えていたのはシャロ本人のみにしか気づき得ないことだった。


「お父様を悪く思った時なんて一度もないよ。血の気のある歴史も嫌いじゃない。けどその最中に立たされると嫌でも実感しちゃう。わたしも同じなんだなって」

「…………」

「ティレル家は名だたる武家、騎士の家系。戦時とあらば真っ先に虎口へまっしぐら……誰よりも血を浴びて誰よりも血を流す家。ねぇ、わたしも同じでしょ、シャロ」

「……いいえ、違います」

「何でそういいきれるの?」

「あなた様は……そうはなりません。マスターと同じくとても愛情深くお優しい心をお持ちになり、更には……他者に対して慈しみの気持ちを向けます」

「慈しみ……?」

「それは難しいことなのです、お嬢様。人間、生きるとなれば全身全霊で御座います。他者の幸よりも己の幸を優先するものなのです。ですがあなた様は他者の幸も願う。それは普通ではありませんが、それはとても……とてもお優しい気持ちで御座います」


 シャロはそういうとアリスの眼前で再度跪き、彼女の手を取る。


「シャロ……」

「……気安く触れることをお許しくださいませ。しかし、あなた様は酷く悲しんでおられます。あなた様を癒す術を私は存じ上げません。ですがこうすることで……いつの日か仰っていたように、私に触れることで安心を得られるならば、私の体温を差し上げます」


 シャロの手は酷く冷たかった。おまけに肌は荒れていた。

 しかしその理由も日々忙しなくアリスの身の回りの世話をするからであり、アリスはそれを彼女の温もりに触れることで理解する。


 アリスはシャロの瞳を見つめ返す。

 何を思うのか、何を考えているのかも窺えないシャロの瞳。

 双眸は揺らぐこともなく、まるで鉄のような、それ程の無機質を思わせた。

 だがアリスは気味悪がったりしない。それがシャロだと理解しているし、シャロの不慣れな優しさを受け取ったからか、逆に心拍数は跳ね上がり頬に赤が差した。


「……ありがとうね、シャロ」

「いえ、この程度」

「この程度なんていわないで? 十分安心できたよ」

「……問題の解決にはなりませんが……」

「ううん、それでよかったと思う。これはきっと、わたしが考え続けるべき事柄なんだよ。だからいいの」


 アリスはシャロの手を握りしめながら、そして瞳を見つめながらに笑みを浮かべる。

 それに対してシャロは寡言だったが、瞳の奥では感情を思わせる揺らぎが生まれた。


「失礼しました、お嬢様。私の手など……」

「ふふっ……出過ぎた真似、とかいうつもり?」

「……はい」

「前にもいったでしょ? こうして触れ合えることが嬉しいって。昔みたいに……」


 そう言葉を呟きかけてアリスはかぶり振るう。

 それを見たシャロも言葉を失うと瞳を伏せ、静かに立ち上がりアリスから手を離してしまった。


「…………」

「…………」


 二人は視線を逸らし、結局、仲睦まじ気な空気から距離のあるような空気になる。


「……今日のスコーンはなにかな?」

「はい。チョコチップ入りで御座います」

「やったっ。大好きなんだ、それっ」

「然様で御座いますか」


 無理矢理に取り繕ったようにアリスはシャロと午後の茶を楽しむ。

 ただ、二人の表情が何処となく晴れないように見受けたのは、恐らく気のせいではない。

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