第6話 リベンジゴブリン
「んぐっ、ぷはぁ」
自室にてコップに注がれた透明な液体を飲み干す少年が一人。液体は病院で貰う粉薬を水に溶かしそれを酢で割ったような風味であり、それを飲む凛音の顔はいつも歪んでいた。液体を飲み干すと凛音は胡座をかいて背筋を伸ばし、目を瞑って瞑想をするような体勢に入った。
魔力のこもった水を飲み干すと凛音はへその下あたりからじんわりと熱が沸き上がってくるのを感じ、熱は旋毛から爪先まで瞬く間に身体中を満たした。
全身に浸透した熱を感じながらまず凛音は左腕に意識を集中させた。左肩に少し力を入れ血液の流れを止めるようなイメージを浮かべ、同時に左腕の体温がどんどん下がっていくような錯覚を自主的に脳内に作り上げた。すると全身に巡っていた熱が左腕から徐々に抜けていくような感覚を覚え、代わりにその他の場所の体温が少し上がったような感覚があった。左腕から完全に熱を抜くと今度は左足、右足、そして首という順番で同じような意識とイメージを作り、一か所ずつ熱を抜いていった。行き場を失った熱たちはまだ流れの遮られていない右腕へと自然と集まっていき、右腕に感じる熱は膨大なものになっていった。右手に熱が集中しきったのを感じると凛音はだらんと下げていた右手を上げて手の平を上にし、まるでワイングラスを持ち上げる時のような姿勢を取った。そして手の平や5本の指に力を込め、はち切れんばかりに溜まっている右腕の熱を手の平の上に沸き上がらせるようなイメージを作った。
凛音が一連の意識やイメージを作り上げると、凛音の右の手の平の上には白く発光した塊のようなものが出来上がった。それは眩く光り輝いており、まるで空に浮かぶ星の一つが手の平の上に浮かんでいるようだった。
数十秒の間光の塊が手の平の上で揺蕩っているのを確認すると凛音は張りつめていた集中を一気に解き放った。すると手の平に浮かんでいた光り忽ちに消え失せ、右手に集中していた熱も一瞬にして元に戻ってしまった。
「ふぅ~、そろそろ時間だし終わっとこうかな」
凛音は一仕事終えたかのように一息付いた。少しばかり疲弊した様子で息は微かに荒く肌もじんわり汗ばんでいた。
「なんだかんだ馴染んできてる気がするな」
6月も半ばに差し掛かっており、気温や日差しは本格的に夏を感じさせるものとなってきていた。凛音がグランや茜たちと出会い魔力をコントロールする特訓を始めてから早くも1ヶ月が過ぎ、凛音は微かではあるが手応えを感じていた。
体の中を蠢く熱に侵される感覚に慣れてきたのか、はたまた耐性ができたのかは分からないが、始めた頃に比べて息苦しさやしんどさをそれほど感じなくなってきていた。また当初は5分ほどすれば立っていられなくなるほどクタクタになっていたのたが、今では1時間ほど練習を続けても僅かに余力を残せる程度になっていた。
そして何よりも実感しているのが魔力というものを操っているという感覚だった。先ほどのように流したい位置に魔力を流すという行為と、それに必要なイメージや感覚を凛音は確実に掴んでいた。
休日にグランや茜と共に行う特訓と日々の練習の成果が確実に実を結んでいる証拠だった。
「そろそろ出なきゃな」
少し休んだ後凛音は身支度を整え玄関へと向かった。
「今日も出かけるんだね。いってらっしゃい。夕飯までには帰ってくるんだよ」
「うん。いってきます」
玄関に行く途中凛音は祖母から声をかけられた。ここ1ヶ月ほど、凛音は休日になると特訓のため必ず家を出ていたため祖母ももう慣れた様子だった。祖母には友人と出かけるといつも言っているため引っ込み思案な凛音が友達と遊びに行っている、と喜ばしく思っているようだった。実際には心配をかけてしまうような事案ではあるのだが、祖母にはあまり心労をかけたくない気持ちが勝っており事実は伏せていた。
祖母に挨拶を済ませると凛音は玄関を開けた。6月も終わりに差し掛かっているため外はじっとりと生温く、肌を刺すような日差しが凛音の肌を照りつけていた。
家を出てすぐに凛音は女性の姿を見つけた。
「あら、ちょうどインターホン鳴らそうとしてたの。凛音くんはいつもタイミングがいいわね」
「今日もよろしくお願いします」
「ええ、今日も頑張りましょうね」
休日のこの時間帯になると茜が凛音を迎えに来て、そのまま魔力の特訓のために森へと茜の能力で移動する、という一連流れが出来上がっていた。
「どう?練習の成果は?」
「そうですね...ちょうどさっきまで練習してて...。もちろん最初よりはコントロールできてる感覚はありますけど、いざ何かあった時に使いこなせるかと言われると自信ないですね...」
特訓の進捗を聞かれた凛音は現在の素直な自分の感想を漏らした。
「うふふ、大丈夫よ。会う度に凛音くんの力が大きく、安定しているのを感じるもの。このまま続ければきっと凛音くん自身を助けてくれる力になるわ」
「はい。頑張ります」
茜の後押しするような言葉に凛音は勇気付けられ不安が霧散していくのを感じていた。
「実は今日グランくんが来れないのよ」
「え?そうなんですか?」
突然のイレギュラーに凛音は声が少し上ずってしまった。いつも特訓をする時には必ずグランが指南役として凛音に魔力について教えていた。
「ちょっと別件があってね。でも安心して、代わりの先生はいるから」
グランの指導や説明はとても分かりやすく、またうまくいかない時でも急かしたり口調を荒らげることなく、優しい言葉で根気よくじっくりと凛音に魔法について教えてくれていた。能力の面でも人格の面でもグランはこの上なく素晴らしい指導者であり、その先生がいないとなると凛音は少し不安を感じてしまった。
「どんな方なんですか?」
「それは行ってからのお楽しみ。大丈夫、最初はちょっと取っ付きにくい所もあるけど、とっても良い子だから」
「は、はい...」
詳細をぼかしたことに加えて、良い子という茜の言い方に引っ掛かるものがあったが、これ以上突っ込んでも話を長引かせるだけだと思い凛音は素直に話を受け入れた。
「それじゃ行くわよ」
「はい」
茜が出発の意思を示すと凛音は茜の右手を取った。この1ヶ月の間、休日になると必ずこのやり取りがあったため、凛音は戸惑ったり躊躇ったりすることなくスムーズに茜の手を取った。
「
茜が呟くと二人の姿は住宅街から忽然と消え失せた。
「はい、着いたわ」
一瞬の浮遊感と嘔吐感の後、凛音は鬱蒼と草木が生い茂る深い森の中にいた。この感覚にも既に慣れたもので、凛音はもう違和感なくこの感覚を受け入れていた。
「来たわね茜。こんな所に呼び出しておいて、つまんない用事だったらただじゃおかないから」
いつもの森へと移動した瞬間、聞きなれない声が凛音の耳へと入ってきた。
「ごめんね~、頼めるのステラちゃんしかいなくって...」
茜が呼んだ名前は、何日か前の昼休みに見ていた動画の人物と同じ名前だった。ステラと呼ばれた少女は金色の長い髪に綺麗な碧眼を持った美しい姿をしていたが、中でも特徴的なのは長く尖った耳を持っていることだった。
「ふん、しょうがないわね。で、例の魔王は?」
ステラは凛音に気付いていないのか目当ての人物をキョロキョロと探し始めた。
「この子がそうよ。伊織凛音くん、仲良くしてあげてね」
「え...そいつが!?本当に...?そんな弱そうなやつが...?」
目の前の冴えない少年が件の人物だと聞かされ、ステラは非常に驚いている様子だった。対して凛音はいきなり飛んできた失礼な言葉に思わず驚いてしまった。
「え...えっ~と...」
失礼な言葉にどう返してよいか分からず、凛音は戸惑いフリーズしてしまった。
『ぶふっw弱そうww』
ステラの言葉を聞いて、ドローンカメラから足立の吹き出した声が聞こえてきた。
「ステラちゃん、ダメよそんな言い方しちゃ。それに斗真くんも」
失礼極まりない二人に茜が軽く注意を促した。
『いや、すいません。つい...w』
言葉では平謝りしつつ足立はまだ笑いの波が退いていないようだった。
「ご、ごめん...。で、でも...その...あんまりにも覇気がないから...」
対してステラは自身の失言を申し訳なく思っているようだったが、弁明をしようとした結果、失礼を更に上塗りする事態になってしまっていた。
「ごめんね凛音くん。二人とも悪気はないと思うの」
「俺は大丈夫です...」
ステラの態度から本当に悪意があった訳ではないことが窺え、謝罪の言葉もあったため凛音はあまり気に止めないことにした。足立に関しては確実に悪意があり、謝罪も言葉だけであることは明白だったがそれはいつものことであったため、凛音はこちらも特に気にしないことにした。
「で、このステラちゃんが今日の魔法の先生よ。凛音くんには紹介まだだったわよね?」
「実際に会うのは初めてですね。でも動画は見たことあります」
「あらそうだったの。じゃあ異世界出身とか、エルフってことは知ってるのね」
「はい」
初対面ではあったが、予習のおかげで相手の名前や素性といった最低限の知識は頭に入っていた。
「イオリリオン...どこが姓でどこが名前?」
「伊織が姓で凛音が名前です」
「分かったわリオン。それじゃあどのくらい魔法が使えるか見せてくれる?」
「もう?もうちょっとお話とかしても...」
会話もそこそこにステラは本題に入ろうとしたが、茜がそこに待ったをかけた。
「...?必要な情報はもう話したし...早く練習に入った方がいいと思うけど?」
「そうですね。俺もあんまり悠長に構えてる訳にもいきませんし...早く練習したいです」
二人の親睦を深めようとした茜だったが、ステラはてきぱきと物事を進めたい性分であるようで、凛音としてもそちらの方がありがたかったためそちらに話を合わせることにした。
「そ、そう...まあこれから長い付き合いになるんだし追々でいいかしら」
二人の性格を鑑みて茜も強く意見を通そうとはしなかった。
「じゃあいきますね」
「いいわよ」
ステラの許諾を得ると凛音は持ってきていた水筒の蓋を開け、中身の液体を少量口に含み飲み込んだ。液体を飲み込んで数秒経つとあっという間に凛音の体は熱を帯び始めた。そして先ほど家を出る前にやっていた行程を再現し、最終的に右手の手の平に白い光の塊を生み出した。
「ふぅ...」
凛音は修練の成果を披露し終え、少し荒くなった呼吸を整えた。
「ふ~ん、まあまあって所ね」
今出せる全力を出した凛音に対してステラは忌憚のない意見を述べた。
「あ、ありがとうございます...」
どういう反応をすればよいのか分からなかった凛音はとりあえず謝辞を述べた。
「まあ、及第点には届いてそうね。次の段階に行けそうだわ」
「次の段階...?」
気になる言葉が登場し、凛音は思わず復唱してしまう。
「そ。もし一定のレベルまで習得できてたら新しくやってほしいことがあるって、あの勇者に言われてるの。とりあえず一番集中できる体勢になってくれる?」
「はい」
ステラに促された凛音は目を瞑ってその場に立ち、頭をなるべく空っぽにして集中状態に入った。ステラは直立不動の凛音に近づきグランの時と同じように肩に手を置いた。
「いくわよ」
そう言うとステラは少し肩に置いた手に力を入れた。すると凛音の中から強く熱が溢れてきた。恐らくこれもグランと同じように凛音に魔力を流し込んでいるのだと推測された。
「魔力をどうすれば?」
いつもなら魔力を流し込んだ後、グランから何かしらの指示があるのだが、今回は何も言われていないため凛音は指示を仰いだ。
「そのままでいいわ。じっとしてて」
凛音の体にはどんどん魔力が注ぎ込まれていき、それに比例して体の内側を奔流する熱も激しくなっていった。
「うっ...ぐっ...まだ...ですか...?」
「もうちょっと我慢して。あと少しでグランに言われた量の魔力を流し終わるから」
いつもの練習の時よりも多量に魔力を流し込まれたことにより、凛音の息は荒くなり苦しそうな吐息が漏れだしていた。
「ぐっ...がっ...これは...!?」
そしていつも流し込まれている量の3倍以上の魔力を流し込まれ、凛音は熱や息苦しさだけでなく、明確に鋭く激しい痛みを感じ始めた。それは初めてこの森を訪れ、グランに魔力を注ぎ込まれた時に感じたものと同様のものであった。
身体中が軋むように痛み始め、特に頭と尻からは割れるような激しい痛みが生じていた。やがてあまりの高熱と痛みで立っていられなくなり、凛音はその場に膝から崩れ落ちてしまう。
「茜!」
凛音が倒れこんだのを見てステラは大声で茜の名前を呼んだ。地面に突っ伏している凛音は生気が無くぐったりとしており、体からは汗だけではなく涙や涎といったものまで垂れ流しになっていた。
「任せて!」
呼ばれた茜は急いで凛音に駆け寄り優しく背中に手を当てた。
「
そして言葉を呟くと凛音の中から熱や痛みが退いていく感覚があった。
「うっ...があっ...!はあっ...!」
凛音は苦しそうに呻き声をあげており、その姿は打ち上げられた魚のようだった。
「ごめん、これも特訓の一環だから...」
決して悪意があった訳ではないと言え、一人の少年をこのような悲惨な状態にしてしまったことにステラは大きな罪悪感を抱いているようだった。
「でも本当にこんな姿になるなんて...」
そして罪悪感と同時に、地面に倒れこんでいる凛音の姿を見てステラは驚愕している様子でもあった。ごくごく平凡な、町ですれ違ったとしても記憶に残らないような容貌をしている凛音だが、現在その面影は一切残っていなかった。
黒く染まった四肢に気味の悪いほど真っ白な髪、不吉で不気味な印象を与える赤い目に肉食動物のような鋭い牙。そして何よりおよそ人間のものとは思えない角と尻尾。初めてグランに魔力を流し込まれた時に現れた悪魔の姿がそこにはあった。
「あの勇者様、相変わらず見た目によらず悪魔ね」
そしてこの日から凛音は自身に眠る力の凶悪性を嫌というほど知る羽目になる。
────────────────────
「はぁ~、暑いなぁ...」
時刻は午後4時頃、ちりちりと焼けるような日差しが住宅街を歩く少年の肌を照りつけていた。7月に入っていよいよ夏真っ盛りといった季節となり、世の学生立ちは今か今かと夏休みを待ち遠しく思っている時期でもあった。
そんな本格的な暑さに苦しめられながら凛音は学校からの帰路に着いていたのだが、凛音の体が暑いのには別にも理由があった。
現在凛音には外界から浴びせかけられる熱波に加え、体の内側から沸き上がってくるような熱流も襲い掛かってきていた。
ここ最近では走ったり会話をしている状態でも魔力の流れをコントロールできるようになってきており、着実に魔力操作の技術に磨きがかかっていた。また以前は魔力が込められた水を用いていたが、今では微量ではあるが、一から火を起こすように何の補助もなく魔力を起こすことができるようにもなっていた。
(そういえば夏休みの予定はどうなるんだろう...まさか全部特訓の日とかにはならないよな...?)
普通の学生であれば長期休暇に毎日誰とどこへ遊びに行こうか、もしくは毎日寝たいだけ寝られる怠惰な生活を過ごすことができる、といったことに心を踊らせるものだが、凛音の場合は期待よりも不安の方が勝っていた。
キラキライブに一応所属という形になってから休日というのはあの森へ赴き特訓をするという日になってしまっているため、夏休みの40日あまりを全て魔力の練習につぎ込む日々になってしまうのではないかと戦々恐々としていた。魔力のコントロールをする練習にはかなり慣れてきており、そちらであればまだ耐えられるのだが、問題は新しく追加された練習メニューの方であった。新しい練習のことを考える度に凛音の気持ちは深く沈んでしまうのだった。
「ギ...ギャギャ...」
「...?」
自身の暗澹たる雲行きの夏休みについて思考を巡らせていると不意に奇妙な音が聞こえてきた。それは動物の呻き声のようでもあり、聞いたものを不愉快にさせる類いの音だった。
「...この声は...!」
声の正体を考え始めてから数秒、凛音の頭の中にフラッシュバックのようにとある姿が思い浮かんだ。小学生程度の体躯に醜悪な顔付き、そして全身が緑色の奇妙な生き物。
(ゴブリンだ...!)
よほど凛音の脳内に強く刻み込まれていたのか、その見た目、そして追いかけ回された記憶が鮮明に一瞬にして甦った。
(ど、どうしよう...)
脳が記憶を覚えているのなら、体は恐怖を覚えているのか凛音の全身は強ばり、その足は歩みを止めていた。凛音は2ヶ月間、この生き物たちに対抗する術を特訓してきたはずだったが、そんなことはすっかり頭から抜け落ちてしまい、恐怖と動揺が心を埋め尽くした。
「ギ...ギャギャー!!」
「ギャギャギギャー!!」
どうすればよいのか分からず凛音がその場に立ち尽くしていると、そんなことはお構い無しに二匹のゴブリンが曲がり角から飛び出してきた。
「う、うわっ!」
周囲に人気はなく、当然ながらグランや茜の助けもない。二匹のゴブリンは一直線に凛音へと猪突猛進して一気に間合いをつめると、その内の一匹が手に持った棍棒を凛音へと振り下ろしてきた。その一撃を間一髪で避けた凛音だったが肩に下げていた鞄の影響もあって大きく体勢を崩してしまった。その隙をゴブリンは見逃すことはなく、すかさず凛音に勢いよく蹴りをいれた。体勢を崩していたこともあって凛音は吹き飛ばされそのままもんどりうって地面を転がった。
「うっ...があっ...!」
全身に鈍い痛みを感じ凛音は呻き声をあげてしまう。
「ギャッギャギャッギャ!」
「ギャギャー!」
吹き飛んで無様に転がる凛音の姿が愉快だったのか、ゴブリンたちは面白そうに声をあげていた。先ほどの一撃で気を失ったのか、凛音はもうぴくりとも動かず、呻き声すらあげていなかった。ひとしきり笑うと、地面に横たわっている獲物に止めを刺そうと二匹のゴブリンは凛音にゆっくりと近づいてきた。もはや勝負は決したと感じたのか、ゴブリンたちの足取りはひどく油断に溢れた緩慢なものだった。
一歩また一歩とゴブリンは歩みを進めていき、あと一歩踏み出せば凛音の頭を足蹴にできる位置まで近づいた。そして膝を曲げて屈みこみ、凛音の頭髪を掴んで頭を持ち上げ負け犬の惨めな顔を拝もうとした。その瞬間凛音の目がかっと見開かれた。
「お前ら、やっぱり単純だな」
凛音はニヤリと笑うとゴブリンの腹へと手の平を思い切り打ち込み、所謂掌底と呼ばれるものをお見舞いした。ただその手の平には白い光の集合体のようなものが握られていた。上半身は持ち上がり下半身は地面に寝転がっているという無理な体勢から放たれた一撃だったが、魔力の込められた掌底はゴブリンの体をまるで風で飛ばされるレジ袋のように吹き飛ばした。今度はゴブリンの方が地面をもんどりうって転がり、そしてぴくりとも動かなくなった。
「ギャギャッ!?」
何を言っているか不明ではあるが、もう一匹のゴブリンは思わぬ展開に驚いていることだけは読み取ることができた。
「ギャギャー!」
ただ驚くのも束の間、ゴブリンは今度は怒りを露にし、仲間の敵討ちとばかりに興奮した様子で凛音に詰め寄ってきた。そして右手に持ったひどく刃こぼれの激しいナイフを凛音へと振り下ろした。凛音は両腕を目の前でバッテンに構え凶器による一撃を受け止める体勢に入った。この体勢からではもうナイフを避けることは不可能であり、致命傷は免れるかもしれないがその刃が凛音の腕に突き刺さってしまうことは避けられそうになかった。
「ギャギャギャ」
ナイフが凛音の腕を貫くことを確信したゴブリンは苦痛に歪む凛音の顔を想像して醜悪な笑みを浮かべていた。
「...!?」
しかし凛音の腕に届いた刃は皮を裂き肉を抉ることはなく、むしろそのナイフの方が刀身の真ん中からぽっきりと折れてしまった。ゴブリンは再び驚愕の表情を露にした。
「ちょっと寝ててくれ」
驚き固まっている様子のゴブリンだったが、凛音はお構い無しにゴブリンの腹めがけて魔力のこもった掌底を打ち込んだ。こちらのゴブリンも一匹目と同じように吹き飛びそしてそのまま動かなくなった。
ぐったりと地面に横たわる二匹のゴブリンは絶命している訳ではないようだが眼前に意識を失っており、しばらくの間は凛音の脅威となることはなさそうであった。
「はぁ...はぁ...」
安全を確認した途端、体へ痛みと疲労が一気に押し寄せ、凛音はそのままコンクリートの道に座り込んでしまった。
(な、なんとかなった...!)
ゴブリンの姿を見た瞬間は思考が完全に止まってしまっていたが、蹴りを入れられ地面に転がっていた時間がむしろ考えを整理する時間になり、結果として魔力を練り上げ奇襲する作戦が見事に決まることとなった。
「こ、これどうすればいいんだろう...グランさんに連絡した方がいいのかな...」
とりあえず目の前の脅威は取り除き、凛音は後始末の段階に頭を巡らせていた。
「グルオオオォォ!!!!」
「!!??」
しかし事態はそう簡単には解決しそうにはなかった。ゴブリンを倒し安心していたのも束の間、閑静な住宅街に特撮映画の怪獣のような叫び声が響き渡った。
「今度は何だ?」
訝しげな顔をしながらキョロキョロとあたりを見回していると、先ほどのゴブリンが飛び出してきた方向から何やら地鳴りのような音が響いてきている。ズシン、ズシン、と一歩ずつコンクリートの地面を踏みしめるように音は近づいてきており、やがて音の主はその姿を露にした。
「グオオォォ...」
凛音の身長の倍はあろうかという巨体がのっそりと凛音の目の前に現れた。二足歩行で肌は全身赤黒く、筋肉が異常なまでに膨張していた。昔話などによく出てくる鬼のような生き物が凛音をじっと見つめていた。
しばらくの間見つめあった後、鬼は勢いよく凛音の方へ駆け寄ってきた。その巨躯に見合わず動きは非常に俊敏で、あっという間に凛音の眼前へと距離をつめた。そしてその丸太のように太い腕を振りかぶり思い切り凛音のいる位置へと叩きつけた。
凛音は右へと跳躍し何とか鬼の一撃を回避した。鬼の腕が振り下ろされた地面はコンクリートがひび割れ、クレーターのように大きく窪んでしまった。ゴブリンたちも小柄でありながら大人に負けず劣らずの膂力を有していたが、目の前にいる鬼のそれはゴブリンなど比ではなく、人間程度であれば腕を一振りするだけで簡単にひしゃげさせてしまうほどの力を持っていた。
「次から次へと...!」
凛音は鬼の攻撃を掻い潜りながら腹の底に力を入れ魔力を練り上げた。そして沸き上がってきた魔力をいつもの練習のように右腕へと誘導していく。日々のたゆまぬ修練に加え、この時の凛音は命の危機にあるという緊張状態と磨き上げた力でゴブリンを退けたという興奮状態から集中力が極限まで研ぎ澄まされた状態となっていた。
極限の集中状態にあった凛音は鬼の一撃を躱した後のほんのわずかな時間に右の手の平に魔力を集め、ゴブリンをノックアウトさせた掌底を放つ準備を一瞬にして整えた。
「喰らえっ...!」
そして凛音は躊躇なく鬼の懐に飛び込み、魔力の込もった強烈な一撃を鬼の腹へと打ち込んだ。
「...?」
「なっ...!?」
今できる渾身の一撃を繰り出した凛音だったが、対して鬼は驚くでもなく苦痛に顔を歪めるでもなく、キョトンとした顔で凛音を見下げていた。先ほどゴブリンたちを吹き飛ばした凛音の掌底は眼前の鬼にかすり傷一つ負わせることはできなかった。
驚愕で目を見開き、凛音の頭の中は一瞬真っ白になる。動揺と困惑から凛音は金縛りにあったかのように固まり動けないでいた。掌底を仕掛けた後のことは全く考えていなかったためそこから先はノープランだった。
そして少しの間フリーズしていると凛音の視界が突然大きく揺れて途切れ、その後強い浮遊感に襲われた。
「あぇ...?」
凛音は思わず情けのない声をあげてしまう。至近距離にいた鬼は一瞬にして消え、代わりに凛音の目には和やかな青空が広がっていた。その青空がエンドロールを早送りにしたように視界の上から下へと高速で動いており、数秒間、青空のエンドロールを観賞した。
「えぐっ!うぐっ...があっ...!」
強い浮遊感を数秒感じた後、凛音は平衡感覚を失い身体のコントロールが効かない状態になっていた。頭、肩、胸、背中、腰、膝...と全身に余すことなく強い衝撃が走り、鈍い痛みが全身を支配し始めた。
ぼやけていた視界の焦点が合い始め、全身の感覚を取り戻していくとともにどんどんと痛みも大きくなっていく。意識と思考が段々とクリアになっていき、凛音は悲鳴をあげる体をよろよろと起こしながら周囲の状況を確認する。
「グオオォォ!!」
先ほどまで眼前にいた鬼の姿は目測で10mほど先に見えていた。雄叫びをあげながらゆっくりと威圧感を与える足取りで凛音に方へ近づいてきている。鬼の後方には先ほど凛音が戦闘不能にしたゴブリン二匹と凛音が肩に下げていた鞄が転がっていた。
(あそこから飛ばされたのか...俺...)
痛みで重たい頭を巡らせながら凛音は自身に何が起きたのかを理解した。
掌底を放ち動揺で固まっていた一瞬の隙に鬼は容赦なく凛音に蹴りをお見舞いした。防ぐ暇もなく鬼の蹴りを食らった凛音はサッカーボールのように飛ばされ、10m近くを遊覧飛行した後地面へと不時着した。
凛音は何とか立っていることがやっとの状態であり、腕や足を動かそうと力を入れても思った通りに体が動いてくれなかった。近づいてくる鬼を迎え撃つどころか逃げ出すための力も残っていなかった。
(今の実力じゃ無理か...)
凛音は考えることを止めて何かを受け入れたかのように立ち止まり、逃げることも立ち向かうこともしなかった。刻一刻と地面を震わせる足音は大きくなっていく。そしていよいよ鬼の魔の手が届く範囲に入り、鬼も哀れな敗者に引導を渡そうと大きく腕を振りかぶった。
「はぁ...」
目の前の狩人が一度その腕を振り下ろせば忽ち獲物の体は原型を止めない肉塊となりなす統べなく絶命する、そんな状況に凛音は小さくため息を付いた。その表情には一種の諦観や自嘲といった感情が見て取れた。そのため息や感情は次の瞬間に自分の身に起こることを想像して漏れ出たものであるが、その内容は鬼の一撃によって自身が粉々に打ち砕かれてしまうことに対してではなかった。
ガリッ──
瞬間、何かが砕けるような音がした。鬼の凶悪な鈍器は未だ振り下ろされておらず、まだ凛音の骨が粉砕された訳ではなかった。
音の正体は凛音の口の中にあった。
凛音の口にはいつの間にか小さくて丸く青いものが咥えられていた。それは市販で売られている飴玉ほどの大きさと形をしており、色合い的にはソーダ味を彷彿とさせた。凛音はその飴玉を舐めることなく噛み砕き嚥下した。いつもは飴を食べる時はある程度小さくなるまで舐めて溶かし、程よい大きさになったら噛み砕くという食べ方をしている凛音だったが、この飴玉はそのように甘味として味わうために口に入れた訳ではなかった。むしろその味はお世辞にも美味しいとは言えず、病院や薬局でもらう粉薬を酢に溶かしたような味わいだった。
飴玉を飲み込んだ凛音は腹の底から急速に熱が沸き上がってくるのを感じていた。それは自身で魔力を練り上げた時や魔力が込められた水を飲んだ時とは比べものにならないほどで、熱流は一瞬にして体の末端まで行き届き、やがて熱だけでなく痛みも凛音の体を蝕んでいく。軋むような鋭い痛みが全身を駆け巡り、特に頭と尻からはそこから何かが這い出て来るような感覚があり、割れるような痛みが凛音に襲いかかった。
「ぶっ...ぐっ...!がああぁぁっ!」
グランやステラから魔力を過剰に流し込まれた時とは比べものにならないほど、痛みは瞬く間に凛音の全身を支配した。瞬間的に広がる激しい痛みに凛音は卒倒しそうになるが、以前の特訓の時のように膝から頽れたり吐き出してしまうような無様な姿を晒すことはなく、何とか意識を保って立ち上がっていた。
「ウオオォォ!!」
呻き声をあげながら苦しみ悶えている凛音に対して鬼は雄叫びをあげながらその右腕を振り下ろした。その鉄槌に躊躇や慈悲は無く、ただ目の前の凡庸な少年を破壊するためだけのものだった。刻一刻と豪腕が凛音へと近づいて行き、太陽から凛音を完全に覆い隠してしまった。
──ベゴッ...
そして何かがひしゃげるような音が鳴り響いた。酷く耳障りの悪いその音で、聞いた者を不愉快にさせることは請け合いだった。
「...?」
鬼は振り下ろした腕を持ち上げて、羽虫の如く叩き潰した矮小な人間の憐れな姿を拝もうとしたが、その腕に違和感を覚えた。腕を持ち上げようとするのだが力が全く入らない。右腕の感覚が失われ自分の体の一部でないような感覚があった。
また腕を振り下ろした時の手応えにも不可解さがあった。まるで固い地面を思い切り叩いたかのような感触を鬼は感じており、少なくとも自身より一回りや二回りも小さい人間を叩き潰した感触としては大きな違和感があった。
「グッ...ガアアァァッ...!!」
一瞬の間、身に起きた不可解な感覚について思考を巡らせていた鬼だったが、唐突に叫び声をあげ始めた。鬼の右腕に猛烈な痛みが走り抜けた。ズキズキとした激痛が右腕で暴れまわっており、全身から体温が抜けていくような感覚に陥っていた。鬼は腕ではなく体そのものを後退させることで右腕を動かした。その豪腕に生気はなくなっており、だらりと力無くぶら下げられていた。
「はぁ...はぁ...ぐっ...!」
訳も分からず困惑し苦しんでいると、鬼は自分以外の生物の呼吸を聞いた。先ほどまで凛音が立っていた位置に目を向けるとそこには潰れてミンチになった痛ましい人間の残骸ではなく、禍々しい容貌をした生物の姿があった。
二本の足で立っており、四肢は黒く反対に毛髪は真っ白で不気味なコントラストを生み出していた。目はその狂暴性を写し出しているかのように赤く、口元に生え揃った歯も獰猛な生物の牙のように鋭い。そして何よりも目を引くのはその頭と尻で、頭からは山羊のようにうねった巨大な黒い角、尻からは蛇がそのまま付いているかのような黒く太い尻尾が生えており、まさに悪魔と呼ぶに相応しい姿かたちをしていた。
背丈は一般的な人間ほどにも関わらず悪魔は圧倒的な威圧感を放っており、鬼は腕の激痛も相まって萎縮し動けないでいた。恐らく鬼の振り下ろした鉄槌はこの悪魔によって受け止められ、逆に鬼は深い痛手を負うこととなった。
「うっ...がああああっっ!!」
悪魔は叫び声をあげながら頭を抱えて苦しんでいる様子であり、鬼の方も折れた腕の痛みがあるためお互い動けずに膠着状態になっていた。しばらくの間、悪魔を見つめていた鬼だったが、数十秒ほど経つと矢庭に動き始め凛音に接近した。
鬼は直感的に目の前の悪魔が自身の命を脅かす存在であると感じており、その凶暴性と防衛本能が動けないでいるうちに悪魔を排除せよと命令を下した。
鬼は急速に凛音に近づくと折れていない左腕を大きく引き、渾身のストレートパンチを繰り出した。助走の勢いを乗せた鬼のパンチは強力無比であり、天然の破壊兵器と呼ぶに相応しい威力を誇っていた。
しかし鬼の目算と異なり、悪魔は鬼の拳が届きそうになるとその身を大きく引き絞りこちらもまたストレートパンチを繰り出した。鬼の拳に悪魔は真正面から迎え撃つことを選択した。鬼と悪魔とでは体格差が倍以上存在しており、単純な見た目だけで考慮すると鬼の方に議論の余地無く軍配が上がっているように見えた。
両者の拳が互いを目掛けて迫り衝突した。
そして鬼の左腕は大きく弾かれ、そのまま鬼はのけぞって体勢を崩し背中側から仰向けに地面へ倒れこんでしまった。対して悪魔の方は拳を振り抜いたポーズのままその場に立っており、鬼が完全に押し負けた形となった。体格差に加え、片や走る勢いを乗せた渾身の一撃、片やその場で迎え撃つように撃たれたまだまだ余力を残している一撃。振り下ろされた一撃を悪魔が受け止めただけで鬼の右腕が折れてしまったことも鑑みるに、鬼と悪魔との間にはその圧倒的な体格差とは裏腹に歴然とした力の差が見受けられた。
鬼は体勢を立て直すためにすぐさま立ち上がろうとするが左右どちらの腕にも全く力が入らない。さきほどの拳と拳のぶつかり合いで残された左腕の方も再起不能となってしまった。まるでひっくり返ったカブトムシのようにじたばたとしているが一向に起き上がる気配がない。
「があああぁぁっ!」
悪魔は雄叫びをあげながら大きく跳躍し鬼へ飛びかかった。飛び上がりながら悪魔は右手を引き絞り、空中で拳を打ち込む構えを取った。その拳には黒く炎のように揺らめく光が纏われており、何やら大きなエネルギーが込められている様子だった。
丸太のような鬼の豪腕に打ち勝った腕力に自由落下の勢い、そして掌に込められた特異な力をもって悪魔は地面に仰向けになっている鬼の頭部を目掛けて拳を振りかざした。
鬼は起き上がって躱すどころか腕を使って防御をする体勢にすら入ることができず、悪魔の拳を何の緩衝材もなくただ素直に顔面で受け止めるしかなかった。悪魔もそんな状態の鬼に対して一切の情けや容赦をかける気配はなく、その拳は正確無比に鬼の頭部を捉えた。
悪魔の拳のインパクトの瞬間、凄まじい衝撃音が鳴り響き、あたりの地面や家屋が一瞬揺れ動いた。
拳を顔面に受けた鬼は仰向けのままぴくりとも動かなくなっており、呼吸の音や心臓の鼓動も一切聞こえなかった。悪魔の一撃による衝撃は、鬼の頭部を貫いてその下にあるコンクリートの地面を大きくひび割れさせており、その無慈悲な拳の絶大な威力を物語っていた。
「ぐおおおおぉぉぉぉ!!!」
鬼と悪魔による奇々怪々な一戦は悪魔による封殺で終わり、悪魔は勝利に興奮しているのか大きく雄叫びをあげていた。
「ぐっ...がああぁぁっ...!」
しかし勝利に酔いしれる暇もなくまたもや悪魔は頭を抱えて苦しみ始めた。鬼を軽々と打ち倒す強大な力の代償なのか、悪魔は内側から溢れ出る耐え難い痛みに苛まれていた。絶命し仰向けのままになっている鬼を尻目に悪魔はしばらく悶え苦しみ続けた。
そうして5分程度経過すると悪魔は背後から何か近付いてくる気配を感じ取った。その気配は明確に悪魔を目掛けて歩みを進めており、目的は悪魔のようだった。
悪魔は『またか』とうんざりした気持ちになっていた。悪魔の胸中を支配していたのは、なぜ自分がこんな目に合わなければならないのかという悲痛な叫びだった。なぜ体の底から溢れてくる激痛に堪え忍ばなければならないのか。なぜ意味の分からない化け物たちに襲われなければならないのか。そういった疑問が次々に浮かび上がり、悪魔は強い怒りや恨み、被害者意識を募らせていった。やがてそれらの感情は強い凶暴性と攻撃性に転嫁していき、その矛先は近付いてきた気配へと向けられた。
何を企んでいるのか知らないがそっちがその気なら叩き潰す。悪魔の脳内は自身を脅かそうとする存在の絶対的な排除を命令していた。
「があああぁぁっ!!」
そしてその気配が自身の拳の射程圏内に入ったところで悪魔は振り向きざまに勢いよく体をしならせ、近付いてきた存在に向かって強烈な一撃をお見舞いしようとした。
「うっ...ぐっ...おおおぉぉ!」
しかしその拳が対象に届くことはなく、反対に悪魔の方が何か強い衝撃を受け後方に吹き飛ばされてしまう。西部劇の荒野に登場するタンブルウィードのように悪魔は無様に地面を転がっていった。ひとしきりもんどりうって転がり終わると、悪魔はすぐに体勢を立て直し恨めしそうに自身を吹き飛ばした犯人であろう人物へと目を向けた。
「はぁ、ピンチだって聞いたから駆けつけて来たのにこの歓迎。その辺の野良犬の方がまだ分別があるわ」
悪魔の目に写ったのは艶やかな金色の長髪に美しく輝く碧眼、そして長く尖った耳が特徴的な美少女で、その少女は悪魔に対して何やら悪態を付いている様子だった。
少女は悪魔に何の恐れや躊躇いもなく近付いていく。その行動に悪魔は警戒心が最高潮に高まり、唸り声をあげながら少女を威嚇した。
「なに獣みたいになってるの。特訓を忘れたの?自分を思い出しなさいリオン」
「う...あ...?ステラ...さん...?」
吹き飛ばされた衝撃に加え、ステラから名前を呼び掛けられたことで悪魔、もとい伊織凛音は自分が何者なのかを思い出し、自我を取り戻し始めた。
「俺は...何を...?」
我に返り冷静になった凛音は現在自身が置かれている状況がイマイチ掴めていなかった。
「アンタがオーガに襲われてるって聞いて駆けつけて来たら、今さっきアンタに襲われたところよ」
「オーガ...?それに俺がステラさんを...?」
ステラからの言葉を聞いても凛音はイマイチ要領を得られないでいた。意識がはっきりとしてきた凛音はあたりをキョロキョロと見回した。
「えっ...?うわっ...!」
凛音が後ろを振り向くとそこには赤く筋骨隆々の巨人が仰向けに倒れていた。その威圧感に凛音は身の危険を感じ、思わず後ずさりしてしまう。先ほどから凛音は全身に鈍い痛みや刺すような痛みを感じており、不意に動いてしまったためにその痛みが増し、苦痛で顔が歪んでしまう。
「そんなに怯えなくてももう死んでるわよ」
ぴくりとも動かない様子を見るとステラの言葉は本当であり、凛音は胸を撫で下ろした。近付いてまじまじと観察してみると、まず目を引くのは頭部の状態で、まるで上から巨大な岩石で押し潰されたかのように頭がひしゃげていた。グロテスクな光景に凛音は思わず顔をしかめ、少し吐き気を催した。
赤い巨人を観察していると視界の端に何やら緑色のものが見えた。
「あれはゴブリン...そうだ、俺ゴブリンに襲われて...」
地面に倒れてノックダウンしているゴブリンを見つけ、凛音は段々と何が起きたのかを思い出していった。
下校中にゴブリンが現れ襲いかかってきたこと。凛音は魔力を操って二匹のゴブリンを辛くも撃破したこと。ゴブリンを退けたのも束の間、今度は鬼のような巨大な魔族が現れたこと。
「俺、飴かじったんだ...」
そして鬼には凛音の攻撃が通じず、凛音は最終手段を取ったこと。
「やっと思い出したみたいね。こんだけ派手に暴れて記憶も曖昧なんて、まだまだ不安定ねその力」
凛音がかじった飴玉は当然ただの飴玉ではなく、それは魔力が込められた代物だった。しかしそれは魔力操作の練習のための水とは込められている魔力の量が桁違いであり、摂取すると過剰な魔力が迅速に体内を駆け巡る。結果として凛音の中に眠る魔王の力を目覚めさせ、凛音を悪魔のような異形の姿へと変貌させた。
その力は強大で、通常の凛音ならなす術なく捻り潰されていたであろう赤い鬼、もといオーガを簡単に打ち倒すことができてしまった。
しかし大きな力には代償が付き物で、全身に耐え難いほどの熱と痛み、そして意識や記憶が薄れて理性が失われ、代わりに凶暴性や攻撃性が大きく増加する。結果として苦痛に悶え苦しみながら本能のままに暴れまわるモンスターが誕生してしまった。
「あ、ありがとうございます...!俺にために助けに来てくれて...」
何があったのかを大まかに理解した凛音はステラへと謝辞を述べた。あのままステラが来なければ凛音はどのような行動を取るか分からなかった。
「別にアンタのために来たわけじゃないわ。アンタを助けろっていう指令があったからそれに従っただけよ。ま、アンタを助けるどころかアンタに襲われたわけだけど」
「す...すいません...」
ステラの刺すような一言に凛音は返す言葉もなかった。
「反省は後でするとして、とりあえず今は事務所に連絡して後処理しないとね。休んでる暇はないわよリオン」
「は...はい!」
そうして今回の戦闘は一段落し、凛音は今までの特訓の成果と課題、両方を持って帰る結果となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます