不安
尿意を催す。トイレに駆け込む。
ただ、それだけのこと。
ありふれた日常の中ですら気にも留まらない、些細な行為。
さて、男はいつも通り尿意に苛まれて、駅のトイレに入る。
トイレは左手が男子トイレ、中央が多目的トイレ、右手が女子トイレという構造になっている。青色のマークで示されたその入り口から覗くのは白く、いやトイレのどうしようもない不潔感によりクリームがかったように見える壁だけで、突き当たり右が開いている。奥に進めば5個の小便器と4つの個室、3つの手洗器とそれに付随する傘掛けがある。大抵の人間が自分の尿意もしくは電車の時刻表に尻を叩かれているため、トイレの構造に脳みその容量を割くような馬鹿げた真似をする者などいないはずであった。しかし、彼は例外だった。
彼の頭を支配しているのは、何年と変わらず、不安だった。
青色の門をくぐる時、その青色が視界の端からいなくなるとき、彼がうなされるのは間違って女子トイレに入っていないかという不安だった。論理的に考えればあり得ない、非現実的な不安だった。なぜならついさっき彼は男子トイレと書かれたゲートを通ったのだから。しかしながら、不安というのは恐ろしいもので、数秒前の記憶すら無下にしてしまう。したがって彼は小便器の列を目にするまでは安心を得ることはできなかった。小便器のみが唯一の救世主であって、通路ですれ違う見るからに男性な人影を見ても、不安は解消されなかった。だから、彼は一般人だった。彼がトイレに入ってから小便器へと急いで向かうことは別の理由によって正常に見えるし、その胸の内を除けば、あまりにありふれた光景だったからだ。しかし、彼は確実に異常な不安によって、操られていた。
あるとき、彼は腹痛を感じた。
そして足早にトイレに駆け込み、視界の端の小便器に束の間の安心を得たのち、そそくさと個室のドアを引いた。トイレの個室の中は、彼にとって唯一といっていい安心のおける空間であった。しかし、彼の性質上個室を利用するときの大抵が下痢によるものであったため、それは苦しみとともにあった。いや、その苦しみが不安を紛らわせていたともいえるかもしれない。どちらにせよ、彼が不安から逃れられる場所は限られていたし、それも何かしらの制約がつきものだった。トイレットペーパーをカラカラと巻き取る音が聞こえ、その紙は肛門を掠める。やがて微細な解放感と水の流れる音が苦しみの終わりを告げる。しかし、彼になってみれば、それは始まりである。
ズボンを上げ、ベルトを締めるとき、またそれはちょうど便器を流れる水と同じように、彼の脳裏に渦巻き始める。扉を開けることは簡単だったが、同様の、つまり間違えて女子トイレの個室に入ってしまったのではないかという不安、それが彼を押さえつけていた。そしてこれも同じように、視界に小便器が映り込むまでは、この動悸を抑え込むことはできなかった。
彼はまた、いつも通り尿意に苛まれた。
それは平凡な、正常な日常のひと時。
しかし彼は、彼がいつもそうであるように。例外だった。
そしてそれは、彼視点からもはっきりと理解できる、異常だった。
茫然自失。当初困惑だった彼の表情が苦悶に滲み始める。
彼の視界からは、あるべきはずの、なくてはならない、それが抜け落ちていた。
彼は確認を怠ったのだろうか?いや彼に限ってそんなことはない。
じゃあ色彩感覚に異常をきたしたのだろうか、それとも左右の識別もままならない程疲れていたのか、いやそれとも時空がねじ曲がって反対方向にワープしてしまったのか?それのどれもが現実的とは言えない。しかし、この現在の状況の方がよっぽど
非現実的なのだ。もはや理由なんてどうでもいいことなんだろう。
彼は女子トイレにいた。それが何を意味するのか、彼が最も理解していた。
しかし、彼ができることといえば、だらだらと無意味な冷や汗を垂れ流すことだけであって、それ以外の行動はまたしても不安によって拘束されていた。
彼は傍から見れば、驚くほど静かだった。その姿はさながら、裁判の判決を待つことしかできない、哀れな囚人そのものだった。しかし、判決は一向に訪れない。しかし、彼はやはり待つことしかできなかった。彼は直立不動を崩せない。
途方も無いような時間が経った気がする。彼の判決は、背中から聞こえた女性の叫び声によってついになされた。
彼はこんな状態に至ってようやっと、不安という感情の無意味さを、心底理解した。
この状況を何より恐れていたのは彼であって、それは他の誰よりも顕著だった。
彼はどこか、不安に信頼を置いていた。
しかし、それは一切間違いだった。
実際、彼はなにも出来なかったのだから。
彼は解放された。彼は不安の檻から、長い拘留から、解放された。
彼の表情は恍惚としていた。もう不安を感じなくていいことにうっとりとしていた。
もう何も怖くはない。これから何が起ころうとも、大したことではない。
彼は以前と打って変わって、強靭な精神を手にしたかに思われた。
少なくとも、それは喜ばしいことのはずだ。
しかしながら、彼は不安がなんであったか、考えるべきだろう。
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