第二十一話

 たちばな本家の屋敷は色めき立っていた。

三人みひとさま! やりましたな!」

 橘三人たちばなのみひとの側近、角島つのしまは興奮したように言った。

「ああ、まさかこうもうまくいくとは!」

 三人みひとはにやりと笑った。

側女そばめにはなれずとも、子を成せばよい、と思うていたのに、まさかきさきとは……!」

ふじ氏はほぞを嚙んでいることでしょう」

 くっくと笑い合う。


 三人みひとの元に嘉乃よしのを養子にして欲しいという火急の文が来たのは、つい先日のことだった。そして、ほどなく清原王きよはらおうの側近である真榛まはりが橘本家を訪れ、清原王が嘉乃を妃に望んでいる旨を告げた。しかし、あまりにも身分に隔たりがあるので、嘉乃を三人みひとの養子にして体裁を整え、婚姻を結びたいとのことだった。


 真榛まはりと、三人みひと角島つのしまで話し合い、嘉乃は三人みひとの隠し子であることにした。そのことは、当事者と真榛まはり三人みひと角島つのしましか知らない話とした。いずれ発覚するかもしれないが、ともかくめあわしの儀をおこなってしまえばいい、と三人みひとは考えた。


 嘉乃はしばらくして、三人みひとのもとにやってきた。秘密裏に。

 三人みひとは嘉乃を初めて間近で見て、なるほど、この美貌では男を惑わせるのも仕方があるまい、と思った。艶やかな髪に潤んだような黒曜石の瞳。長い睫毛に縁どられた切れ長のその瞳に見つめられると、三人みひとでさえくらりとした。抜けるような白い肌にふっくらとした赤い唇はもの言いたげで。……この娘が、もう少し美しくなければ、よかったのだが、とふと思った。これだけ美しいからこそ、藤氏の姫の感情を逆なでしそうだった。清原王と婚姻を結ぶ予定だった姫は、美しく着飾ってはいたが、容貌は十人並みだった。


三人みひとさま、あの――よろしくお願いいたします」

 嘉乃はそう言って、頭を下げた。美しいくせのない髪がさらさらと流れ落ちる。声は鈴の音のようだった。

めあわしの儀まで、覚えることはたくさんある。――今日は疲れたであろうから、部屋でゆっくり休むといい」

「はい。……あの、家族に会うことは出来るのでしょうか?」

 嘉乃はそう、思い切ったように言った。

「会えるように手配はしよう。しかし、一度だけだ。それ以降はもう二度と会えない。嘉乃、という存在は消えることになる」

「……はい……」

 目を伏せて消え入りそうに答える嘉乃は、目に涙を滲ませているらしかった。三人みひとは思わず抱き寄せそうになり、はっとした。まずい、これは皇太子の女なのだ。



 嘉乃はめあわしの儀を行うために、東宮御所から離れて橘本家の屋敷にきて、不安な気持ちでいっぱいになっていた。

 見知った人もなく、一人だった。

 何しろ、橘家の当主の娘となり体裁を整え、めあわしの儀を迎えねばならないのだ。


 嘉乃、という存在は消えることになる、と三人みひとは言った。

 名前も六家りっかの姫の名のつけ方に合わせて、嘉子かこと変わると言われた。

 嘉乃よしの、ではなく、嘉子かこ

 天皇家や六家りっかに生まれた女子はみな、「子」とつく名であった。

 しかし嘉乃にとって、それは雲の上のことで、よもや自分がそのような名になるとは思ってもみなかった。嘉子かこ、という呼び名に慣れなくてはいけないので、今後はずっと「嘉子かこ」と呼ばれるらしい。――なんだか自分ではないようだった。


 三人みひとの隠し子という設定なので、家族とも友だちとも、もう二度と会えないということも、じわりと嘉乃を苦しめた。家族には最後に一度会えるらしいが。それも本当に叶うかどうかは、分からないと嘉乃は思った。

 お父さん、お母さん、垂水たるみ紀乃きの

 あの別れが、本当の別れとなってしまったとは。

 嘉乃は紫微宮しびのみやに行くときの別れを思い出していた。くるまを追いかけてずっと走ってきた垂水が愛しかった。無邪気に「休みには帰ってきてね」と言った紀乃も「身体に気をつけて」と気遣ってくれた母も。

 ……父は何かを察していたのかもしれない、と思った。迎えの俥を見て、顔をしかめていた。


 三人みひとさまは何か思惑があって――もしかして、こうなることを願って――わたしを女官として東宮御所に送り込んだのかもしれない、と思い至った。しかし、三人みひとさまの思惑がどうあれ、わたしは清原王きよはらおうに恋せずにはいられなかった。どうしようもなかった。



 運命の子たる予言の王を、産み給ふ娘よ

 運命の相手と象徴花しょうちょうかを共有し、

 栄えたる瑞穂の国のいしずえとならん



 真澄鏡まそかがみの前で聞いた声が、また聞こえた。

 ――嘉乃の目から涙がこぼれた。

 そのとき、ひらひらとユキヤナギが舞い、鳥が窓から入ってきて、嘉乃の前に文を落とした。緑色の美しいその鳥は、一声鳴くと、すぐに去って行った。

 嘉乃が、桜色の和紙の文を開くと、そこには清原王の手で「愛している」とだけ書かれていた。他に伝えたいことは山のようにあるが、その一言だけを書いたことが分かって、嘉乃は胸がいっぱいになりその手紙を胸に押し付けた。

 頑張ろう、と思った。


 家族よりも何よりも、大切な人を見つけてしまったのだから。

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