第二節 逢いたい気持ち

第十話

「……清原王きよはらおう。毎晩、どちらにいらっしゃっているのですか?」

 真榛まはりの声が厳しく響いた。

「散歩だよ」

「――冗談はおやめください」

「……真榛まはり

「清原王。いま、天皇家は非常に微妙な立ち位置におります」

「分かっている」

「いいえ、分かっていらっしゃいません。天皇家の力が衰えている今、ふじ氏との婚姻は絶対に必要なのです。あなたさまは、藤氏の聖子さまと婚姻を結ぶのですよ?」

「――分かっている」

「……本当ですか?」

 真榛まはりの視線は清原王を射抜いた。

「あの娘は、調べてみれば、たちばな氏の傍流です。つまり、橘氏が何らかの思惑を持って送り込んだ人物です。藤氏と橘氏は対立している。……せめて、他のものにしてください」


 他の?

 と、清原王は思った。

 他の、とはどういう意味だろう?

 嘉乃よしの以外の?

 嘉乃以外なら、誰でも同じだった。藤氏のお姫さまも、そこらにいる女官も。

 清原王にとって、嘉乃だけが特別な存在だった。


「私……私は、嘉乃以外、考えられない」

「清原王! 美しい娘なら、他にもおります。あの娘だけはおやめください。めあわしの儀を行ってのち、嘉乃以外の娘を側女そばめとなさいませ。聖子さまに気づかれぬよう、手配いたしますから」

「そうじゃないんだ、真榛まはり

「清原王」

「……どうしたら、いいんだ……。嘉乃を側女そばめにしたいわけではない。ましてや、他の誰かを側女そばめにしたいわけでもない。私はただ、……嘉乃だけしか目に入らないんだ」

「それでも、清原王。もうお会いするのはおやめください。めあわしの儀はもうすぐです。今はまだ藤氏には知られておりません。今ならまだ間に合います!」

「……真榛まはり……」

 真榛まはりの言っていることはもっともだった。

 そんなことは、清原王にも分かっていた。充分すぎるほど。

「清原王、いいですね?」

 真榛まはりがきつい声で念を押した。しかし、清原王は頷くことが出来なかった。



 嘉乃はこのごろ、仕事に身が入らなくて、女官頭にょかんがしら大滝おおたきに怒られることが増えていた。


「嘉乃! いい加減にしなさい。何度お皿や壺を割ったら気が済むんですか⁉」

「……すみません」

「すみませんは、聞き飽きました!」

「……すみません」

 大滝は大きく溜め息をついた。

「あなた、首になりたいの?」

「いいえ!」

 嘉乃は大きく首を振った。

 もし首になってしまったら、月原さまと逢えなくなってしまう、と思った。

 しかし、月原との逢瀬を思うと、仕事に身が入らなくなるのも事実だった。日中でも常に、夜のことを考えていた。そして、脳裏に浮かぶのは彼のことばかりだった。

「すみません」

 嘉乃はもう一度頭を下げた。


「……ねえ、大丈夫?」

 大滝が去ったあと、初瀬が声をかけてきた。

「――うん」

「……ねえ、嘉乃。いつも夜、どこに行っているの?」

「……言えない」

「……好きな人、出来たの?」

 嘉乃は答えることが出来なかった。でも、初瀬は、ちょっと笑って「分かった」と言った。

「寝不足も失敗の原因だからさ。もう少し早く戻るといいよ」

「うん」

 それは分かっていたのだが、毎回離れがたく思って、帰るのがどんどん遅くなっていっていたのだった。


「恋する顔してる」

「え?」

「いいなあ! わたしも恋したい!」

 初瀬は明るく笑って言った。

 恋?

 ――そうか、これが恋。

 ひと目見たときから、惹かれた。

 優しい瞳。

 なめらかであたたかい、手のひら。

 愛しい口づけ。

 昼も夜も、あの人のことが頭から離れない。

 他のことは手につかない。


 もっと。

 ほんとうは、もっとずっと触れて欲しい。

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