第8話 ひとときのスローライフと、お風呂!?


翡翠ひすいの勇者様とその従者様とは知らず、働かせてしまって申し訳ない」


 騒動が沈静化してからお店に戻ると、マスターはそう言って頭を下げてきました。


「気にしないでください。このお店に来た時、お金がなかったのは事実だったのですから」


 私は胸の前で手を振りながら、マスターに顔を上げるように促します。


 黙っていたことを申し訳なく思う一方で、タケル様のことが隣国まで伝わっていたことを知り、私は少し嬉しくなりました。


「お皿、何枚も割っちゃったし。勇者だって言われても普通は信じないよね」


「そうですね。実際に同調チューニングした姿を見せなければ、信じてはもらえないと思います」


 申し訳なさそうな顔をするタケルさんに対し、私はそんな言葉を投げかけます。


 普段の彼に勇者らしさなど微塵もありませんが、それはそれで構わないようにも思えます。


「せっかく出会えたのですし、これも何かの縁です。もうしばらくここで働かせてもらえませんか?」


「そ、それは……うちの店としては嬉しい限りだが……」


 そう提案するも、マスターは困惑顔をしていました。


「最初に働きたいと申し出たのは私たちです。借金もあるという話ですし、その返済が終わるまではここにいさせてください。タケルさん、いいですよね?」


「カナンさんがいいのなら。僕もできるだけ手伝うようにするよ」


 視線を送りながら尋ねると、彼は快諾してくれます。


「せっかくだし、勇者様はうちの店で用心棒をしてもらえないか? 営業時間中に店の中にいるだけでいいからよ」


「え、そんなのでいいんですか……?」


「もちろんさ。酒を飲んで暴れる輩もいるだろうから、ちょちょいと懲らしめてくれたらいい」


「いや、僕は戦いが好きじゃないんだけど……」


 どうしようか……といった顔で私を見てきます。そこは自分で決めてくださいよ。


「あのゴロツキたちが仕返しに来る可能性もないとは言えませんし、しばらくここに滞在して、様子を見てはどうでしょうか」


「さすがに大丈夫だとは思うけど……」


 そう言いながら、タケルさんは視線を泳がせます。


 用心棒という名目とはいえ、人に対して暴力を振るうことに抵抗があるようです。


「用心棒といっても、騒ぎが起こらなければ仕事もないのですよね? それならば、空き時間にスローライフを楽しむつもりで引き受けてみるのはどうです?」


「……スローライフ!」


 私の言葉を聞いたタケルさんが、明らかに目を輝かせました。


「うん……それなら、引き受けてもいいかな」


「そうかい! ありがとう、これで一安心だ!」


 どう見てもタケルさんの目的はスローライフでしたが、マスターは「店の名前も勇者亭に変えちまうか」なんて言いながら、鼻歌まじりに店の奥へと入っていったのでした。


 ◇


 ……それから数日間、タケルさんはスローライフを堪能していました。


「さて、次はイグリア豚の下処理だぞ」


「そ、それ、昨日もやりませんでしたっけ?」


「昨日のはイグリア鳥だな。まずは皮のはぎ方だ。しっかり覚えてもらうからな」


「頑張りますけど、あの、ぐろいのはちょっと……」


 ……否。スローライフを始めたはずが、いつしか料理修行になっていました。


 開店前の食料庫や、閉店後の厨房で、時間を見つけてはマスターから料理の手ほどきを受けています。


「た、確かに習いたいって言ったのは僕ですが、ここまで本格的とは……」


「本格的も何も、基本的なことだぞ。ほら、やってみろ」


 マスター、お店に立っている時と目つきが違います。ひょっとして、本来であれば酒場ではなく料理屋をしたいのかもしれません。


 タケルさんも、この経験を通じて新たな自分を発見できるといいですね。


 ……そうそう、発見といえば、私も最近、新たな発見をしました。


 右手に紋章を出現させたあと、それを耳に当てながら言葉を発すると、離れていてもタケルさんと会話ができるということに気づいたんです。


 彼は『デンワみたいだ』と言っていましたが、私にはよくわかりませんでした。


 ただ、すごく便利な力だとは思ったので、買い物や待ち合わせの時には使わせてもらっています。


 ◇


 やがて一週間も経つ頃には、タケルさんは精根尽き果てていました。


「タケルさん、スローライフは楽しまれていますか」


「ぜんぜんスローライフじゃないよ。むしろ忙しいし」


 お店のテーブルに突っ伏す姿は、とても勇者とは思えません。


「……やりすぎたかな」


 そんな彼を前に、マスターは腕組みをして申し訳なさそうな顔をしています。


「スローライフのためには料理は必須スキル……なんてことを言いながら頑張っていましたけど、さすがに疲れてしまったのかもしれませんね」


「仕方ねぇ。調子に乗りすぎた俺も悪いし、いっちょアレやるか」


「アレとは?」


「まあ見てなって。薪代がかかるから、滅多に沸かさないんだが……」


 マスターはそう口にしながら、お店の裏にある小屋へと向かっていきます。


 しばらくすると、その小屋の煙突から煙が立ち昇ってきました。


「……これは、お風呂ですか」


 建物に入ってみると、そこには大きな浴室がありました。


「おうよ。この熱々の風呂に入りゃあ、勇者様の疲れも吹き飛ぶってもんだぜ」


「それはいい考えですね。さっそく呼んできましょう」


 私はお店のほうに取って返すと、未だにテーブルに突っ伏したままのタケルさんに声をかけます。


「え、お風呂があるの?」


 そして状況を説明すると、彼は声を弾ませました。


 私も王宮では毎日入っていましたが、彼もお風呂の気持ちよさは知っているようです。


 それから着替えを用意したタケルさんは、嬉々として浴室に向かっていきました。


「勇者様が出たら、カナンちゃんも入ったら良いぜ。毎日仕事続きで、疲れてるだろ」


「そうですね。ありがとうございます」


 お礼を言うと、マスターはひらひらと手を振りながらお店へと戻っていきました。


 ……はて、このままここでタケルさんがお風呂からあがるのを待ち続ける……というのも、時間がもったいない気がします。


「そうです。私は姫巫女なのですし、勇者様の背中くらい流してあげましょう。父の入浴中も、よく侍女の方がやっていましたし」


 そうと決まれば、善は急げです。濡れても良いような服に着替えて、垢すり用の布を用意して……。


「タケルさん、お背中お流ししますね!」


「きゃあああーー!」


 ……浴室に入ったと同時に、叫ばれました。


 女性の私が叫ぶならわかりますが、男性のほうが叫ぶとは思いませんでした。


「ちょ、ちょっとカナンさん、何しに来たの!?」


「え、何って、お背中を流しに……」


「い、いやいや、ダメだって! 裸だから!」


「いえ、服は着ていますよ。大丈夫です」


「僕が大丈夫じゃないから!」


 ……結局追い出されてしまい、背中を流させてはもらえませんでした。


 よくわかりませんが、これが異世界との文化の違いというやつなのでしょうか。あそこまで恥ずかしがるなんて。謎です。

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