第12話 信頼の芽生え

 あと一隻と思った瞬間、突然、声が聞こえた。


「エディス姫、伏せろ!」


「え、えっ?」


 一体何が起こったのかさっぱり分からなかったが、言われるままに頭を屈めた。


 少し上をヒュッと何かが横切り、続いて男の呻き声のようなものが聞こえた。


 振り返ると、ずぶ濡れの男がいた。右手にダガーのようなものを持っているが、その胸にもダガーが刺さっている。


 口から大量の血を吐き出して、男が背中から倒れた。



 一瞬、夢でも見ていたのかと思ったが、続けざまに鼻を突く強烈な血の臭いが現実へと引き戻す。


(敵が後ろにいたの?)


 ようやく、自分がしてやられたらしいと理解する。


 先ほど、シルフィからも言われた通り、近くで何かが動いていたら気づく自信はあった。そういう勘は鋭いと思っていたが、今は全く通用しなかった。


(何で分からなかったの?)


 エディスは無意識で魔力の網を張り巡らせていたが、それは自分の足より下には伸ばしていない。


 男は船を脱出した後、飛んできた球の方向を見定めて泳いでいたが、陸上にいたエディスと海中を泳いでいた男との間には高さにかなりの差がある。更に波も揺れていたため、至近距離まで気づかなかった。至近距離に近づいた時には、エディスは船の方に意識を集中していたため、付近への警戒を怠っていたのである。



「うっ……」


 思わず左手で口元を覆った。


 血の臭いか死臭か、眩暈を覚えて無自覚に海の方に近づく。どうせ吐くのなら、港の通路よりは海の方が良いだろう、と。


「ダメだ! 敵が海中にいるかもしれない!」


 怒号が聞こえて、反射的に下がり、へなへなとその場に座り込んだ。


 そこでようやく相手を確認する。


「つ、ツィア・フェレナーデ……」


 ツィアはまっしぐらに近づいてきて、倒れている男の死体を海中に蹴り込んだ。


 それで多少血の臭いは薄れたが、一瞬の安心感が逆に嘔吐感を強める。


「うぅ……」


「敵は俺が見る。吐くならその辺りで吐けば良い」


 ツィアはあっさりと言う。


(そういう問題じゃないのよ!)


 エディスは心の中で叫ぶ。


 傍若無人で知られていても、侯爵令嬢としてのプライドはある。


 まさか人前でおおっぴらに吐くわけにもいかない。


 しかし、ツィアは戦況だけを見ているのだろう。吐くなら吐いて良いとあっさりと言う。


 どうにか喉のあたりで堪えていると、海中で音がした。


「ハッ!」


 音がしたあたりに、別に持っていたダガーを投げつけると、短い悲鳴があがった。


「黙って両手をあげない奴は、全て敵とみなす! 分かったか!?」


 海中に叫ぶと、2人ほど手をあげる様子が見えた。


 それだけの相手が海中から自分を目指して近づいていたらしい。


 現実を知り、自分の甘さを思い知ると同時に。


「うぇぇぇぇぇ!」


 どうにか維持していた緊張が切れた。



 30秒ほどの時間だが、エディスには一時間近くに感じられた。


 急激に自分が惨めになる。戦況を変えると出向いたのに、殺されそうになった挙句その場で吐いているのだから。


 ツィアは海中を見て警戒している。先ほど降参した2人は揃って陸上で縛られていた。


「どうやら、この方面に向かっていた連中はどうにかなったようだね」


 海中から視線をそらさないまま、そう言った。


 確かに、戦況としては解決したようだ。エディスが最後の一隻を沈めることはなかったが、といって、上陸地点で何か騒ぎが起きているわけでもない。防衛隊がどうにかしたのだろう。


「……ごめんなさい」


 エディスは短く声を出した。ツィアは不可解な顔を向ける。


「姫が謝ることじゃないですよ。むしろ、姫が手を尽くしてくれたから、この方面は勝利できたのですし」


「でも、私のせいでツィアに色々煩わせることになって……」


「それも貴女のせいではないですよ。どういう経緯でエディス姫が単独でここに来たのかは分かりませんが、そうさせてしまったティシェッティ公子の責任です。姫が敵船をあらかた沈めてこちらの戦況を変えた。そうなれば狙われる可能性もあるのに護衛をつけていなかったわけですから。作戦を立てていたティシェッティ公子は想定して何とかすべきでした……」


 べしゃという音がした。近づいたツィアが吐しゃ物を踏んでしまったようだ。


「……あ、私は何も見ていませんでしたので」


 気まずくなったのだろう、あからさまな嘘をツィアは口にした。



 情けなさ、恥ずかしさ、惨めさ。


 セシエルが悪いと言われても、素直にそうだと言いづらい。


 日頃は「全部セシエルのせいだ」と思っているが、今に関してはそうは思えない。


 自分がもっときちんとやれば、という思いが出て来る。


「反抗できないくらいに、完全に船を破壊すべきだったのかしら……?」


 相手の船員も生きている。船の上でなすすべもなく殺すのは酷ではないか。そんな思いがなかったとはいえない。


「戦況だけを見ればそうでしょうね」


 ツィアは速やかに肯定したが、同時に微笑を浮かべる。


「ですが、姫は皆に力を与える存在、希望を持たせる存在です。相手を皆殺しにするような人であってはいけない。だから、俺……失礼、私は間違っていないと思いますよ。仲が良いのだろうとは思いますが、なあなあで任せたセシエル公子とハルメリカ市長の責任だと思います」


「……本当にセシエルとネミリーに言ってもいいの?」


「もちろん。全部味方するとは言えませんが、今回のことに関してはエディス姫の味方たらんことを誓いますよ」


 ツィアはそう言って、大仰に一礼をした。

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