第5話 水上宮殿の中で
オルセナ王都セシリーム。
水上宮殿の廊下をシルフィ・フラーナスが歩いていた。
シルフィは多少の魔道知識がある。とはいえ、相手を攻撃するとか、自分の身を守るといった大掛かりなものは使えない。彼女が地元で学び、使いこなせるようになった魔道はただ一種、自分の周辺の空気の質を変えるだけである。
空気の質を変えて、周辺の光の反射を全く変える。それにより、彼女の存在が人間の視力では確認できない光の質を帯びる。それのみがシルフィの使える魔道であり、その魔道力と移動に必要な身体能力をしっかり確保していることをもって、「フンデ一の盗賊」を自称しているのであった。
今、その能力を活かして、宮殿の中を歩いている。
もちろん、武器や物を持つことはできない。周辺の空気の流れが変わるからである。
しかし、ただ移動するだけであれば誰にも見えない。
「はずなんだけどなぁ」
そう自負していたはずだが、三日前にエディス・ミアーノにはあっさりと発見された。
三大陸一の美少女として知られているエディスであるが、実際に目にした彼女はその圧倒的な美貌以上に、理解不能の存在であった。
そのエディスは何のアテもなくコレイド地方まで向かっていった。
そこから先、どうなるか分からない。良くも悪くも天衣無縫過ぎるエディスはコレイドにいる自分の主人や兄を心酔させるかもしれないし、あるいは大騒動を巻き起こすかもしれない。
そこには責任を持てないが、ひとまずシルフィは自分の仕事をこなすだけである。
宮殿の一角、王の間にはベッドに伏している老人がいる。
オルセナ国王ローレンスは数年前から病気でずっと床に伏しているという。
故に近年は、形式的に決裁を行う以外、全て息子のブレイアンに任せているという。
そのブレイアンの部屋は、ローレンスの部屋の奥にある。
(うん? これは……)
どうやら元王妃の部屋であるらしい。それが分かるのは、その元王妃らしい肖像画が飾られているからだ。
だが、シルフィはその肖像画を見て驚いた。
(エディス・ミアーノとそっくり?)
もちろん肖像画であるゆえ、細部まで似ているというわけではない。だが、特徴的な漆黒の闇を思わせる髪と、深い海を思わせる青い瞳、この二つだけで十分すぎるほど同一性を感じさせる。
(どういうことなの?)
もしかして自分はエディスに騙されたのか。シルフィは思わずそう思った。
(でも、あのお姉ちゃんにそんな裏表があるようなことができるとは……)
二度、話をして「どうしようもない馬鹿だ」と正直思った。それは嘲るような意味だけではない。良い意味でも馬鹿だと感じ取った。ゆえに、彼女が自分を巧妙に騙すということは信じられない。
あまりそのことを考えている余裕もなさそうだった。
王妃の肖像画の下には金髪に緑の瞳が目立つ男がいる。歳の頃は三十前くらいか。中々の美男子だが、シルフィが今従っている銀髪の青年と比較するとやや見劣りするだろうか。
その男、オルセナ王子ブレイアン・ロークリッド・カナリスの前に青年が2人いる。1人はブレイアンと同じくらいの年齢、もう1人はもう少し若いようだ。若い方は才気を感じさせるが見た目に地味な年上の男の方が身分は上らしい。
その男にブレイアンが呼びかける。
「あの、レルーヴ大公が派遣してきた魔道士、アロエタの兵士達を皆殺しにしたらしい。中々のものではないか」
「はい。何でも人を食らうことで自らの魔力が増幅するらしい、とか」
部下がブレイアンに大袈裟なジェスチャーを交えて説明した。
(人を食らって魔力が増大する?)
シルフィは魔道理論の詳しいところまでに精通しているわけではないが、そんな理論は聞いたことがない。人の生まれもった魔力素質は、神器などで一時的に増幅されることはあるにしても、他人を殺して上回ることはないはずだ。
シルフィはそう思うが、さしあたり眼前で話に興じている連中はそう思っていないらしい。
「人を食らえば強くなるか。それなら、オルセナにはどうでもいい人間が捨てるほどいる。いくらでも食ってよいのだから、とてつもなく強くなれるのではないか? ハハハハハ!」
ブレイアンが大声で笑い、残る2人も「全くですな」と笑い始める。
シルフィは歯ぎしりをするほど、歯を噛みしめた。
(フンデの盗賊が思うことじゃないけど、こいつらは人間のクズだわ)
自分が素晴らしい善人であるとは思わない。盗みの類はいくらでもやってきた。直接手を下したわけではないが、自分のせいで死に追いやられた人間だっていたかもしれない。
しかし、それにしても自らや兄、関係のある人達のためである。
仮にも殿下と呼ばれるべき立場にある者が、下にいる者を指して「捨てるほどいるから、いくらでも食って良い」など許されることはない。
(こんな連中がいるから、生きるために誰かを踏み台にしないといけない人達がどんどん増えるのよ!)
内心で叫ぶシルフィであるが、もちろん実際に声に出すことはできないし、攻撃もできない。
彼女の安全は、彼女が無言のまま静かに動いていることによって保たれる。激しい行動をすれば、魔道の光が解けてしまうかもしれないし、仮に見えないにしても物音でバレてしまうかもしれない。
「まあ、それは今後の交渉だ。ひとまずは兵士どもを連れてサンファネスの連中も皆殺しにせねばならん」
「はい。全くセローフも厄介な話を持ってきたものですな」
ブレイアンのとんでもない発言に部下が応じる。
「……親父もエフィーリアのことになると口をつぐむ。生きているのか死んでいるのかすら分からないが、とにかく知っているかもしれない者達や噂にする者達を皆殺しにすれば、問題はないだろう」
更に「残った連中を奴隷として売り払えば、オルセナの国庫も潤うしな」と大笑いをする。
「今更、妹君など出てこられても迷惑なだけですし、な」
部下が続いて笑う。
(妹? ということは、ブレイアンには妹がいるってことなの?)
ブレイアンの妹ということはオルセナの王女である。恐らくその人物は肖像画の人物の娘だと考えた時、シルフィは背中に電撃が走るような錯覚を感じた。
(もしかして、あのお姉ちゃんがオルセナの王女……?)
そうだとすれば、とんでもないことかもしれない。
彼女は色々なことを模索するが、次第にトーンダウンしてくる。
(……でも、あのお姉ちゃんはこの王子よりは余程マシだと思うけど、多分馬鹿だからオルセナにとってはやっぱり災いだわ)
そう、結論付け、これ以上その問題については考えないことにした。
結果的にその決断はエディスの命を救うことになるのだが、当人もエディスも、現時点でそのことに気づくはずもなかった。
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