一輪の椿の花
「どうぞ、お掛けになって」
生気のない薄い唇が動き、もう一度促した。ベッド脇に一つ丸椅子があるのを見つけ、座る。口を開こうとしたとき、部屋に留まっていた看護師がそそくさと部屋の外へと出ていってしまった。
「それじゃあ、後はお任せしますから。何かあれば呼んでください」
一秒でも早く逃れたいという気持ちが早足にありありと現れていた。部屋の空気がそうさせるのだろう。病室だということは差し引いても、綺麗に整理整頓された棚やベッドに窓辺に置かれた一輪の椿の花。一見すると高貴な香りが漂ってきそうなこざっぱりとした綺麗な空間。が、その実、香りの奥にあるものは禍々しい腐臭だ。たくさんの花が地面に捨て置かれたような。
扉が乱暴に音を立てて閉められ、鍵が掛けられた。
「あら。閉じ込められてしまいましたね。吉良先生。私、看護師さん達に嫌われているみたいなんです。気持ちはわかります。気味が悪いですものね。私も心苦しいのですが」
随分と饒舌だ、と吉良は思った。いつもは思い出すように訥々と喋っていたのに。
「あやかしが関わると、看護師さん達も対処のしようがわからないですから困ってしまうのだと思います」
「そうですよね。だから、先生が来てくださったんでしょう。やっぱり先生は優しい方です。私を助けに来てくださった。あやかしの話は聞いています。餓鬼、と呼ばれるあやかしが私に取り憑いたのだとか。でも、先生が退治したとも伺っていたのですが。おかしなことにまだ治らないのです。声が、耳に響くんです」
吉良は知らずに下へずり落ちてきた眼鏡を上げた。椿は左右の耳を両手で塞いだままにこやかに笑っていた。ただ、笑顔は顔の上に一枚紙を貼り付けたように薄っぺらい。
「……声が。まだ聞こえるんですか?」
きゅっと椿の口角が上がった。
「そうです。まだね。聞こえるんですよ。あやかしがまだ私の中に取り憑いているのでしょうか。せっかく良くなってきたと思いましたのに。でも、先生が来られたからもう心配することはないのですよね」
「それはまだどうなるか……」と答えてハッと気がついた。言葉数が少ない、いつもは話の輪郭がわからないようにされ、今は喋り続けることで煙に巻こうとしている。問題の核心から少しずつ少しずつ遠ざけようと。
吉良は膝に置いた手をぐっと握り締めた。椿はあえて自分を選んだのだ。日記に書かれていた「優しい方」というのは間違っても褒め言葉ではない。
「その声の原因。最初からご存知だったはずです」
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