結界陣

 眼前に現れた沙夜子の髪は元の色を取り戻していた。跳び上がる脚も、掲げた腕も肉付きが戻っている。


 赤子の心を持ったあやかしが吉良に触れた僅かな時間、動きを止めたからだろう。


「悪いけど、これで終わりよ」


 沙夜子は振り上げた腕をあやかしの掌に埋めた。真白な光が掌から輝き出し、繋がっていた吉良の手から離れていく。何も知らない笑い声はすぐに泣き声に変わり、激しく空気を揺らし始める。


 陣が発動した。連なる景色とあやかしの間にさかいを見つけ、世界とあやかしを峻別する。元々形の無いあやかしは存在自体が不安定だ。


 人々の記憶から消えてしまえば存立できないほどに脆弱。存在が確立したばかりのあやかしならば、容易に消えてしまう。


 世界の連関からあやかしのみを切り取る結界陣は、その存在を否定するわざだ。切り取られたと同時にあやかしは景色の中に封印され、力の弱いあやかしならば存在そのものが消されてしまう。


 吉良も沙夜子もそのことはわかっていた。だからこそ沙夜子は吉良に問うた。


「陣を展開する。いいわね」


「そんなこと、言われなくてもわかっています。どうするかは最初から決まっています」


 本当は助けに行きたかった。助けを求める声に応えたかった。吉良は動き出そうとする自分の体をきつく抱き締めると、その場に留まろうとした。床に足が張り付いて動けない状態をイメージしながら。


 泣き声が一層強くなる。沙夜子がさらに右手に力を込めたのだ。光はますます強くなり、何色にも染まっていない純粋無垢な大きな瞳が見開かれる。瞳は吉良へと一心に注がれ、もう片方の手が沙夜子の頭を飛び越えて力無く伸びてゆく。


「……ああ……」


 勝手に手が伸びる。張り付いていたはずの足が一歩前へ進む。応えないわけにはいかないだろう。この命に罪はないのだ。


 生まれたかった。ただ生まれたかった命に、罪などないのだ。


「ダメだ」


 吉良の動きを止めたのは月岡だった。煙の匂いが体に纏わりつく。


「離してください……お願いだから、離してください……お願いします」


 懸命に伸ばされた手を掴んでやりたかった。最後かもしれない、意味なんてないのかもしれない。だけど、何かが変わるのかもしれない。


 それでも。腕は消えていく。空気に溶け込むように。空間に散らばっていくように。


 沙夜子は、舞を終えたように腕を下ろした。後には最初から何も無かったかのように深い闇が続いていた。


 微かに聞こえていた泣き声も、徐々に徐々に消えていく。


 癇癪を起こしたような泣き声が弾けたのは、そう思った矢先だった。

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