呱々の声

 状況判断が優れていると言い換えてもいいのかもしれない。こんな状況でもすぐに落ち着きを取り戻して対処に当たろうとする。警察官としてこれまで相当な訓練を積んでいるのだろうが、改めて吉良は月岡の持つ強さを実感もしていた。


 沙夜子と月岡はもう覚悟を決めている。自分達が何をしようとしているのか、全てわかった上でそうせざるを得ないと覚悟を決めている。


 ──自分とは違って。


 冷えた空気が降りてきて首元を湿らせた。身震いするような寒さを感じると、吉良は首に手を当てながら階段を沿うように二階へと目を走らせた。


 月岡の姿がない。同時に違和感が悪寒という形で全身を襲った。


「沙夜子、さん」


 音は何も聞こえない。何も聞こえないのだ。響くはずの月岡の足音も。確かに駆け上がっていったはずなのにまるで何もいないように、しん、としていた。


「沙夜子さん?」


 恐る恐る振り返る。返ってくるはずの声がまるで聞こえなかったためだ。


 しかし沙夜子はそこにいた。そこにいて何かを指示していた。口を大きく開けて。


 だがその声も聞こえない。吉良は突然目を大きく開くと、自分の耳を塞いだ。全身を襲った違和感の正体に気がついたときにはもう遅い。


 最初から聞こえていなかったのだ。発したはずの自分の声も鼓膜は受容してくれなかった。代わりの音がずっとずっと鳴り響いていたからだ。


 たとえば、空耳という言葉がある。全く別の言葉がそうとしか聞こえなくなること。一度認識してしまえばその言葉はそれ以外の音には聞こえなくなる。元々は違う音を発しているはずなのに。


 同じように一度それを認識してしまえば、音が聞こえてくる。小さな音が次第に増幅されて、ついには耳を覆う。


 病院で白坂雪子が怯えていたのはこの声だ。


 聞き覚えのある声なのにひどく恐ろしく聞こえた。愛しいはずの声なのにひどく哀しく聞こえた。何かを求める声が心臓を鷲掴みにする。身動きができずに身体の外から内側へ刺さり、侵入していく。


 四方を囲むその音は、大勢の赤子の無数の泣き声だった。


「やめろ……」


 やはり自分の声も聞こえなかった。耳を強く塞ごうとも、耳の穴に指をねじ込もうとも空気を切り裂く泣き声が耳の中へと飛び込んでくる。延々と延々と哭き続ける。


 いっそ、鼓膜を破ってしまえば、と思い至ったところで日記の字面が勝手に頭に浮かんだ。


 ──なんで泣くんだろうなぁ。悲しいのか辛いのか。そうじゃない。たぶんただお腹が空いただけなんだろうなぁ。あんなふにゃふにゃした顔で感情なんてない。お腹が空いたぁ、お腹が空いたぁ、って泣いてるだけなんだろうなぁ──


「やめっ……」


 吉良は頭を振りかぶった。何かが入り込んでくる。泣き声だけではない。得体のしれない、今まで感じたことのない何かが入り込んでくる。


 なんで泣くんだろうなぁ、なんで泣くんだろうなぁ、なんで泣くんだろうなぁ、なんで泣くんだろうなぁ、なんで──。

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