死因と惨状

「死亡が確認されたのは本日午前6時17分。死因は栄養失調。つまりは餓死だ」


 エレベーターの中は相変わらずタバコの匂いで充満していた。病院へ来る途中、月岡がずっとタバコを吸いながら運転していたために、吉良の髪や服に匂いが染み付いてしまっていた。そんな匂いなど微塵も気が付いていないのだろう。月岡はメモ帳を目で追いながら、雨平から報告を受けたばかりの状況を伝えていた。


「死亡したのは、異食で病院に搬送された中学一年生の少女。原因不明の極度の飢餓状態で点滴を継続するものの栄養素がほとんど行き渡らずに、今朝方になって容態は悪化。手の施しようがなくそのまま死亡に至った」


 はやる心とは裏腹にエレベーターは危険防止のためにゆっくりと上昇していく。吉良は無意識に、音が出ない程度に手すりを右手で何度も叩いていた。


「死亡する直前。少女は飛び起きて、体についていたものを全部噛み千切ろうとした。両親や医師、看護師が止めに入ったにも関わらず、強い力で跳ね除けて自由になると点滴から針から医療機器まで全てを食べようとした。再度止めに入った看護師も噛み付かれ出血。少女は最後、奇声を上げてそのまま床に倒れ込んだところで心肺停止状態になった。その声はまるで生まれたての赤ん坊のような声だったらしい。ひとまずはまあ、以上だな」


 手帳を閉じてポケットに仕舞い込むと、ちょうどタイミングよくエレベーターの揺れが止まった。扉が開くと制服姿の警察官らが忙しそうに動き回っていた。


「行くぞ」


 タバコの匂いとともにピリピリとしたムードを漂わせながら進む月岡の後ろを吉良は俯きながら歩いていった。行き交う人々との歩く速さ、歩幅の違いをぼんやりと考えながら。


 病室の前に立っていた一人の屈強そうな警察官が、何も言わず中へ入ろうとする月岡を止めた。


「何ですか?」


「捜査だよ。見てわかんねぇのか? あやかし対策の月岡だ」


「月岡さん……まだ雨平を部下のように使っているんですね。いいですか。今は本部が調査中です。どうかお引き取りを──」


 月岡の拳が扉を叩いた。


「本部だ? さっさと投げ出してこっちへ押し付けてきたくせしやがって今さら何を偉そうに。てめぇらじゃ解決できないだろ! どけ!」


「月岡さん。もう、あなたの命令に従う義務はありません。それに」


 警察官の帽子に隠れた目がちらりと吉良を見た。


「事件に関係のない一般人を入れるわけにはいきませんから」


 一般人。確かにそう見られてもおかしくない。誤解を解こうと顔を上げたそのとき。月岡が目の前の警察官の胸ぐらを掴んだ。


「何の冗談のつもりだ? こいつはあやかしの専門家で、捜査に協力してもらってんだ。記録はきっちり残している。お前だってわかってるはずだろ?」


「もちろんわかってますよ。だから言っているんです。捜査の邪魔だと。あやかしだかなんだか知りませんが、もう人が死んでるんですよ? 事件を解決できていないのはどちらでしょうか?」


「てめぇ!」


「殴るんですか? あのときのように! 聞いていますよ。そんなんだから異動させられたんですよね! 誰があんたなんか信用すると思いますか? あんたが関われば、事件はめちゃくちゃになるだけだ!」


 急に怒鳴られた月岡の怒りの形相の中に一瞬哀しみの表情が浮かんだような気がした。見開かれた瞳が三日月を描くように細まり、やがて閉じた。月岡は掴んでいた手を放す。


「ここで無駄なおしゃべりをしている場合じゃねぇ。悪いが入らせてもらうぞ」


「話を聞いてたんですか? 入れるわけがないでしょう!」


「黙ってろ」


 見開かれた瞳は鋭利な刃物のように鋭く冷たい色をしていた。底知れない殺気のような塊が、瞳の奥に宿る。


「悪いな。行くぞ、先生」


 月岡に睨み付けられたことで肝を潰されたのか、優に180センチ以上はありそうな巨体の警察官は黙り込んでしまった。吉良がおずおずと横を通り過ぎようとしたとき、耳の中にひどく小さな呟きが飛び込む。「きつね」と。


 ──狐? 吉良は思わず警察官の顔を確認しようとしたが、月岡に止められた。


「関係ないことは気にするな。先生にはまだ、やってもらわなきゃいけないことがある」


「え、ええ」


 月岡は周囲の視線を気にすることなく、高い靴音を鳴らしながらベッドへと近付いていった。側で写真を撮っていた鑑識らしき人が驚いて立ち上がる。


「あの、ちょっと」


 穏やかな制止の言葉も無視してベッドの血溜まりに手を入れると、探るようにシーツを撫で回す。


「血が別の液体と混ざって通常よりも滑らかになっている。相当な量だ。二本の点滴が繋がれていたはずだ。引き千切ったんだろうな。あるいは噛み切ったか。体の負荷も気にすることなく。それに、メチャクチャだ。シーツだけじゃねぇ。棚も机も椅子も全部が。相当暴れたらしい。先生、どう思う?」


 ベッドは横に傾いていた。月岡が触ったことで軋み、上向きになった二つの車輪が意味もなくクルクルと回転している。木製の棚は板が何枚か割れており、机はネジが取れて上部が半分外れていた。そして、あちこちに不自然に開けられた穴があった。報告通りだとすればかじった跡。


「どう思う……それは……」


 一言で言えば惨状だった。尋常ではない力で暴れ回った様子が色濃く残ったまま。月岡が触ったベッドシーツからはまだ血が垂れ落ちていて、薄緑色の壁にまで飛び散っている。殺人事件でも起こったかのような有様だった。


「……わからない」


 吉良の口からかろうじて出た言葉はそれだけだった。血に消毒液に腐敗臭にタバコ──様々な匂いが入り混じったこの部屋からは、何のヒントも得られなかった。吉良が得られたのはただ一つ。間違いなくここで人が、少女が、あのとき目にした内田紗奈という名の少女が死んだというおびただしい数の証拠だけだ。


「何を……やっているんですか……?」

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