暴走
「異常……事態」
改めて言われたことで今見たものが現実だと突き付けられた気がした。ここへ来るまでにもう数十台とすれ違っている。
吉良は腕時計を見た。時刻は6時に差し掛かろうとしていた。沙夜子から電話があってから一時間近くは経っている。電話をかけてきたときにすでに鬼救寺に人が集まっていたとしたら、今、一体何人の人間が押し掛けていることか。
「──わからないのか?」
「え……」
月岡は舌打ちをした。
「原因はまだわからないのかって聞いてんだ! ボーッとしている状況じゃないだろ!?」
「す、すみません」
「謝っている暇もないだろ? 謝らなくていいんだよ。ほしいのは方法なんだよ。どうやってこんなめんどくさいことを終わらせられるのか、原因はなんなのか。答えは、まだ見つかっていないのか先生!」
車はなだらかな坂道に到達し、車体が揺れた。夏の間に伸び切った背丈の高い草が車体や窓ガラスを掠めていく。吉良は、乾いた唇を舐めた。
「原因は、わかりません」
「そうか」
明らかに月岡の声の調子が落ちたのがわかった。僅かな頭痛が吉良の頭を貫通し、喉の奥がほろ苦く感じる。
「まずは現場へ向かう。何か手掛かりがあるかもしれない。雨平、救急搬送の手配は?」
「すでにもう向かっています。もうすぐ到着するかと」
「よし、とにかくどんどん運び込め。あやかしだろうがなんだろうが、命を繋げるのが最優先だ。行くぞ」
車はさらにスピードを上げ、一気に坂を駆け上がっていく。坂を抜けて重々しい鉛色の空が広がった先に、白木造りの小さな寺が見えてきた。昨日駐車した玉砂利の上にはすでに何十台もの車両が乱雑に止められ、境内へ向かって押し合いの列ができていた。誰もが我先にと先を急ごうとし、口汚い怒号や喚き声、泣き声が飛び交う。
「警察だ! どけ!」「先生! 早く!」
髪を振り乱した女性がバランスを崩し、今にも折れてしまいそうな腕を伸ばした。腕は人の波に呑まれ、払われ落ちてゆく。誰も助けることなく女性は砂利の上に倒れ込んでいった。側で気が付き介抱しようとした別の女性もまた巻き込まれ、大きな口を開けて叫んだ悲鳴は人々の波に掻き消されていった。
「先生!!」
雨平と呼ばれた警察官の野太い声が、放心状態だった吉良の耳にようやく届いた。重たい足を引きずるように一歩踏み出した吉良は自分の役割を思い出したのか走って本堂に入り込んだ。そこで待っていたのは、外とは比べ物にならないほどの異様な、異常な光景。
「これは……なぜ……」
何重にも重なり合った呻き声が、狭い本堂いっぱいに響き渡る。
餓鬼の姿態によく似た骨と皮だけの人々がわらわらと千手観音像に群がっている。助けを求め天に向かって伸ばされた無数の手の隙間から吉良の姿を見留めた沙夜子は大声を張り上げた。
「さっさと原因を特定しなさい! 吉良!!」
「わかっ、わかっています! だけど、だけどどうしたらいいかわからないんですよ!! 沙夜子さん!!!」
人は、雰囲気に呑み込まれる。常軌を逸した雰囲気であればあるほど、対処も制御もできなくなり容易に雰囲気に呑まれてしまう。足裏から揺さぶられるような気味の悪い呻き声に、吐き気を催すほどの熱気に包まれて、吉良も感情のままに大声を上げた。わからない、手に負えない、何もできない、と。
本堂に盛大な音が鳴った。間の抜けたお腹の鳴る音のはずなのに、恐ろしい唸り声のように聞こえる。
「今は、あんただけが頼りなのよ。わかってるでしょ!? 私の
「わかりました。わかっているんです。だけどこんなこと! だって『
力なんて無い。人を動かせる権限もない。こんなちっぽけな知識なんて、異常な現実の前には何の役にも立たない。
吉良は眼鏡を外した。足の力がふっと抜けて地に落ちるように膝から崩れ落ちてゆく。
「そんなのわかるわけないじゃない! だけどよく見て!」
もう一度、眼鏡をかけ直す。沙夜子が間近な椅子に座った者の額に触れて陣を展開すると、痩せ細った体に瞬時に肉が付き、膨らみ上がり、骨格までもが再生していく。本来の顔身体へと戻っていく。
「ほら! これは明らかに餓鬼の仕業よ!」
「そうなんだ。そうなんだけど……」
直感ではわかっていても理屈が通らない。一度にこんなに大勢に取り憑くはずがない、こんなに大量に発生するはずがない。こんな、呪いが伝染するように広がるはずがない。
もし、もしだ──。これが呪いの伝染だとするなら、もう止めることなんてできない。
「吉良! しっかり!」
沙夜子の茶色がかった黒い瞳に睨まれて、吉良は頭を抱えてしまった。
こんなこと普通なら起こりえないんだ。餓鬼がこんなに発生するわけが──。
遠くから、けたたましいサイレンの音が侵入してきた。助けに来る音ではなく、心臓に悪い不吉な音。今の吉良にはそうとしか聞こえなかった。
「死にました! 亡くなりました! 一人死亡が確認されました!!」
慌てて襖を開けて飛び込んできた声に、吉良の両腕が畳に向かって力なく投げ出された。
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