問われる覚悟
震えるような掠れた声に振り返る。聞き覚えのある声だった。今、ここでは聞きたくない声だった。少女の母親が立っていた。髪は乱れ、全身に血を浴びている。腫れぼったい目は張り裂けんばかりに大きく見開かれ、全身が小刻みに震えていた。
「なんでこんなところにいるんだ!!」
近くにいた警察官の手を振りほどくと、母親は一気に吉良に近寄り掴みかかろうとした。
「やめろ!」
月岡が間に入り両腕を止める。続いて後ろから警官が止めに入り、何人かで羽交い締めにする。それでも抵抗は続けられた。
「助けるって言っただろ!! 私の子はどこだ! 返せ、返せ返せ!!」
「お母さん! 娘さんはもう亡くなったんです! ご覧になったでしょう!」
「うるさい!! あの子が死ぬわけない! あんな、あんな酷い……」
急に動きが止まった。ぶつぶつ呟きながら床に突っ伏すと今度は何度も何度も拳を床に叩きつける。
「死んだ……死んだ……死んだ」
「やめなさい! 血が!!」
固い床だ。何度も叩けば皮は破れ血が滲む。それでも止むことなく、同じペースで拳が打ち付けられる。
「あの子は死んだ……死んだの? あんな酷い……あの子が……あんな酷い……うわああぁァァぁァァぁ!!!!」
振り上げた拳が思い切り振り下ろされた。床に着く直前に誰かの手がそれを受け止めた。
月岡の大きな手だった。
「もうやめろ。それ以上自分を傷つけても無意味だ。終わりは終わり。もう戻ってきやしない」
母親の体の震えが静まるのを待ってから月岡はゆっくりと手を離した。即座にガッチリと腕や肩を抑え込んだ複数の警官によって部屋の外へと連れて行かれる。
その間。吉良は目の前で起きたことをただ見ていることしかできなかった。
短く息を吐いて立ち上がると、月岡は吉良の方を見た。呆れたように目を瞑ると、頭を掻きながらまた溜息を吐き出す。
「言ったろ先生。覚悟はあんのかって。だから聞いたんだよ。人が死ぬってのは、こういうことだ」
吉良の頭は鈍器で殴られたように揺れていた。ふと、頬に何かを感じて触れると、べっとりとした黒ずんだ血がこびりついていた。
指先を伝い手の甲を進み、腕まで垂れていく。やがて肘にまで到達した血は、ピチャッピチャと床に落ちていく。広がる波紋が。少しずつじわじわと侵食していく。
「おっ、おい! 大丈夫か!? 吉良──」
滲んでいく、薄くなる、血の色が。最後まで意識の中に残ったのは、血が滴り落ちる音だけだった。
*
ぐるりと目が回った。この上ない気持ち悪さが込み上げてきて、吉良は急激に目覚めた。染み一つない真っ白な天井から誰かの笑い声が聞こえる。ほのかな甘い香りがタバコの強い匂いに混じって消えた。
身を起こすと、そこには月岡の姿があった。ソファに座って製菓雑誌を読みながらタバコの煙をプカプカさせていた。
「……どうなって……」
雑誌に目を通していた視線が上がった。
「起きたか、先生」
辺りを見回す。見覚えのある部屋だ。ソファを挟んでコーヒーテーブルが置かれ、コーヒーの木、ポトスといった観葉植物が月岡の後ろに並んでいる。
「ここは、家?」
「そうだ。あの病院よりかはこっちの方がマシだろう」
「……ありがとうございます」
頭が割れるように痛い。頭だけじゃない。脚や腕に鈍い痛みが走った。
「そうだ……頭が重くなって目が霞んで……」
「倒れたんだよ。急にな。助けに入らなきゃ顔を強打。そのまま入院だったな。まっ、その方が頭は冴えたかもしれねぇーが」
「そうか」と呟くと、吉良はテーブルに置かれた少し歪んでいるメガネを掛けた。視界がクリアになると同時に、倒れる前の景色が鮮明に思い出される。喚き散らす声に、どす黒い血の色。
「……すみません」
自分でも情けないと思うくらいくぐもった声が出た。
血は苦手だった。初めてのことではない。この仕事を始めて何度も血は見てきたし、人の死も見てきたつもりだった。だから覚悟はしていたはずだったのに。
雑誌が乱暴に閉じられる。
「何に対しての謝罪だ?」
タバコをくゆらせる。煙は上へと上がり、空気と混ざり消えていく。また、笑い声が聞こえた。ただ楽しそうな無垢な笑い。
「原因が特定できていないこと。それからこんな、迷惑までかけてしまって」
「ああ、そうだな。迷惑だ。捜査は中断するし、無駄な体力とガソリンを使ってしまった」
「……すみません」
「謝るだけなら誰にでもできるんだよ、先生」
真正面から視線がぶつかった。芯のある強い眼差しは漆黒のように深く。見ているだけで妙な緊張が体を支配する。
「どうするかじゃねぇのか? 何ができるかじゃねぇのか? 今も本部は捜査を進めてる。あの寺では柳田が一人でたたかっている。あやかしに取り憑かれた大勢の人間が恐怖におののきながらたたかっている! これからあんたはどうするんだよ、先生!」
吉良は視線に耐えかねて下を向いてしまった。言い返す言葉を探してみるも、何も浮かんでは来ない。あの母親の憎しみに満ちた顔が頭をよぎった。
月岡は深く吸った煙を噛み締めるようにゆっくりと吐くと、携帯灰皿に捨ててソファから立ち上がった。
「もう一度聞いておく。覚悟はあるのか? 答えはまた今度聞かせてくれ」
扉が開かれ、また閉められる。車のエンジン音が聞こえると、すぐに発車し遠く離れていった。
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