第34話 一晩明けて
書庫に戻るともう明け方で、窓を通して見る空がほのかに白みはじめていた。
薄暗いが、周囲が見えないほどではない。
アランはジェラールに言われた通り、隠し扉になっている書棚を元の位置に戻し、地下室につながる出入口をふさいだ。
ゴゴゴゴ、と壁の内側で構造物のきしむ音が反響し、やがてその残響も消えてなくなると、書庫に再びの静寂が訪れた。
ひときわ長いため息をつくと、アランは床に直接腰を下ろして足を投げ出した。
とてつもない倦怠感が体を襲ってきたが、目と頭は異様に冴えていた。
ジェラールは人を遣ると言っていたが、それがいつになるかはわからないので、少しでも体を休ませておこうとアランは床に座ったまま無理やり目を閉じた。
眼裏には、昨日からあった出来事が浮かんでは消えていく。
そして、地下室の扉が閉じる寸前のエレノアの姿がぱっと浮かび上がり、その目が金色に光ってアランを鋭く見返してきた瞬間、アランははっとして目を開けた。
どうやらわずかな時間、眠り込んでいたらしかった。
吐く息が荒い。
呼吸を整えながら、エレノアがはたして無事にあの地下室を出ることができたのか、アランは急に気がかりになってきた。
ジェラールは先王の時代に蔓延した悪政を一掃するため、法治主義を徹底したことで知られる。
理性的な賢王と称えられる一方、その性格は苛烈であるとも噂されている。
たまたま王のいる部屋に迷い込んでしまった女官のことをまさか厳しく罰したり置き去りにしたりなどしないと思うが、エレノアだけ残れと言ったジェラールの意図をアランは今さらながら図りかねていた。
王が本気でアランの外聞に気を配ったとでもいうのだろうか。
そんなはずある訳がない。
どうして地下室を出る前に思い至らなかったのかとアランは己のうかつさを責めたが、今さら言っても仕方がない。
中途半端に寝落ちしたせいで体の倦怠感はかえって強まっていたが、アランは床に手をついて重い体を持ち上げた。
ぐったり座り込んで悠長に人を待っている気分ではなくなっていた。
正面の出入口まで進むと、アランは中から思いっきり扉を叩いた。
「おい、誰かっ。外にいないかっ」
応える声はなかったが、アランは根気強く扉を叩き続けた。
何度も繰り返しているうちに、手のひらの皮が薄くめくれてくるのがわかった。
どれくらいそうしていただろうか。
不意にカチャリと鍵音がして、扉がふわりと開いた。
立っていたのは、鍵束を手にした侍従長だった。
叩いていた扉が急に開いてアランは危うく侍従長にぶつかりそうになったが、どうにか踏みとどまった。
「大丈夫でございますか?」
「はい、なんとか。もしや陛下に頼まれて?」
アランの言葉に侍従長は鷹揚な笑みを浮かべてうなずいた。
どうやらジェラールはアランに言ったことを忘れずにいてくれたらしい。
そのことが、急いていたアランの心を少し落ち着かせてくれた。
アランが外に出ると、侍従長は扉を閉めて鍵をかけた。
「ありがとうございます。お手間を取らせてしまい申し訳ありません。ですがこのことはどうかご内密に」
地下室の話が広まればエレノアの首をはねる、と脅されていたことを思い出し、アランは侍従長に念押しした。
「心得ておりますよ、アラン・ロシュフォールド様。ご安心ください」
王宮の内情を知り抜いているであろう侍従長は、アランを安心させるように深くうなずいた。
これで一安心かと思いきや、間が悪いことに近くを人が通りかかった。
しかもこちらに向かって闊歩してくる。
よく見ると、舞踏会の夜に貴族の子息を叱責していた近衛隊長である。
近衛隊長はアランと侍従長の前で停止した。
「ここで何をしているのです?」
近衛隊長の口ぶりは質問というより詰問に近かった。
王宮内の安全を預かる近衛府のトップである。
こんな時間に妙な取り合わせの二人が立っていたのが気になったのかもしれない。
「おはようございます。たまたま出会ったので挨拶していたのですよ。隊長もお早いですね。もう朝の訓練の時間ですか?」
侍従長は慌てることなく朗らかに答えた。
「ええ、まぁ」
近衛隊長は侍従長と話しながら、視線はアランに向けていた。
アランはこの場をどうやったらうまく抜け出せるものかと必死に頭を働かせていたが、もともと機転が利くタイプではない上に、徹夜明けである。
ここでも侍従長がさりげなく助け舟を出してくれた。
「おや、でも練兵場に行くのであれば、場所は反対側ではございませんか?」
「たまたまこちらの道を通っただけです」
「なるほど。遠回りをして体を鍛えるというわけですね。いやはや、さすがでございます」
「……。もう行きます。お引止めして申し訳ない」
近衛隊長は最後に鋭い一瞥をアランに向けると、さっと身をひるがえして立ち去っていった。
アランは無意識につめていた息を大きく吐きだした。
「ありがとうございます」
「いえいえ、何のこれしき」
侍従長は奥ゆかしい笑みを浮かべた。
さすがの貫禄である。
やはり自分には宮廷勤めは向いていない、と心底思いながら、侍従長に挨拶を述べてアランも書庫の前から立ち去った。
けれど向かった先は正門ではなく、王女宮のある方角だった。
その途上、アランは道の先にエレノアの後ろ姿を見つけた。
足の速度を上げるが、体が重くて思うように距離が縮まらない。
「エレノアっ」
声を上げると、先を進んでいたエレノアが立ち止まって振り返った。
アランがようやくエレノアに追いつくと、エレノアはアランの顔を見てやや眉を寄せた。
「アランさん、大丈夫ですか? かなり顔色がお悪いようですが」
エレノアの身を案じて走ってきたアランだったが、逆に心配されてしまった。
エレノアの顔もいつもよりは少しだけ青白いようにも感じたが、さほど疲れているようには見えなかった。
「寝れば治る。それより無事にあの部屋を出られたんだな」
「はい。陛下が普段お使いになっている扉の方から出していただきました」
「どこにつながってたんだ?」
「王宮の中の部屋の一つでした。高い所に立派な椅子が置いてあって。その椅子の後ろの壁に隠し扉がありました」
「……立派な椅子?」
「はい。黄金でできているのか、ピカピカしていました。椅子の背が大きいので、部屋の中にいても隠し扉があることに気づかないみたいです」
「…………」
聞いていて、アランはその立派な椅子というのは、玉座のことではないだろうかと思った。
『玉座の間』にあるその椅子は特別な椅子で、王しか座ることが許されない。
玉座が置かれている場所は他より高い位置にあり、そこに立つことが許されるのも王だけである。
もし王以外の人間が玉座の階に足をかけようものなら、大逆罪にもなりかねない。
アランはなにやら動悸がしてきたので、それ以上詳しく訊くのはやめておいた。
すでに体がフラフラなのに、本当にこの場で卒倒しかねない。
「……まぁお互い無事に出られてよかった。仮眠は取れそうか?」
「はい。これから少し横になろうと思います」
エレノアは軽く頭を下げると、王女宮の方へと立ち去っていった。
仕事で体力的にも鍛えられているのか、足取りはしっかりしている。
アランも方向転換して、正門の方へと歩き出した。
とりあえず帰ったらすぐにベッドに倒れこむつもりだった。
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