第2話 アラン

二頭だての馬車に揺られながら、アランはすることもなく窓の外をただぼんやりと眺めていた。


といっても、田園地帯の一本道を走っているだけなので、左右を見渡しても鬱蒼とした森しかない。


これでも天気さえ良ければ、のどかで風光明媚な場所だと思えなくもないが、あいにく空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうに雲が垂れ込めていた。


どこまでも変わり映えのしない、単調でつまらない景色。


まるで自分のようだ、とアランは思った。


アラン・ロシュフォールドという人間を画家が自然物に見立てて描くとしたら、きっとこんなふうに灰色で塗りつぶされた単調で退屈な風景画になるに違いない、と。


ロシュフォールド公爵の長男という何不自由ない身分に生まれたせいか、はたまた生来の気質のせいか、アランには野心というものがない代わりに、若者らしい溌剌としたエネルギーにもやや欠けていた。


こうして自分はずっと変わらないまま、やがて年老いて死んでいくのだろうかと想像して、アランはさすがに自嘲した。


十八になったばかりでこんな不健全な考えに取り憑かれていては、先の人生が長すぎて嫌になってしまう。


座ってばかりで退屈なのがいけないのだ。


暇と退屈は人を殺してしまう。


気持ちを引き立ててくれるような出来事にめぐり合えないものかと諦め半分考えていたところ、それまで順調に走っていた馬車がガタンと急に止まった。


「どうした」


アランが声をかけると、従者兼御者のグエルが、困惑した顔を窓の外からのぞかせた。


「倒木で道がふさがっています」


小窓のカーテンを全開にして視線をやると、グエルの言うとおり、背の高い木が横倒れになって道をふさいでいた。


これでは馬車で通るのは明らかに難しそうだった。


「手前の街まで引き返しましょうか?」


「それだと途中で日が暮れる」


グエルにそう答えながら、アランは心密かに嘆息した。


つい先ほどまで何か起きやしないかと期待はしていたが、別にこんな厄介ごとを望んだわけではなかった。


やはり世の中はそう都合よくできていないらしい、と他人事のように考えていると、倒木の向こうから枝葉をかき分けるようにして、女がゆらりと馬車の前に現れた。


丈長のマントで全身をすっぽりと包み、目深にフードをかぶっている。


顔はよく見えなかったが、布ごしでもそれとわかるほど華奢で小柄な体つきだった。


グエルがその女に話しかけた。


「ちょっと尋ねたいんだが。この近くで一泊の寝床と食事を提供してくれそうな御仁に心当たりはないだろうか」


女は静かに口を開いた。


「この道を少し戻ると、分かれ道があります。曲がってそのまま道なりに進んでいくと領主の屋敷がありますので、そこでお尋ねになるのがよろしいかと」


大声ではないが、よく通る声だった。


「アラン様。いかが致しましょう?」


その時のグエルの声が、どういうわけかアランにはひどく場違いなものに感じられた。


「その屋敷に向かってくれ」


「かしこまりました」


グエルはうなずくと、手綱を操って馬車を動かした。


窓枠から女の姿が途切れる寸前、アランは女の目元をはっきりと見た。


フードの奥で二つの眼が不気味な金の光を放っているのを視界にとらえ、アランは反射的にカーテンを閉じて座席に深く腰を沈めた。


自分は今、魔女にでも会ったのだろうか。


アランは激しく首を横に振った。


馬鹿なことを。


やはり俺は不健全な考えに頭を毒されている。


そう強く自分に言い聞かせたが、異様な感じはなかなか抜けず、ねっとり粘りつくような感覚が体の中に残っていた。



*  *  *



馬車は女に言われたとおりの道をカタカタと進み、やがてゆっくり停止した。


「小さな屋敷がありました。使用人の姿もあるので確認してまいります」


そう告げるなり、グエルは走っていった。


もう六十を過ぎているはずだが、その姿はアランよりよほど敏捷に思われた。


グエルが薪を割っていた男に話しかけている間、アランは屋敷の方へと目を向けた。


三階建ての建物はつる草で覆われていて、そのすき間からくすんだ乳白色の壁が見え隠れしている。


庭は広く、周囲の土地との境界線があまりはっきりしていないせいか、全体としてかなり開放的な印象である。


やがてグエルが息を弾ませながら引き返してきた。


「屋敷の主人に泊めてもらえるか確認してもらっています」


しばらくすると主人と思しき男が外に出てきたので、アランは馬車から降りた。


アランを見ると、屋敷の主人は両手を広げて歓迎の仕草をみせた。


「日暮れ時に立ち往生とはとんだ災難でしたな。今晩はここを我が家と思ってご滞在ください」


「ご厚情に感謝します」


アランは笑みを浮かべて頭を下げた。


それはいかにも良家の子息らしい、上品で洗練された姿だった。


主人の男は口をぽかんと開けてアランの姿に見入っていたが、慌てて口を閉じると、アランを建物の中へと案内した。


屋敷の主人は歩きながらずっとしゃべり続けていたが、一階のゲストルームにアランを案内すると、部屋の用意ができたか様子を見てくると言って出ていった。


一人になったアランは、大量の調度品が飾られている室内をぐるりと見回した。


壁の絵画も、テーブルの上の置物も、一つ一つはそう悪くもないのだが、どうにも全体としてのまとまりに欠けていて、ちぐはぐな印象がぬぐえなかった。


そんな失礼なことを考えながら暖炉の上のレリーフを眺めていると、扉をノックする音がした。


てっきり屋敷の主人が戻ってきたのかと思いきや、現れたのは、使用人の格好をした小柄な少女だった。


それだけならアランも別に驚きはしなかっただろう。


けれどアランは驚いた。


「お部屋のご用意が整いましたのでご案内致します」


そう言った少女の声が、先ほど出会ったフードの女と同じ声に聞こえたからだ。


アランはまじまじと少女を見つめた。


「あの、なにか?」


少女は無表情のままアランを見上げた。


その瞳は薄茶色をしていて、金色ではなかった。


「いや、失礼。部屋に案内してくれ」


歩き出した少女の後ろをついていきながら、アランは密かに少女のことを観察した。


髪は艶のない青みがかったグレーで、頭頂部できっちり一つに結い上げている。


その下のうなじも、着古された服の袖から見え隠れする手足も、何もかもが折れそうに細かった。


王都で見かける貴族の令嬢たちも概してほっそりしているが、細心の注意を払って胴回りを調節している彼女らとは違い、針金が服を着て歩いているような少女の肩先からは、生きることの刻苦がにじみ出ているように思われた。


アランはなんだか責められているような気分になり、ふいと視線をそらして少女の観察をやめた。



*  *  *



案内された部屋は、三階の廊下つきあたりの一番奥の場所にあった。


小さなテーブルに椅子が一脚、そして寝台が置かれただけのこざっぱりとした部屋だったが、普段から掃除が行き届いているのか埃っぽさはなく、先ほどのゲストルームよりアランは気に入った。


庭に面した窓をのぞくと、納屋や馬小屋の屋根がよく見えた。


「夕食をご一緒にと主人が申しております。お疲れでしたらこちらの部屋にお持ちしますが、いかがされますか?」


入り口の近くに立っていた少女が尋ねた。


「いや、ぜひご一緒させていただこう」


そう返事をしたアランだったが、部屋に食事を運んでもらえばよかったと後悔する羽目になった。


一緒に夕食のテーブルを囲んだのはアランの他には主人と奥方、そしてその令嬢の全部で四人だった。


食事そのものは素晴らしく、じゃがいもの冷製スープに焼きたてのパン、ローストされた鹿肉と野菜ソテーの付け合わせ、デザートにはラズベリーのシャーベットが出てきた。


突然の訪問者に対して十分すぎるほどの量と内容で、その点については口先だけでなく心から感謝もしたのだが、食事をした相手がどうにもいただけなかった。


主人は先ほど同様に食事中もしゃべり続け、自分はもともと中央で役人をしていたが、二十年前にここへ赴任して以来、すっかり腰を落ち着けてしまうことになった、という話を何度も繰り返した。


奥方は甲高い声で夫の話に相づちを打ちながら、唐突に別の話題を振ってきてアランを度々まごつかせた。


それくらいならまだ良かったのだが、右側に座っていた令嬢がしょっちゅう秋波を送ってくるので、アランもさすがに辟易した。


不機嫌を顔に出さないようにするため、どうしても令嬢に対して顔を向けざるをえない時は、さらにその向こうの壁を見るようにした。


ちょうど位置的に使用人たちが彫像のように控えていて、先ほど部屋へ案内してくれた少女も立っていた。


食事が終わりかけの頃、主人がアランに質問をした。


「あなたのように若くて立派な風采の方が、どうしてこんな辺鄙な場所にお立ち寄りになったのですか」


「これまで各地を遊学していたのですが、いつまでふらふら遊び回っているつもりだと父に叱られましてね。王都に戻る途中です」


ナプキンで口元をふきながら答えると、主人と奥方の目が油断なく光り、令嬢はあからさまに色めきたった。


「なるほど、なるほど。そうでしたか。いやはや、学の浅い私のような者からすると、なんともうらやましい話ですな。ちなみにお父上は何をなさっているのですか」


主人はさりげなく尋ねたつもりだったろうが、アランは曖昧な笑みでその質問をうやむやにした。


中央で働いていたと言っていたのは本当らしい。


アランは心の中で冷笑した。


地位や権力のある人間を敏感に嗅ぎつけ、すり寄ってこようとする輩をこれまで掃いて捨てるほど見てきたのだ。


いい加減この場から立ち去りたくなったアランは、ワインが注がれたグラスを持ち上げると、わざと手を滑らせた。


グラスはアランの膝の上で跳ねた後、床に落下してパリンと割れた。


それはアランの想定以上に効果をもたらした。


まず奥方が悲鳴のような声を出し、つられて動揺した主人が椅子から腰を浮かせた。


「申し訳ありません。旅の移動で少し疲れていたようです」


そう言ってアランは席を立ち上がろうとしたのだが、使いかけのナプキンを手にした令嬢にあっけなく体を取り押さえられた。


令嬢はアランの膝にこぼれたワインのしみを盛大にズボンに押し広げながら、背後の使用人たちを怒鳴りつけた。


「どうしてぼんやりと突っ立っているの! 気が利かないわね、まったく。早く片付けなさいっ」


それを聞いたアランは、あなたがそこにいると邪魔になって床の破片を片付けられないのでは、と思ったが、口に出して言ったりはしなかった。


悪いのはアランである。


使用人たちも口答えしたりせず、黙って掃除を始めたのだが、割れた破片を拾おうとした少女が、ほんのかすかに「あっ」と声をもらした。


視線を向けると、少女の指先から血がぽたぽたと垂れていた。


「大丈夫か」


思わずアランが声をかけると、少女が答えるよりも先に、令嬢が再び怒鳴り声をあげた。


「なにをやっているの、エレノア! 本当にどんくさいわね」


「申し訳ありません」


エレノアと呼ばれた少女は淡々と謝ると、指先をぬぐうこともせず、落ちていた破片を手のひらに拾い集めて食堂を出ていった。


さすがにやりすぎたか、とアランは己の行為を反省したが、時すでに遅しだった。

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