エレノア嬢は笑わない
kana
第1話 はじまりの記憶
業火の中を多くの人間が逃げ惑っていた。
風上に立つ兵士たちが、炎を逃れようとして森から走り出てくる人々を無情にも剣で斬りつけ、地面には死体が幾重にも折り重なっていった。
焼け死ぬか、斬り殺されるか。
絶望的な選択を大勢が迫られる中、ある五人家族が必死に森の奥へと走っていた。
父親を先頭に、母親が娘の手を引き、一番後ろで息子が年老いた祖母を背負っていた。
一家は兵士たちの立っている方角から遠ざかりつつ、少しでも火の手が回っていない場所を探して走っていたのだが、それを目ざとく見つけた兵士が一人だけいた。
自分も炎に巻き込まれる可能性があるのに、その兵士は執拗に一家のことを追いかけた。
まず祖母が後ろから剣で斬られた。
その衝撃で、祖母を背負っていた息子が転び、兵士に頭を一刀両断された。
振り返った母親が、血飛沫を噴き上げている我が子の凄惨な姿に絶叫した。
うるさい、とでも言いたげに兵士が母親に向かって剣を振りかざしたが、先頭を走っていた父親がとっさに引き返し、兵士の体に組みついた。
兵士は剣を父親の体に突き刺した。
何度も、何度も。
串刺しになった父親の口から、ごぽりと音を立てて鮮血が吹き出した。
小石を払うように兵士は父親の屍を押しのけると、残された母と幼い娘に向けて剣の狙いを定めた。
剣が振り下ろされると同時に、それまで小刻みに震えていた母親が力いっぱい娘の体をドンと押しやった。
娘の体は鞠のように軽々と弾み、茂みの中へと転がっていった。
娘が手をついて体を起こすと、ちょうど兵士が母親の心臓に剣の切先を突き立てたところだった。
兵士はすぐに剣を引き抜こうとしたが、母親は刺されたまま、抜き身の剣を両手でつかんだ。
兵士は容赦なく剣をねじり回していたが、母親は肉がえぐれて両手が真っ赤に染まっても、決して剣を離そうとはしなかった。
おかあさんっ……!
娘は母親に向かって必死に呼びかけていたが、かすれた声は小さく途切れ、音にすらならなかった。
それでも母親は娘の声に応えるかのように、いつもと変わらぬ微笑を浮かべて娘にささやいた。
「エレンディラ…逃げ…て……」
かすかに唇が動いただけだったが、娘はその声がはっきりと聞こえた。
兵士がようやく母親の体から剣を引き抜くと、周囲に細かい血と肉片が飛び散った。
母親は両目を開いたまま絶命していた。
最後まで娘を見つめながら。
娘は泣きながら走った。
茂みを突っ切り、炎の中を走りに走った。
その日の朝に祖母が結ってくれた三つ編みはすっかり解けてしまい、髪の毛はちりちりに焼けていた。
煙で目がしみて、のども肺も苦しかった。
背中が熱風で焼かれ、服ごと皮膚の表面がぐずぐずになっているのがわかった。
それでも娘は一人で走った。
大好きな母親が、娘に最後に望んだことだったから。
無我夢中で茂みを抜けると、目の前は断崖絶壁になっていて、大きな滝が流れ落ちていた。
来た道を振り返ると、ちょうど兵士が追いついたところだった。
黒い兜をかぶった兵士の姿はまるで地獄の番人のようで、娘はぺたんと地面に座り込んでしまった。
兵士はゆっくり近づいてくると、娘の前で容赦なく剣を構えた。
剣先が月明かりで鈍く光ったのを見た刹那、娘の中で突如として激しい怒りがわき起こった。
大事な家族の命を次々と奪い取っていった剣に、自分の命まで吸わせてなるものか。
剣が振り下ろされた瞬間――。
娘は崖から飛び降りた。
ふわりと羽が舞うように軽やかに。
剣は娘の体すれすれのところで虚空を斬り裂いた。
娘と兵士の視線が一瞬だけ交わり、互いに激しい火花を散らした。
けれど娘の体はそのまま奈落の底へと落ちていき、やがて大きな水音が闇夜の中で響き渡った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます