第十八章
元妻と大志が来た理由は二つあった。大崎洋介を交えた飲み会と大志が仕事を辞めて大学を受験する話だ。両方とも予想したことだったが、押しかけてまで来る事態だから切羽詰まっているのかなと西崎は自分から話を向けた。
「で、先方のご両親はどうだったんだ」
「了解をもらったよ」ビールを飲みながらあっさりと言う。
「なんだ、了解してくれたのか」
「そりゃ簡単じゃなかったけど、しぶしぶかな」
淑子が口をはさむ。「気持ちはわかるわよね、公務員だもの、それを辞めて大学に行くって、勉強しようって気持ちはいいとしても何も辞めることはないんじゃないかって、誰でもそう思うわよね」
「だけど、結衣のお父さんは公務員で安泰でいるより、何かをやりたいってその気持ちはわかってくれたよ、お母さんの方が大変だったけど、なんとかわかってもらえたって、そう思う」
「じゃこれからのスケジュールは」西崎が聞く。
大志は地元の国立と西崎が中退した私立大学の名前を言って「両方とも学力試験はないんだ、小論文と面接、来月から募集要項の配布が始まる、書類審査はあるみたいだ、気持ち切り替えたいから明日にでも退職届出すよ、正式な退職は九月いっぱいでということになると思う、試験は十一月なんだけど」
西崎はやがて三十歳になろうとしている息子が眩しく見えた。その希望を胸に抱いた姿が自分とは本当に違うんだと羨ましい限りだった。
「で、それでよ」と淑子が言った。「大志の報告は終了、これから本題」
「え、大志のことは本題じゃなかったのか」
「そりゃ大志のことだもの、万事抜かりないからだいじょうぶなのよ、でもこれからのことはあなたが関わっているから、だいじょうぶじゃないの」
「だいたいわかるさ、何が言いたいのか」
淑子はそうだろうけどと言いながら「来月のお盆の時にわたしの紹介を兼ねて洋介さんの息子さん娘さんを交えて飲み会があるの、それでこっちでも洋介さんを交えてその後にやりたいなと思って、もちろんあなたも参加するし大志に結衣ちゃんだって来るのよ」
「そんな、なんだよ」と西崎は抗議する。「強制なのか」
「当然よ、洋介さんはあなたに会いたいのよ、あなたの意向なんか聞いちゃいられないの、たぶん月末くらいになると思うんだけど、それでいいわね」
「うぅん」と返すしかなかったが、それでも言ってみたくなったのだ。「自分で言うのもなんだけどさ、仕事何回も変わって家族に迷惑ばかりかけたし、仕事が一年続くと小学生の大志から『おとうさん、凄いね』って言われてさ、我ながら情けなくて泣きたいくらいだった、そんな男に会いたいってどういうことなんだよ、淑子からちゃんと説明してくれよ、ろくでもない男だって」
「なに言ってんの」と淑子が怒鳴る。「そんなこととうの昔に言ってるわよ、内気で人前で喋れなくて決断力のないろくでなしだって」
「そこまで言うことないだろ」と西崎は返したが「でもまあ、その通りだな」
「だからね、洋介さんはそんなあなたに会いたいって言ってるの、わかった」
なんか棘のある念押しだなと思いながら西崎は「わかったよ」と言った。「なんにしろ、行かなきゃならないんだろ、来月の下旬だな、日が決まったら連絡くれよ」
この夜は半ばやけくそで元妻と息子と飲み食いを楽しんだ。
八月に入ったら公判が始まるとの連絡を佐々木弁護士から受け、明日の全体会議を楽しみにしていると彼女は言った。「西崎さんとの面会は叶わなかったですけど、久美子さんも少し表情が和らいできました、息子さんがたびたび面会をしているのが大きいと思います、幾つかの新たにわかった事実を久美子さんにも話しているみたいですね、明日の会議でさらに何か事実がわかればって思います」佐々木弁護士はそう言って電話を切った。明日っていったいなんだ、全体会議って、瑠璃山ルリ子が言っていた話のことか、と思っていた矢先、管理室のドアが叩かれた。
「やぁ、久しぶりだな」そう言ったのは木村五郎で、確かに最近は顔を合わせてなかった。シーラカンスにも行くのを控えていた。だが考えてみればそれが普通のことで、事件のことで引っ張り出されることが多かったということなのだろう。
「なんですか」と素っ気なくいう西崎に「なんだ、冷たいな、もっとこうもろ手を上げて再会を喜ぶとかできないのか」
「別に喜んでないですから、どうせまた厄介な話持ってきたんでしょ」
それでも、はっはっはっはっはっと木村五郎の豪快な笑いを目にすると、なぜかニンマリとしてしまうから不思議である。
「うれしいな、管理人さんの愚痴久しぶりに聞いたな」
「そんな喜ばないでください」
「じゃ明日もそういう感じでよろしく頼む」
きたぁ、と思いながらしらばっくれて聞いた。「明日がなんなんですか」
「明日の午後六時から集会室で全体会議だ、これには事件の関係者やまた関係があるのではと思われる者たちが一堂に集まる、そこでそれぞれが知っていること、もしくは関係したと思われる行動を発言する、なるべく事件の全体像をあきらかにする、少しでも近づくそれが目的だ、そしてそれでわがマンションにおける事件は終了にするということだ」
西崎はやっぱり瑠璃山ルリ子が先日言っていたあの話かと合点がいった。
「事件とは関係ないと言い続けて三カ月、やっぱりわたしも参加しないといけないんですね」
「当然だろう」木村五郎は表情を固くして言った。「管理人さんは一番の事件関係者だ、それは誰あろう金田久美子さん自身がそう思っているに違いない」
西崎は「そうですね」と返した。そして「本当にもうこれで終わりにしたいです、この三カ月でいろんなことがわかって正直辛いんです、でも久美子のためだと思って明日はきちんと出席したいって、そう思います」
木村五郎は西崎の肩をポンと叩き「頼むな」と言った。そして去って行こうとするその後ろ姿にことばを投げかけた。「明日、酒井裕太は来るんですか」
木村五郎は振り返り「来るよ、そしてもう一つサプライズがあるよ」
意味ありげに笑って去ってゆく姿はどこか寂しげでもあった。
「サプライズか」と呟き、やれやれとドアを閉めてからこの三カ月間を思った。先週の土曜日には雄大君といっしょオフィスカネダの社長宅を訪れ、資料室と名付けられた部屋で一日がかりで調査したばかりだった。今回の事件と関わりがある資料があるのかないのか、よくわからないまま終えて雄大君に車で送ってもらったが、雄大君はそうでもなかったような印象を受けた。それにしても本当に明日なにもかもが解明されるのだろうか、酒井悠太は来るのだろうかと考えつつ、駐車場の草むしりでもやろうかなと準備をしていると再びドアが叩かれた。今度は誰だろう、瑠璃山ルリ子かもしれないなと思いつつドアを開けるとそこに立っていたのはフロントマネージャーの門田だった。
「突然すいません」と頭を下げ、「母のことで話があるんです」と言う。全く思いもかけない訪問で、西崎は「じゃ、どうぞ」と言いながらあわてて机の上の塩せんべいの袋やマグカップ、文庫本やCDのケースを片付け、事務用の椅子を差し出して、自分用に折り畳みの椅子を出した。
落ち着いたところで「びっくりしました、瑠璃山さんなんかあったんですか」
「申し訳ないです、話を聞いてもらえるとなると、西崎さんしか思いつかなくて」
「いやぁ、わたしなんかに話してもとは思うんですが、わざわざ、門田さんがこうして来られるくらいだから」
門田はしばらく考えをまとめるように口を閉じ、大きく息を吐いてから「実はですね」と話し出した。「母が岡田町のマンションに引っ越すと言っています」
西崎はそのことばの意味を考えてみたがよくわからなかった。「引っ越すって、つまりこのマンションを出るってことですか」正直それがなんなんだろうと思ったのだ。だがそれを察していたらしく門田はこう言ったのだ。
「それはつまり母がやっている二つの事業、ルリヤマタイムスとルリヤマ歌劇団から手を引くということなんです、二つともこのマンションの母の部屋が本部です、山川建設の本社ビルにも経理や資料整理の部屋がありますが、今の母の部屋が本部なんです、だからこのマンションを出るということは二つの事業から手を引くということなんです」
西崎はにわかには信じられないし、なんで手を引くというのか意味がわからない。だがその疑問に答えるように門田は続けた。「母は脅迫されています、ルリヤマタイムスやルリヤマ歌劇団の活動をやめろという内容です、最初は二か月くらい前に届いたということですが、先月から頻繁に郵便が届くようになってもう三十通を超えています、わたしは警察に相談しようと言いましたが母は拒んでいます」
「脅迫って」西崎の脳裏に管理人同盟が浮かんだ。このことなのか、と思いつつ「なんでですか、警察に相談すると困るんですか」
「脅迫は言い過ぎかもしれません、今回の金田久美子さんの事件は結局ルリヤマタイムスとルリヤマ歌劇団の活動が誘因したんだという内容です、母も最初は無視していましたが事件の背景が少しずつ見えてくるとちょっと考え込むようになりました」
「門田さんも知っておられるんですよね」西崎は言わずにはいられない。「今回の事件は最初わたしが疑われて困惑していたんです、でもいろいろわかってきて確かに私は関係しているなってわかってきたんですが、それよりももっとたくさんの人も関係している、つまり金田久美子さんの周りにいた人たちみんなが少しずつ関係している、そういうことなんですよね、だからルリヤマタイムスの記事とかルリヤマ歌劇団の活動が関係しているって、しょうがないんじゃないんですか」
「わたしも母にそう言いました、でも母の気持ちは変わらないようです、明日集会室で事件についての集まりがあると聞いています、わたしは出席しませんが、母はその席で言うつもりでいるようです」
西崎の目にさきほどの木村五郎の後ろ姿が浮かんだ。サプライズがあると言ったのはこのことだったのだろうか。そしてその後ろ姿はどことなく寂しげであった。
「それで」と西崎は聞かない訳にはいかない。「わたしにこの話をしたというのは」
門田はここで少しの間沈黙し、「そうですね」と言ってから「まず母の生い立ちを聞いてもらっていいですか」と言った。
「生い立ちって、瑠璃山さんの、ですか」ちょっと怯んだ。
「はい、そこから話さないと、わかってもらえないんじゃないかと思います」
「でも」と西崎は戸惑いながら言う。「瑠璃山さんは嫌じゃないんですか、自分のことをこんなわたしなんかに知られてしまうのは」
「そんなことはないと思います」門田はキッパリと返した。「母があなたのことを好ましい人物と思っているのはわかっています」
ええっ、とそんなこと信じられる訳がない。
「西崎さんのことを『ダメな弟を持った気分よ』と言っていました、ことばは悪いですがそれは西崎さんのことを信用してるってことです」
はぁぁ。西崎はそんなこと言われても全然うれしくなかった。
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