第十七章
多田浩介は金は返すと言った。建物は一文にもならないだろうが、土地はそこそこの値段になるだろう、残っている機械も売れると思うからと言った。
「お金を返してくれと言いに来たんじゃないんです」と金田雄大は言った。「最初に言った通り、自分が知らない父や母のことを知りたかったんです、幾つかの疑問があって多田製版が一つのカギじゃないかってそう思ったんです」
「じゃあ返さなくてもいいと」多田浩介は信じられないようだ。
金田雄大は「父がしたことです、それどころかよく話してくれたと感謝しています」
「返さなくていいなんて、そんなこと」多田浩介は警戒した声を上げた。
「確かに大きな金額ですよね、でも問題を大きくしたくないんです」
「ゆすったのは事実なんです、自分の中に後ろめたい気持ちがあったんです、警察沙汰のゴタゴタは避けたいから聞かれてすぐに観念したんです」
「今ここで警察に行くと母の事件が余計に複雑になってしまうと思います、だからわたしたちのためにもその方がいいんです」
多田浩介はしばらく沈黙してから表情を緩め「ありがとうございます」と頭を下げた。そして西崎にも顔を向けて「申し訳なかった」と頭を下げた。
「そんな、謝ることはないだろう、こっちこそ申し訳ないって思っている」
「いや」と多田浩介は目を伏せて「西崎には辛い話をしてしまったと思っている、あれは忘れていた話で金田光一さんが来て西崎の名前を出してから閃くように思い出したことなんだ、関連があるかどうかなんて正直どうでもよかったんだ、借金が少しでも減ればってそんな気持ちで言ってみたら、本当に金田光一さんが肩代わりしてくれたんだ」
「母には好きな人がいてその人はもう結婚していると父が言ったんですね」
「つまりそれは、西崎のことってことなんだろう」多田浩介は再度西崎を見た。
「でもな違うんだよな」西崎は金田光一が久美子を騙したというそのことばに囚われていた。「ぼくは三十歳のころに偶然出会ったサークルの仲間から」そうだった、あいつは酒井裕太だったのだ「そいつから望月久美子が結婚したって聞いたんだ、ぼくはその頃はまだ結婚どころじゃなくて、仕事が続かなくて借金返すのが大変で母と二人生きてゆくのでせいいっぱいだったんだ」
「やっぱり父は母を騙したのか」
「それだけお母さんのことが好きだったんでしょう」
「それは」と西崎は言わなければならなかった。「金田光一さんが騙さなければ久美子はぼくを待つつもりだったのか、別れて十年が過ぎてぼくは目の前の事だけしか見ていなかったのに、あいつはぼくからの連絡を待っていたってことなのか」
西崎は胸の底で渦巻く気持ちに翻弄されながら、「どうして」と何度も呟いていた。
スマホにルリヤマタイムスが配信されたのは通常より一週間ほど遅れて七月の中旬に入っていた。瑠璃山ルリ子が言った通り、特集記事の冒頭に『諸般の事由により事件を記事として掲載することが困難になりました』との謝罪文があり、歌劇団公演の新作『ふぞろいの干し柿たち』と『ジジババ七人冬物語』が大々的に紹介されていた。新人女優の村岡塔子や他出演者のコメントも書かれて華やかな雰囲気を出していた。
だいたいのストーリーが短く書かれていてこれまでに決まっている曲も載せられていた。『ふぞろいの干し柿たち』は規格品外として社会の底辺を生きてきた老人の仲間たちが、それぞれの波乱に満ちた人生をストリートライブで語り始める。するとそれが話題となりテレビ出演の話が持ち込まれる。老人たちはここぞとばかりにギャラはいくらよこせだの、衣装はそっちもちだの車で迎えに来て食事付きでホテルを用意せよだのと要求を突き付けたため話はとん挫する。それでも老人たちは翌日から普通にストリートライブを続けるのだった。全編をサザンの歌で彩る。『ジジババ七人冬物語』は合コンで知り合ったジジババ七人が人生最後の恋に陥り、昔話を語り合いながらそれぞれの思惑で恋の相手を変えて行く。そのうち一人のジジィが脳梗塞で倒れ、一人のババァが認知症で施設へ入居させられる。残った五人は憂慮して家に閉じ籠るようになり、恋は終わりを告げる。全編を八十年代のヒット曲で飾る。
西崎は管理室でそれを見て思わず「これパクリじゃん」と叫んだ。 前作の『おばばにラブソングを』もそうだが、これは管理人同盟として声を上げてもいいのではないか。会員になると決めた訳ではないが、どっちにしろこれらの作品にスタッフとして参加しなければならないのだ。すると「失礼な」とドアの向こうから声がした。立ち上がってドアを開けると瑠璃山ルリ子が「何を言うんです」と怒りの表情で立っていた。
「これらの作品はわがルリヤマ歌劇団が渾身をこめて発表する秀作です、すでにこの記事を読んだ読者から期待の声が上がっています、滅多なこと言わないでください」
「いや、でも」と西崎は言ってしまった。「だって、そっくりじゃないですかぁ、題名といい、なんか雰囲気といい」
瑠璃山ルリ子は珍しくたじろいでから「そりゃ全然違うとは言いませんが、でも間違いなくわたしたちのオリジナルなんです」と言ってから背を向け去ろうとした。
「あれ、なんか用事があったんじゃないですか」
「ああそうでした」と瑠璃山ルリ子は振り返ってから「雄大君から聞きました、多田製版の件」
西崎は「ああ」と言ってから「もういいじゃないですか、とにかくそういうことです」
「それであなたに話しておきたいことがあって、ですね」
西崎は瑠璃山ルリ子がかしこまって言ったので、立ち話もなんだと中へどうぞと片手で示したが、「あら、まあ、こんな狭い部屋に男女二人きりだなんて」
「そんな、お互いけっこうな年なんですから」
「いいえ、世間の目は厳しいんですよ」
「じゃあどうします」と面倒くさくなって言った。
瑠璃山ルリ子は「いいですね」としかと西崎を睨みつけ「なにかよからね気配が見えたらすぐに叫びますからね」と断ってから中に入った。
西崎は折り畳みの椅子を出してそれには自分が座って瑠璃山ルリ子に事務用の椅子を差し出した。
彼女は当然のごとくそれに座ったが、「少々待ってくださいね」と五分ほど黙ったままで目を閉じていた。そして大きく吐息をしたかと思うと目を開け「いえ、その話をしに来たんじゃないんですよ」と柔らかな口調で言った。
「じゃなにかまた因縁をつけにきたんですか」と西崎は言ってしまったのだが、彼女は「そんな因縁だなんて違いますよ」と穏やかに返してから続けた。「この前ルリヤマタイムスに事件の記事は載せないとしましたが、わたしたちもいい加減にこの事件から手を引くべきではないかとそう思っています」
元々そっちが一方的に始めたんだろがと、西崎は内心腹立たしくもあったが黙っていた。いつもと様子が違うのでとにかく話を聞こうと思ったのだ。
「それで先日の多田製版の社長さんの話を聞いて雄大君と話し合いました、多田製版の件は雄大君にそれなりのショックを与えたようです、もちろんそれはお金のことじゃなく結婚のために久美子ちゃんに嘘を言っていたということにです、だからわたしとしては雄大君のため、久美子ちゃんのためと思って提案したつもりです」
その件については西崎だって同じだった。「次の土曜日、オフィスカネダの社長宅にある資料室へ雄大君といっしょに行くことになっているんですよ、それは金田儀一社長が個人的に集めている会社の歴史的な資料で私的な日記とかいろいろあるようなんです、わたしは個人情報だからって断ったんですが、一人じゃ大変だからって言われて」
「そうですか、まあ西崎さんにしてみれば確かにそうですね、でもそれは一旦中止になるんじゃないかしら」
西崎は瑠璃山ルリ子を見た。
「そもそも光一さんはなんでオフィスカネダに入らなかったのか、彼はケミカル精密機械工業とサカマキ電子に在籍していました、本当は光一さんこそがオフィスカネダの後継者として在籍しているべきです、でもそうならなかったのは何か理由があるはずです、久美子ちゃんを騙してまで結婚するなんて、それはそれだけ好きだったということでしょうけど、それにしても何か胸にひっかることが多すぎます、結局今回の事件は久美子ちゃんがあなたを見て西崎君と言った通り、それぞれの人生の歴史に起因するじゃないかと、そんなことが見えてきます、だから今度集会室に関係者をみんな集めてそこでみんなが思いのたけをぶちまけて、わたしたちにとっての事件をそこで終わりにしようとそう思ったんです」
「関係者というと」幾らか心を動かされながら聞かずにはいられない。
「まだ誰が参加してくれるかそんなに決まってはいないんです、でも雄大君からは参加すると返事をもらっています、佐々木弁護士からも快諾してもらいました、裁判に有利となる背景がわかればとおっしゃいました、そして佐々木弁護士が言うには酒井裕太にも声を掛けてみると言われてました」
「酒井裕太、ですか」西崎は驚いて声を上げた。彼が来るならぜひ参加したいところだ。
「酒井悠太は久美子ちゃんを追い回していましたから、わたしたちスタッフの間では知られていました、でも他ならぬ久美子ちゃんが個人的に連絡を取り合っているみたいでしたので、わたしたちとしてはどうしようもなかったんです、わたしも酒井裕太から話が聞けるならすごく興味があります」
瑠璃山ルリ子は参加者や日程が決まったら連絡すると言って去っていった。
淑子と大志が突然アパートまでやって来た。日曜日の夕方で「留守してたらどうするんだよ」と言ったら「金欠のくせに出かける訳ないじゃないの」と返された。そのくせ先週来たばかりの新しいエアコンを見て「よくそんなお金あったわね」と驚いていた。 「そんなことより、何の用だ」と聞く西崎を無視するように「晩御飯まだでしょ」と言って持ってきた袋から缶ビールや焼酎、総菜や弁当を取り出し、テーブルに並べた。そして棚からグラスを出し冷凍庫の氷を鉢にあけ、自分用の焼酎のロックを作った。
「エアコン買ったのならなおさらお金ないんでしょ、今日の晩御飯代浮いたじゃない、よかったわ、さ、いただきましょう」
淑子は大志を促し、茫然と見守る西崎の前で椅子に座ってグラスを一口飲んだ。「ああ、おいしい、大志はビールでいいの」
「うん、昨日結衣の家に行ったから、けっこう飲んじゃって」
「そうよね、飲まないとやってられないわよね」
「なんだ結衣ちゃんのご両親と会ったのか」そういう話なら西崎だって気になる。
「ちょっと、何してんの、あなたもさっさといただきなさいよ」
淑子にせっつかれて西崎はテーブルにつき「じゃ、いただきます」
あっはっはっはっはっと笑う元妻に「なんだよ」と言うと「あなた、いただきますなんて言ったことなかったじゃないの」と返された。
「うるさいな」と言いながら、それでもなんか楽しい晩御飯となった。
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