第十六章
七月に入りにわかに西崎の生活が変わった。金田雄大の調査を手伝うことになったからだが、それは勤務時間以外のことだから当然土日にゆっくり休めなくなった。おまけにエアコンが故障して予定外の出費はかかるし、取付工事に二週間待たなければならくてアパートに帰ると暑い時間を過ごすこととなった。必然晩御飯はシーラカンスでという機会が増え、夜寝苦しい時、仕方なくシーラカンスに行くと木村五郎と会ってしまい、なんだかんだでさらに出費が増えた。そんなだから淑子から電話が入ってもうまい具合に「ダメ、金ないし時間もない」と断ることができた。
最初の土曜日、金田雄大と多田製版へ行くことになった。雄大が先方と会う約束を取り付けたとの連絡を受けて、西崎なりに悩んだ。多田浩介と会うということで、以前に自分が勤めていた会社の社長で、年齢が近くて話も合って、そこそこ恩義も感じている相手だからなるべくなら会いたくなかった。でもこれもそういう運命にあるのかなと思ってしまうではないか。マンションでは消防設備点検が行われ、落ち着いた日々が戻った。雄大の申請したリフォーム工事の承諾書も下りて、工事の始まる予告の貼り紙を掲示板にピンで留めたばかりである。何事もなく仕事が進むから西崎としてはヨシとしたいところである。
土曜日、約束の時間の十二時半に雄大が車で迎えにきた。
「今日はよろしくお願いします」と雄大が言うので、「そんな、こっちが言うことですよ」と返して助手席に乗る。
「約束は簡単にとれたんですか」と聞いてみた。
「はい、わたしがオフィスカネダの関係者だから、なんだろうって感じでしたが、会ってくれることになりました」
「じゃ、事件との関連とか、知らないんですね」
「そうですね、でもその方がいいでしょう、いきなり切り出した方がなんでも話してくれそうな気がします」
車は二十分ほどで多田製版の駐車場に着いた。元々五十人の従業員を抱えていたが経営難で大半を売ってしまったから今は五台分の広さである。建物は昔のままだから二階建てで銀行の支店くらいの大きさはあるが、一階の半分は建築事務所の看板が掛かっている。入り口のドアは開けてあった。入ってすぐのカウンターにベルがあったので、それを鳴らした。奥から返事がして多田浩介が出てきた。金田雄大だけではなく西崎が並んでいたので驚いたように立ちすくんだ。
カウンターの奥の向かい合った事務机に金田雄大と西崎が座り、お茶を用意した多田浩介は折り畳みの椅子を出して座った。
「西崎もいるんで、びっくりしたよ」
「申し訳ない、いろいろ事情があったんで」
「今日もお仕事されていたんですか」と金田雄大が問い、多田浩介は「はい、もう仕事も休みもないですよ、仕事が入ったらすぐに作って梱包して配送会社まで持って行きます、まとまって商品があるなら取りに来てもらえるんですが、一個か二個ですからね」
「だけど、どうにかやっているようだね」西崎が言うと
「どうにかね、でもいつまでやってゆけるかはわからない、仕事だけじゃなくてぼくも年だからね、妻なんかはここ売ってしまって借金返して、のんびり暮らしていいじゃないって言うんだけど」
「やっぱりそう簡単には思いきれないだろう、売りたくないだろう」
「そうだね、愛着あるし、自分の人生そのものだからね、でもさ、建物も土地もまだ抵当に入っているから売って借金返したらいくらも残らないさ」
金田雄大が口を挟んだ。「実は、その借金の件で今日は来たんですよ」
多田浩介は一瞬固まり、「ああ」と声を出してから西崎を見た。
「申し訳ない、それがさ、今いるマンションの関係で」
「わたしが説明します、西崎さんの立場もあると思うので」と言って金田雄大は自分の母親が父親を殺した事件の日からのだいたいの概要を話した。西崎も警察に連行される際に目が合って「西崎君」と言った場面がすべての始まりだったと、その経緯を話した。「マンションの住民の皆さんも母を気にかけてくれていますし、弁護士さんも事件の背景が判決に影響すると言われているもんですから」
多田浩介が言った。「それがどうして、ぼくの借金と」
「最近知ったんだけど」と西崎は言わなければならなかった。「金田光一さんからぼくの就職の件で頼まれたんだろ」
多田浩介は表情を強張らせて下を向いた。「どうして西崎がそれを言うんだ、感謝してくれていると思っていたけど」
「感謝しているさ、この仕事に就けてよかったって思っているよ、でもさ、あの事件に巻き込まれてしまったんだ、事件とは関係ないと思っていたぼくの人生が関わっているってだんだんわかってきたんだ、だから」
雄大が言った。「今回の事件でわたしが知らない母や父がいたんです、事件の解明がわたしの知らない父や母を教えてくれそうな気がするんです、多田さんが知っていることを話してもらえませんか、それで多田さんに迷惑が及ぶことはないと思います、今の生活が変わることはないと思います」
しばらくの沈黙の後、ふいに多田浩介は小さく笑い出した。クックックックックッとこらえるように声が漏れ、そして「変わっちゃうんだよ」と呟いた。
多田浩介は顔を上げて「西崎は感謝しているって言ったが、そんなもんじゃないんだよ」そして雄大に向かって話した。「知っているんだろうが、うちの借金はオフィスカネダとケミカル精密機械工業の二社で大半を占めていた、うちは彫刻の印鑑やゴム印、それに名刺や封筒の印刷の会社だからそれをオフィスカネダに卸していた、九十年代の前半までだったな、会社の経営がよかったのは」
「その頃、投資されてますね」
「そうだ、ゴム印製作の電子化でオフィスカネダからパソコン二十台と専用のソフト、それからケミカル精密機械工業から新しい印鑑の彫刻の機械とそのソフト、ゴム印製造の自動化を図った機械、しめて三千万かかった、代金の支払いはそれぞれの会社の長期のローンを組んでグループ会社のカネダファイナンスから借りた、自分としては一世一代の投資だった、その頃から時代の流れというか影響はあったんだ、当時出店が目立っていた百均でもゴム印や印鑑置いていたし、年賀状の印刷も売り上げは落ちていた、でもなんとか今後に向けて会社を大きくして自分のところだけは生き残ろうと図ったつもりだった、だけど予想以上に時代の流れは早くてなんでも自宅でできるようになってゆく、ゴム印は不要の時代になってゆく、売り上げは落ちてゆくばかり、こっちは焦るばかりで借金は残る、」
「よく頑張っていたなって今でも感心しているよ、浩介の一生懸命な姿見ていたから」西崎はそう言ってやりたかった。
多田浩介は少しだけ表情を和らげて大きく吐息をつくと「だからさ」と口調を変えた。「従業員をリストラして不要な機械も売って駐車場も売って、最後の一人だった西崎にも辞めてもらって、そんなにしても借金は残って、希望も何もないまま仕事を続けていた時に、あの人が来たんだ」
「あの人、父ですか」金田雄大が言った。
「そうです、金田光一さんです」多田浩介は自嘲気味な笑いを浮かべて語った。
「事前に電話もなくて突然来たんです、最初名刺だされてケミカル精密機械工業の文字を見て、もしかして仕事の注文かなってバカみたいなこと期待しちゃって、でもすぐそんな訳ないって悟って借金の返済の件だそれに違いないって、身構えてしまった、でも金田さんが話し出したのは思いもかけない西崎のことだったんだ」
予想していたこととはいえ、西崎には困惑しかない。「なんでぼくなんだ」
「それはこっちも同じだったけど話を聞いているうちになんとなく理解できた、光一さんの話はこうだったよ、西崎は大学の後輩でサークルも同じだった、自分は四年で引退しているも同然だったから直接活動を共にすることはなかったってそう言っていた、ただ妻が、とその後言ったんだ」
ドキリとした。妻が、つまり久美子が、ということだ。それは雄大も同じだったらしく「母のことを言ったんですね」と問うた。
「はい、詳しいことをここで話す気はないけれど、とにかく奥さんが西崎のことを気にしているから力になりたいと言われた、こっちとしては西崎が仕事を探しているのを知っていたからうちでまた雇って欲しいということなのかなと考えたが、もちろんそれはできないと断るつもりだった、でも光一さんは全然違うことを言ったんだ」
雄大が言った。「マンション管理人の仕事の求人がネットに載っているからそれを伝えて欲しい」
多田浩介は驚いたように「そうです、そう言った、そしてこのことは西崎には黙っててほしい、そのかわりケミカル精密機械工業の返済分の一部を自分が肩代わりするからと言った」
「一部、ですか」と雄大が声に出した。「実際はケミカル精密機械工業の返済分全部とオフィスカネダの返済分半分ですよね」
「本当に一部って言ったのか」と西崎も言った。
「一部って言ったよ、でもしばらく考えてぼくが言ったんだ」多田浩介の声は固く鋭かった。「そんなこと言わずにもっと肩代わりしてくださいよって、そのかわりあなたが奥さんを騙して結婚にまでたどり着いたことも黙ってますからって言ったんだ」
なにを言っているのだろうと西崎は思った。「なんだ、それ」
「どういうことです、どういうことなんですか」雄大も言った。
多田浩介は紅潮した顔を幾らか歪めて言った。「ぼくは金田光一をゆすったんだよ」そして「西崎には黙っていて欲しいって言われた時に思い出したことがあったんだ」と続けた。「それはずいぶんと昔の話でそう、ちょうどその思い切った投資をしようと考えていた時期だった、ぼくはケミカル精密機械工業の担当者に会うために本社ビルを訪れていた、案内された部屋で待っていると隣に人が入ってきて話す声が聞こえてきた。そこは一つの部屋を移動式の仕切りで分けた部屋だった、話しの内容を詳しく記憶していた訳じゃない、大まかな内容をなんとなく覚えていた、それは金田部長と呼ばれた男に浮気相手と思われる女が泣きながら懇願する話だった、『部長は好きな人がいるという奥さんを騙して結婚したんですよね』とか『相手の男はもう結婚しているからって騙したんですよね』と言っていた、結婚してくれなんて言わない、ただこんな感じで別れるのは嫌だって話していた、金田部長は『妻はあんな男と結婚しない方がいいに決まっている、相手は借金だらけの融通のきかないろくでなしだったんだ』と言ったが『女は好きな人と一緒になりたいんですよ』と返していたよ」
西崎はことばもなく黙ったまま聞いていた。驚くべき内容と言えばそうだが、なんとなくそんなことだろうという予感があった。みんながこの事件に関係した誰もが、結局西崎康宏の人生をつくっていたんだと自嘲した。
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