第十四章

 西崎が目を覚ましたのは昼過ぎであった。スマホを手に持ったままでボンヤリとそれが目に入った。床に倒れたままの姿勢でしばらく時間を過ごした。ようやく起きようかと思いいたってスマホの側面を押すと午後の一時半と表示された。汗をぐっしょりかいていて、身体を起こし立ち上がるとエアコンのスイッチをいれた。それから服を脱ぎ浴室へ行って頭からシャワー浴びた。さっぱりとした気分で出てタオルを頭に被ったままジャージに着替えた。やれやれとテーブルに座ると腹が減っていることに気がついた。冷凍しておいた食パンを二枚取り出してトースターで焼きマーガリンを塗った。冷蔵庫のボトルコーヒーをマグカップに注ぎ牛乳で割った。テーブルのCDラジカセでなつかしのフォークソングを聞きながらゆっくりと食べた。なんか久しくこういう時を過ごしてないなと思った。

 落ち着いたところで、さてと夕べのことを考えた。ショックはまだ続いており、胸に鈍痛のような重たいものが居座っていた。

 あの人は幸せだったのかしら

 西崎は「どうして」と声に出した。どうして、と言ってからその先は出てこなかった。そんなことより考えるべきことがあるような気がした。自分はどうするべきか、これから何をするべきか。

 西崎はスマホを手に取り、受話器のマークをタップした。佐々木弁護士に電話をしようと思ってのだ。だが画面を出して、昨夜からの着信の多さに驚いてしまった。ひと通り確認してほぼ昨夜のメンバーからばかりだとわかったが、一件だけそれ以外からの着信があった。淑子からだった。なんで、と思ったが嫌な予感がしたので無視してそのままにしておいた。食器を洗い、さっき脱いだ服を洗濯機に放り込みスイッチを押した。部屋に掃除機をかけ浴室も掃除した。終了したとブザーが鳴ったので、洗濯物を取り出して奥の部屋の窓を開け物干しに干した。やれやれとお湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れてテーブルでひと息つくともうダメだった。ずっと気になっていたのだ。

 スマホの着歴を出し、画面をタップした。一回目のコールが鳴ると同時に「はい、なによ」と声がした。

 いきなり声がしたので息を飲む。だが相手は矢継ぎ早に声を出す。「もぉしもぉし、なんですかぁ、ちょっと返事しなさいよぉ、どうしたのよぉ、用事があって電話したんでしょう、もぉしもぉし」

 「どうしたのはないだろ」とやっと口をはさむ。

 「あなたなにしてんの、用があるんでしょ、さっさと言ってよ」

 「さっさと言ってって、そっちが先に電話したんだろ、着歴見てかけたんだぞ」

 一瞬沈黙が走り、次には、はっはっはっはっはっと笑い声が響いてきた。「あ、そうか、そうだったわね、忘れてた、だけどさ、今いいの」

 「いいのって、いいから電話してんだろ」

 「だって仕事中じゃないの」

 今度は西崎が、あ、そうかと気がついた。それで昨夜マンション関係者の集まりが遅くまであって仕事を休んだのだと言った。

 「ちょっと」と淑子の声がさらに響いた。「そんなんで休んじゃっていいの」そして相変わらずのもの言いで西崎を圧倒した。「六十五歳なんでしょ、年金だって少ないんでしょ、そんなことで簡単に休んじゃダメじゃないの」

 西崎にしてみれば昨夜のことを全部説明することなんてできない。「いつもきちんと仕事やってるから」と言ったが「だってまだ有休がつく時期じゃないでしょ、管理室で休み休み誤魔化しながらやればいいじゃない」

 きっと大志からいろいろ聞いているのだろうと想像がつくが「だいじょうぶだから、おれだってちゃんと頑張ってんだから、担当の北田さんだってゆっくり休んでくださいって言ってくれたんだから」と誤魔化した。

 ちょっと間があいた。「本当に」と出てきたことばに西崎はドキリとした。「ほ、本当さ、おれだってそんな非常識な人間じゃないんだから」

 「わかったわ、もういい、じゃ切るわよ」と淑子が言いだしたのであわてて「だからさ、用事があったんだろ」

 「あ、そうだったわね」と言ってまた、はっはっはっはっはっと笑った。

 疲れるなぁとため息をついていると「大志から聞いたんでしょ、洋介さんが今度いっしょに飲みにいきましょうって言ってるって」

 予想していた内容だから驚かなかった。「と言うか、飲みに行きましょうじゃなくて会って話がしたいって言ってるって、そう聞いたけど」

 「まあそうなんだけど、要するに飲みに行きましょうってことなの」

 「そうなんだ」

 「断わったでしょ」

 「こ、断ったよ」

 「なんで」

 なんでって、すぐにはことばが出てこない。

 「洋介さんね、あなたに気をつかってるの」

 「気なんかつかわなくていいよ、離婚してから何年になるって思ってんだよ」

 淑子は「そうだけど」と言ってから黙り込み、少ししてから「だけどね」と続けた。「洋介さんが言うの、あなたと関わった時間があるから今のわたしがあるって、わたしの中にあなたとの歳月があるっていうの」

 そういえばこの間大志がそんなことを言っていたのを思い出した。

 「なんじゃそれ」と口に出し、一度ふぅぅっと吐息をついてからもう一度「なんじゃそれ」と言った。

 「実はさ」と淑子が言った。「わたしも最初はなんじゃそれって思ったの、でもね、何度も会っていろんな話をしているうちにだんだんそうかもしれないって、そう思うようになったの、そういう人なのよね」

 「まあそうなんだろうな、おれなんかとは違う人なんだろうな、違う人生を生きてきた人なんだろう」

 ちょっと間があき「そうね、あなたとは違う人よね」

 西崎はなかなか前へ進めない、あがいて苦しんできた日々を胸に描いた。「考えとくよ、でも今のところ、おれは会いたくないな」と言った。

 返事はなかった。

 もう一度言った。「悪いけど、そういう奴とは会いたくない」

 「わかるけど」と淑子が返した。「また、電話していい、というか会ってもいいって言うまで何度も電話するけど、いい」

 西崎はスマホを片手に苦笑した。そうするのが彼女に違いなかった。「いいよ」と答えた。

 「ありがとう」とひと言返ってきて切れた。

 西崎はテーブルの上の冷めたコーヒーを飲んで、自分の中の淑子との時間をあらためて考えていた。

 

 再び編集会議がやってきた。前回と同じシーラカンスの同じテーブルに同じメンバーが集まった。金田雄大もテーブルについていた。逃げ出したという言い訳のできない事実は西崎にある覚悟与えていた。「それで、どうなんですか」と瑠璃山ルリ子から問われて西崎は立ち上がり頭を下げた。 「先日は申し訳なかったって思っています、久美子に履歴書を見られたってこともショックだったんですが、『あの人は幸せだったのかしら』ということばを聞いて堪えられなくなって、一人になりたくて抜け出してしまいました、あの後ひと晩考えました、正直こんな会議も迷惑だってずっと思っていたんですが気持ちが変わりました、自分が知らないところで関わっているんじゃないかって、そう思うようになりました、だから」西崎はテーブルのみんなをぐるりと見た。「だからこれからは協力したいと思っています」

 西崎が座ると同時に瑠璃山ルリ子が言った。「それはよかったと思います、今日はきっといくらかでも進展するんじゃないかってそんな気がします」とそこまで言ってから「西崎さんに聞きたいんです」と正面から彼を見据えた。瑠璃山ルリ子は続けた。「わたしたちも先日の久美子ちゃんとの面会で深く感じ入ったことがあります、彼女の心の中にはもしかして管理人さん、つまりあなたのことがずっと心の中にあったんじゃないかって」

 それは胸にズシリと堪えることばだった。膝に置いた手が抑えても震えた。それは正直いってあの事件の日から西崎は自身も感じていたことだった。

 「前回の編集会議が打ち切りになった後、木村さんと柘植さんの三人で何回か集まって話したんです、これまでの経緯を整理するとやっぱりどうしてもそこへ行きつくんです」

 木村五郎が言った。「そこでだ、北田さんにもう一度問いたい、今回の西崎さんの採用にあたって何か知ってるんじゃないか」

 それはけっこうズシリとくる口調でテーブルの上に響いた。北田は怯えたような表情を見せ「わたしは」と言って下を向いた。西崎はしょっぱなから予想もしない展開に事態を見守るしかなかった。

 「というのは」と木村五郎が言った。「三人で集まった時に金田雄大君に電話したんだ、事件が起こりその当日に西崎さんが管理人として初出勤する、西崎さんは久美子ちゃんと過去に関係があり亡くなった光一君も関係があった、やっぱりおかしいって、そうなったんだ」

 雄大が続けた。「電話をもらって考えたんです、そしてそういえばってことを思い出したんです、事件とは関係ないかもしれないけれど突然だったんでなんだろうって気になっていたんです」

 木村五郎が西崎を見て言った。「多田製版って知ってますか」

 えっ、と声にならない叫びが口から漏れた。顔が強張るのがわかった。まさかという思いが西崎の思考を混乱させた。

 「父から調べてくれと頼まれたんです」雄大が言った。「訳は聞きませんでした、ケミカル精密機械工業の取引先だと言っていました、仕事がらみだろうと思い、オフィスカネダを含めてその取引関係を調べてプリントアウトして父に渡しました、わたしの役目はそこまでで忘れていたのですが、今回電話をもらってもう一度調べてみてわかったことがあります、実は多田製版はオフィスカネダ、ケミカル精密機械工業の二社にそれぞれ負債がありまして細々と返済していたんです、額は大きくはなかったんです、それぞれ一千万を下回るぐらいです、でも今の多田製版の状況は厳しくて返済ははきつかったはずです、それがオフィスカネダの分は完済になり、ケミカル精密機械工業の分は半分になっていました」

 西崎の脳裏に蘇ることばがあった。あの日電話した彼に社長は言ったのだ。「融資してくれる人がいて今ひと息つけているんだ」

 「それって多田製版が返済したとは思えないわよね」瑠璃山ルリ子が口を挟んだ。

 「はい、わたしもそう思って先日担当者に直接会って確かめました、返済は父がしていました、誰にも言うなと口止めされてたようですが、父が亡くなって息子のわたしが来たものだから担当者も話してくれました」

 「いったい光一君は多田製版になんでそこまでする必要があったのかしら」

 雄大は首を傾げながら「わかりません、でも母が関係していたんじゃないかと思うんです、なぜなら」と雄大が西崎をチラと見た。「母が父に言っていたんです、『この四十年と三十年のあなたの過去を清算して』って」

 四十年と三十年、ということばに誰もが息を飲んだ。

 「それってどういうことなの」

 「わかりません、でも多田製版を調べてくれって言われたのは今年の正月に帰った時だったんですが、二月の母の誕生日に花を持って言った時に玄関のドアを開けたら奥からそのことばが聞こえてきたんです、何の話だって思っていたら二人のやりとりが聞こえてきました、『三十年はなんとかする』と父が言い『そんなの当然よ、そして四十年の方も多田製版の社長さんに頼んでちょうだい』と母が言ったんです。


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