第十三章

 金田雄大の参加を驚いたのは西崎だけで、他のメンバーは知っていたようだ。それでもその訳までは言われてなかったらしく、瑠璃山ルリ子の話で会議は始まった。

 「先日、柘植さんと雄大君と私の三人で会いました、リフォーム工事に関して承諾書に柘植さんが理事長印を押さないと言ったからです、でもこのマンションに住んで久美子ちゃんを待ちたいという雄大君のため、いえ久美子ちゃんのために、わたしがひと肌脱ぐことにしました、そして三人の話し合いの中で、事実に埋もれていたある事実がわかりました、それを最初に説明したいと思います」

 事実に埋もれていたある事実、と西崎は胸の中で反芻した。ここにいたみんながそうしたはずだ。

 「あれは七年前でしたね」と問うた瑠璃山ルリ子に雄大が答えた。

 「そうです、紗季と結婚したいと報告をして母は喜んでくれました、帰宅後に報告した父ももちろん喜んでくれました、柘植さんとも最初は良好な感じで、わたしと紗季の結婚はみんなから祝福されるはずでした」

 「ところが、ある事を柘植さんが金田光一さんに頼んだことで、状況が一変したのです」

 西崎は柘植雄一郎を見た。北田も太田も木村五郎もそうした。

 柘植雄一郎が言った。「わたしもわかってはいたんだ、間違っていたのは私の方だと、でも一旦は笑顔で了解しておきながら後になって反故にするなんて納得がいかなかったんだ、気持ちがざわついて『じゃあ結婚も許さん』と言ってしまったんだ」

 「なにがあったんだ」と木村五郎が言った。

 「わたしが説明しましょう」と瑠璃山ルリ子が口を挟んだ。「金田光一さんはオフィスカネダの創業者金田儀一の息子でゆくゆくはオフィスカネダを継ぐものと誰もが思っていました、ところが彼は子会社のケミカル精密機械工業に入りました、それだけではありません、一度そこを離れ子会社というよりグループ企業の一つのサカマキ電子に移っています、亡くなる二年ほど前にケミカル精密機械工業に戻っているんですが、七年前はサカマキ電子の専務取締役として在籍していたのです」

 西崎はこのテーブルの誰もが沈黙し静寂に包まれた場で一人困惑していた。サカマキ電子と聞いてから動揺を抑えきれなかった。だが本当の衝撃はこのあとだった。

 ここで瑠璃山ルリ子は柘植雄一郎に声を掛けた。「いいですね、話しますよ」柘植雄一郎は黙って頷いてみせた。「柘植さんは息子の昌磨君がちょうど大学の就活の時期に入っていてサカマキ電子を受けることを知っていました、雄大君から光一さんがサカマキ電子に在籍していることを聞いて菓子折りを持って頼んだのです、ようするに入社のコネをです」

 小さな「ああ」というため息が聞こえた。「それくらい」とか「別にいいんじゃ」という声もした。「恥ずかしい話で申し訳ない」と柘植雄一郎が言った。

 「ところが」と瑠璃山ルリ子が続けた。「予想もしないことをそれは招いたのです」視線が雄大へ向かった。

 金田雄大が引き継いで話し出した。淡々と語る彼のことばはその場にいた全員を、とくに西崎を厚く凍りつかせた。

 「サカマキ電子はその時、新卒と中途採用の両方を受けつけていました。当然中途採用の方は早く結果が出ることになっていました、父は採用の担当者にエントリーシートや履歴書、健康診断書等の書類を持ってこさせました、短い期間おそらくひと晩あのマンションの一室、具体的に言うとリビングのテーブルにそれがあったのです、でもその担当者は新卒の書類だけではなく中途採用の分まで全部持ってきていました、なぜそうだと言いきれるかというとわたしもそれを見たからです、そしてなぜわたしがそれを見たかと言うと、母がそれを手にして泣いていたからです」

 テーブルの上で「泣いていたんですか」とか「なんで」とかのことばが飛びかった。そして西崎はその場で胸の鼓動に共鳴するかのように肩を震わせていた。

 「久美子は見たんだ」と胸の中で呟いた。

 「それは中途採用の履歴書でした、二十人ほどの分がまとめてあって一人の履歴書のところがクリップで留めて開いてありました、母はその履歴書を見て泣いていたのです、『知っている人なの』と聞くと母は『なんでもないの』と言ってキッチンの方へ行ってしまいました、その履歴書はわたしもチラと見ましたが何も覚えていません、ただ職歴が並外れて多かったことだけは記憶にあります」

 その場にいる者たちの視線が自分に集まるのを西崎は感じていた。「それはたぶん、わたしの履歴書なんだろうと思います、七年前にサカマキ電子に応募したことがあります」そう答えながら、久美子が泣いていたということばが心に重くのしかかってくるのを感じていた。「でもその会社は落ちましたから仕事に就くことはありませんでした」

 雄大が言った。「その履歴書が管理人さんのだったかどうかはわたしにはわかりません、でも不採用の印が押してあったのは覚えています」

 「久美子ちゃんは西崎さんの不採用の履歴書を目にして泣いていたのね」

 「それは久美子ちゃんが見る前にその部分が開いてあったということなのか」

 「ということはどういうことなんですか」

 「おそらく父が印を押したんだと思います、テーブルには採用不採用の印も置いてありました」

 西崎の目に昔、ケミカル精密機械工業で期間アルバイトとして働いた時に金田光一を見かけた時のことが甦った。あの時、班長は真面目に働いた西崎を社員として働けるように推薦すると言ってくれたのだ。それは結局叶わなかったがそう言ってくれたことがうれしくて、別の仕事へと就く原動力にもなったのだ。ただそういう事実を耳にすると別の疑念も湧いてくる。そして何より、久美子があの履歴書を目にしたであろうという事実が深い悲しみで西崎を包み込み始めていた。

 「その後」と雄大が続けた。「母は父と夜遅くまで言い争いを続けていました、あの履歴書が原因なのだろうとわたしは思っています、でもそんなことより痛手だったのは父が不採用の印を柘植昌磨君の書類に押していたことです、おそらく母との喧嘩で混乱して間違えて押して担当者に渡してしまったのだろうと思います、父はあとで結果を知って驚いていました、そして申し訳ないことをしたとわたしに謝りました」

 「三人で会った時も聞きましたけど、それは光一君が印を押したということなのかしら」

 「よくわからないんです、ただ謝るばかりで父は何も言いませんでした」

 「理由はどうあれ結局それが原因で昌磨君は県外の会社に就職してしまいました、そして雄大君と紗季ちゃんも柘植さんと気まずいまま結婚式もしないで籍だけ入れてこのマンションを出ていってしまいました、久美子ちゃんが起こした事件はもちろんよくないけど、でも雄大君が戻ってくるって言ってくれているんだから、それは柘植さんにとってもいいことだと思います、孫の優也君も帰ってくるんだから」

 「気持ちの中ではずっと後悔していたんだが、なかなか言い出せなくて、今回はよかったって思っている」柘植はそう言ってから雄大に頭を下げた。「すまなかった、紗季と孫の優也といっしょに戻ってきてくれ」それから「瑠璃山さんありがとう」と頭を下げた。あとでわかったが、瑠璃山ルリ子がその県外の会社に昌磨を紹介していたのだ。

 柘植と雄大が握手をしてしばしテーブルに和やかな雰囲気が漂ったが「それにしても」と瑠璃山ルリ子が放ったことばでまた緊張感で溢れた。「西崎さん、はからずもあなたの名前が出てきました、あなたは関係ないって言い続けていますけど、あなたが知らないところで久美子ちゃんに影響を与えているんじゃないんですか」

 西崎は何も言えない。下を向いたまま「そうですね」と答えるしかなかった。

 「ところで」と瑠璃山ルリ子が続けた。「わたしは木村さん柘植さんといっしょに久美子ちゃんの面会に行ってきました、弁護士の佐々木響子さんから普段の楽しい会話で十分ですからと言われていましたので、ルリヤマ歌劇団のオーディションを開催する話や新作の話を主にしてきました、ところが帰り際に久美子ちゃんがポツリと言ったのです、『西崎君はどうしてますか』って」

 西崎は顔を上げた。木村五郎と柘植雄一郎が頷いている。西崎は不安な気持ちで彼らを見るばかりだ。

 「元気に仕事してるわよ、でもどうしてって私は聞きました、すると彼女はこう言ったのです」

 瑠璃山ルリ子が西崎を見た。恐怖に似た重いざわつきが胸に渦巻いた。

 「『あの人は幸せだったのかしら』って」

 西崎の胸に衝撃が走った。見えない砲丸を投げ込まれたみたいに全身が震えた。 

 幸せだったのかしら

 心の底から噴出してくる悲しみがそのことばを包み込んだ。

 「わたしは」と西崎は言った。「わたしは」ともう一度言いながら立ち上がった。

 その場にいる者たちの声が聞こえていた。「どうした」「なにしてるんです」「どこへ行くんですか」「「まだ会議は終わってないぞ」

 西崎は『幸せだったのかしら』と何度も呟きながらテーブルを離れた。背中に呼びかけることばを無視し追ってきた北田や金田雄大の手を振り払い外へ出た。そして自転車に跨るとシーラカンスを後にした。アパートへは戻らず夜の街を家出した若者のようにさまよった。


 翌朝とても仕事へ行ける状態ではなかった。帰ったのは明け方の三時過ぎで、疲労困憊の中、間覚まし時計をセットして眠った。朝になりそれはジリジリと鳴り響き、張りついた瞼と重く痛む頭を招いた。六十五歳のジジィのすることではなかったと後悔したが、『幸せだったのかしら』ということばにはそれだけの重みがあったのだ。履歴書を見られたという事実と関連があることは容易に想像できた。久美子は西崎の人生を全部ではないもののある程度理解できたはずだ。職歴の変遷をたどれば大まかなことが予想できるだろう。一か月で辞めた会社もあったし、次の再就職まで二年の空白のある時期もあった。出勤初日の事件当日のことが嫌が応もなく、西崎の目の中に甦った。連行される久美子の驚いた表情と「西崎君」と言ったことばが何度も繰り返された。あの時、彼女は何を言いたかったのだろうと、憑りつかれたように考えた。

 起きなければならなかった。疲れはとれてなかった。頭がボンヤリしている。仕事に行かなければと思ったが、身体は動かなかった。決断は早かった。重い身体でキッチンのテーブルまで這っていった。途中気分が悪くなり、大きく呼吸をしながら四つん這いのまま休んだ。落ち着いたところでまた這い、テーブルにたどり着いたところでもう一度休憩した。手を伸ばしデイバッグを引きずり落とし、スマホを取り出した。北田の短縮番号を押した。数回コールしてすぐ留守電に変わった。二回三回とかけて五回目に「なんですか、やめてくださいよ」と声がした。

 「すいません、ちょっと仕事行ける状態じゃなくて今日は休ませてください」

 怒りの声がすぐに返ってきた。「休むなんて冗談じゃないですよ、だいたいね、昨日どこ行ってたんですか、あの後何回電話したって思ってんですか、編集会議は延期になったんですよ、まったく」だが、だんだん声が薄れ、意識が遠のいた。西崎はそのまま倒れて深い眠りについたのだった。

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