第十章

 六月中旬になり管理室を一組の男女が訪ねてきた。その日は朝から雨で、館内をひと通り清掃したあとはずっと管理室にこもっていた。例によって柘植雄一郎が清掃場所のメモをふぅっふっふっふっふっと不気味な笑いで差し出したが無視した。管理人として勤め始めて一か月が過ぎ、これまでにはない経験を積んで開き直りの境地であった。

 その時はラジカセで大滝詠一のCDかけており、「さよならぁ、夏の日ぃ」などと口ずさんでいた。ドアを叩かれて「すいません」の声。「はい、なんですか」とドアを開けると、三十代と思しき見たことのない顔の男女がいた。

 「このたびはどうも」と男が言って隣の女もいっしょに頭を下げた。男は「わたし、金田雄大と言います、こっちはわたしの妻で紗季と言います、よろしくお願いいたします」と言ってからまた頭を下げた。

 「あ、じゃあ」と言って西崎は絶句してしまった。そこになんとなく久美子の面影を感じてしまっていた。

 「ルリヤマタイムスでもうご存知かと思うんですが、あの部屋にわたしたちが住むことになりました、引っ越しは八月を予定していますが、その前に来月リフォームしますので、届けの用紙をこちらで受け取ってほしいって業者から言われまして」

 「ああ」と西崎は室内の机の横の棚からバインダーを取り出し、専有部分修繕等許可申請書の用紙を取り出した。そしてそれを手渡しして太田からもらった作業ノートを開いて説明する。

 「必要事項を記入してからわたしに出してください、わたしが管理会社にFAXします、そして管理会社が工事に関わる要件を箇条書きにまとめて理事長に提出します、理事長が管理組合の印を押すとそれがリフォーム工事の承諾書となります」

 「理事長ですか」とここで金田雄大は表情を歪めた。隣の紗季が雄大を見て声に出さずに、どうする、と言っている。

 しょうがないだろ、なんとかなるさ、と小声で返しているのがわかる。雄大は「わかりました、よろしくお願いします、工事が始まる前にまたあらためて挨拶にお伺いします」と言って再度頭を下げた。紗季もよろしくお願いしますと頭を下げその場を辞した。そのなにやら話しながら帰ってゆく二人の後ろ姿はどこかやりきれなさを漂わせていた。

 「どうしたんだろ、理事長さんとなんかあるのかな」と呟いてドアを閉めようとした時、おおぉぉっほっほっほっほっほっ、と汽笛笑いが西崎に襲いかかってきた。訳のわからない寒気を感じた西崎は反射的にドアを閉め、災難に備えた。

 ドアが叩かれた。「ちょっと管理人さん」

 CDの音量を上げ、聞こえないふりをした。「ちょっと、聞こえないふりしてもダメですよ、悪あがきはやめなさい」

 ドアを開けた。「あ、瑠璃山さんじゃないですか」

 「なに言ってんですか、逃げても無駄ですよ、あなたはもうルリヤマタイムスの捜査網に包囲されてるんですから」

 「やめてくださいよ」と西崎は愚痴る。「わたしはこのマンションの管理人として働いているだけです、事件とは何の関係もありません」

 「そんなことより」と瑠璃山ルリ子は話を変えた。「今ここに雄大君がいましたね」

 「はい、リフォーム工事の申請書を取りに来られたんですよ」

 「それよ」と瑠璃山ルリ子はため息をついた。「だいじょうぶかしらね」

 言っている意味がわからない。西崎は「なにがですか」と聞く。

 「あら、あなた知らないの」

 「知りませんよ、まだここに来て一カ月ですよ、おまけに来て早々事件に巻き込まれて住民たちからあらぬ疑いをかけられて散々な毎日なんですから」

 「そんなことはどうでもいいのよ」と瑠璃山ルリ子は心配げに語った。「紗季ちゃんは柘植理事長の娘さんなの、柘植さんは二人の結婚に反対だったから今も雄大君とは会ってないのよ」

 「だって、越してくると言ってんですから、しょうがないでしょ」

 「心配だわ」

 「でもなんで反対なんですか、金田雄大君てオフィスカネダの一族ですよね」

 瑠璃山ルリ子はちょっと口ごもり「いろいろ訳があるのよ」

 「よくわからないですけど、だったら柘植さん、承諾書に印鑑押さないんじゃ」

 「そうよ、それ、だいじょうぶかしらね」

 もやもやは消えないが、西崎は新たに湧いた疑問を問わすにはいられない。「なんでそれ、ルリヤマタイムスに載せないんですか、格好のネタじゃないですか、だいいち個人の感情で入居してくる人が困るなんて、あってはいけないことですよね」

 瑠璃山ルリ子はにわかに表情を固くさせ「そんな載せれる訳ないでしょ、あなたに何がわかるの」

 「だって、わたしの記事はやりたい放題に載せてるじゃないですか」

 「ああ、あなたわね」と瑠璃山ルリ子は笑みを浮かべて「だって家族の微妙な問題でしょ、そっと見守っておくのがいいに決まってる、それに比べて独り身でいつ死んでも誰も心配しないあなたとは次元が違いますから」

 「なにっ」と噴出してくる怒りで西崎はことばが出てこない。「な、な、なんちゅうこと、を」

 「あら、ちょっと言い過ぎたかしら、ごめんなさい」瑠璃山ルリ子はおおぉぉっほっほっほっほっほっと汽笛笑いを響かせて去って行こうとした。

 「ちょっと待ってください」このマンションに来て初めてだった。管理人としての使命感が西崎を前へ進めさせた。「じゃあわたしが柘植さんに言います、木村さんにも話して協力してもらいます」

 瑠璃山ルリ子は西崎を見つめて「それはどうかしらね」とすげなく言った。「あの二人は今わたしの会社にいます」

 「会社ですか」

 「はい、山川建設グループの本社ビルの中にルリヤマタイムスとルリヤマ歌劇団の事務所があります、二人は月のうち二週間はそこで働いています、不定期ですけどね、あの二人はツーカーの仲です、木村さんは柘植さんの事情を全部知ってますから、一か月かそこらの管理人さんの話にのるとは思えませんけどね」

 そして今度こそ瑠璃山ルリ子はおおぉぉっほっほっほっほっと汽笛笑いを響かせて去っていった。

 そういえば柘植雄一郎は今朝メモを渡した後に車で出かけ行ったのを思い出した。いつだったか木村さんと二人で車に乗って出かけてもいた。仕事に出かけていたのかと思い至った。ここは瑠璃山ルリ子に牛耳られているんだと、今さらながらその影響力を感じた。西崎はやれやれと吐息をつきながらドアを閉めたが、三十分もしないうちにドアを開けることになった。ドアを叩いたのはもう片方の木村五郎だった。ここにいる限り彼らと関わらない訳にはいかない。

 「木村さん、本社ビルで仕事じゃなかったんですか」

 「ああ、今日は柘植さんだけだな、わたしは昔の仲間とちょっと、あってな」

 昔の仲間ってようするにヤクザのことか、と思いつつ「なんの用ですか」

 「急で悪いが明日集会室でオーディションが開催される、管理人さんもスタッフの一人として参加してくれ」

 はっ、なにっ。ことばが出ない。

 「六時からだから仕事を終えてそのまま来てくれればいい、晩飯はこっちで用意しする」

 言いたいことがわんさか胸に湧いてくる。スタッフって誰のことだ、オーディションてなんのことだ。「そんなの初めて聞きましたけど」

 「いや、急だったからな、早く決めないと次の公演に間に合わないんだ」

 「公演てようするにルリヤマ歌劇団の公演のことですか」

 「そうだよ、今年は新作で行うことが決まっていたんだがあの事件で主演女優の久美子ちゃんが出られなくなったから、代わりを探さなくちゃならんのだ」

 「それって、わたしと何の関係があるんですか」

 「関係もなんも、あんたスタッフだから当然じゃよ」

 「いつから」スタッフになったんですかと聞きたかったが、その前に「じゃそういうことだから」と木村五郎はドアを強引に閉めた。

 「待ってください」とすぐにドアを開けたが、片手を上げた後ろ姿を見てため息をつきつき諦めた。西崎は先日太田が言ったのを思い出していた。『他のマンションにはない特異性』と太田は言ったのだ。確かにと思いながら自分もその特異性に確実に巻き込まれているのを西崎は感じていた。


 翌日仕事が終わってそのまま二階の集会室へ行くとすでにマンション三人組は揃い、オーディションに参加すると思われる四人の女性がいた。入り口のすぐ右手に三人組も座る折り畳みの椅子十二脚が置かれ、左手奥に参加者と思われる四人が番号のついた十脚のうちのそれぞれの椅子に座っていた。

 「あら、いらっしゃい」瑠璃山ルリ子が入って来た西崎に声をかけ、他のみんながいっせいにこちらを見るので「よろしくお願いします」と訳もわからず言った。木村五郎がここへ座れと隣の椅子を指差すので仕方なくそこに座った。

 「言っておくがわたしは絶対に押さないからな」と柘植雄一郎が言ってくるのでなんのことかと思っていると「今ここで言わなくても言いだろ」と木村五郎が返した。

 「まあまあ、承諾書のことはこの次に」と瑠璃山ルリ子が言ったので、金田雄大のリフォーム工事の件かとわかった。

 「晩飯はどうなったんですか」と話を変えると、「はあっ」と三人から睨みつけられた。どうやらオーディションが終わってからのようだ。

 何も言えずに気まずい時間を潰しているとマンション三人組のヒソヒソ声が聞こえてくる。『トウコちゃん』とか『村岡さん』という名前が何度も出てくるのでオーディションに参加している子の名前かなと想像した。

 太田が北田といっしょにやってきた。五時半を過ぎると前に一度顔を合わせたカメラマンの川村裕子もきた。あと見たこともない男女五人がこちら側に座り、参加者のメンバーも十五分前には十脚がすべて埋まった。瑠璃山ルリ子が立ち上がった。

 「それではみなさん、六時前ですが全員揃いましたので始めようと思います、こちらは審査員席になりますが個々の紹介は控えます、全員ルリヤマ歌劇団のスタッフです」

 西崎は胸の中で『えっ』と叫んでいた。本当にスタッフにされてしまったようだ。

 「ではオーディション参加者を紹介します」

 ここで参加者の写真とプロフィールを掲載した用紙が審査員席で配られた。瑠璃山ルリ子が名前を言うと本人が立ち上がった。プロフィールで確認し写真と比較して若いなと思ったりした。それでも西崎はやれやれと投げやりな気持ちで聞いていたが、他のマンションからの参加者ばかりで公演が盛況というのは本当かもしれないと思った。すると最後に紹介されたのが村岡塔子で、彼女はうちのマンションからの参加者だった。三人組が言っていたのはあの人かと注視したが、なかなかの美人でプロフィールには四十五歳とあった。

 「応募者は十八名でしたが書類選考で八名の方を落としました、いずれも連絡済で公演の招待券を贈っています、残りの十名の方が参加者ですがうち九名の方は前回前々回のオーディションですでに役者として活躍されている方たちです」

 オーディションは課題曲と自由曲の二曲を歌い、審査員が十点満点で点数をつけ最高点は百二十点だった。課題曲は八十年代のヒット曲『CHACHACHA』で自由曲は本人が選んだ。

 

 

 

 


 

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