第九章
金田久美子の息子がマンションに越してくる。ルリヤマタイムスの配信された記事を読んでから、気持ちの引っ掛かりを意識しない訳にはいかなかった。それは仕事を終え帰宅してからも続き、布団に入っても眠れずにいた。要は息子が越してくることではなかった。それは付記してあった息子の経歴にあった。現在はオフィスカネダの営業企画室勤務だが、その前にケミカル精密機械工業勤務とあった。しかもそこはオフィスカネダの子会社で、故金田光一氏が専務取締役として在籍、とあったのだ。
西崎は二十年ほど前にケミカル精密機械工業で働いていた時期があった。正社員としての仕事が見つからず精密機器組立てのバイト募集に応募したのだ。半年間の期間限定だったが、真面目に働けば社員として登用されることもあるという話を採用の時担当者から聞かされていた。つまらないヘマをしないようにと心掛けていた。特に人間関係は苦手だから控えめに目立たないようにして、与えられた仕事をきちんとやりきることに専念していた。結局半年間のバイトということで終わってしまったが、それとは別に浮かび上がる記憶があった。一度だけ組立工場内の視察が行われた。それは急に決まったようで朝のミーティングで午後からとだけ告げられた。こっちはバイトだし、いつもの通りやっておけばいいだろうと思っていた。
「ここの作業は」と声が聞こえた。ある程度自動化されているが人の手も必要なラインだった。五人のグループで西崎が顔を上げると十人ほどのスーツを着た男たちに囲まれていた。みんな手を止めて、質問されたことに班長が答えているのを聞いている。
「そうか」とスーツの中の一人が言って「よくわかった、くれぐれも品質保持には気を配って頑張るように」と言った。
スーツの男たちが次へと移動を始めてグループ内の緊張がほぐれ始めた時、西崎の前で足を止めた一人が「君は」と声をかけた。予期しないことに驚いた西崎は何も答えられずに顔を強張らせた。班長が「期間バイトの西崎です」と答えた。男は数秒間西崎を見てから「そうか、よろしく頑張ってくれ」とだけ言って立ち去った。
「金田部長を知ってるのか」と一人から聞かれ、「いえ知りません」と答えた。あの時は本当にそう思っていた。「そうだろうな」と軽く返され、西崎もそのまま忘れてしまっていた。でもきっと、間違いなくあれは、金田光一だったのだ。間違いなく。そして自分のことを覚えていたのに違いなかった。
布団の中でため息をついた西崎は起き上がり時計を見た。まだ十一時前だった。決断は早かった。眠れそうもない今の状況はきっと自分を顧みろっていう神様の教示なのだろう。もしかしたら自分は事件になにかしら関わっているのかもしれないと、そんな気がしてくるではないか。布団から出てジャージに着替えセカンドバッグを持って部屋を出た。一階に降りて自転車に跨り、シーラカンスへ向かった。
店内に入るといきなり「管理人さんこっち」と声をかけられた。まさかとその方を見ると窓際のテーブルにつく木村五郎がうれしそうに片手を上げて手を振っていた。西崎はなんでこうなるとガックリと肩を落とした。
仕方ないのでそのテーブルへ向かい、木村五郎の正面に座った。ビールのグラスや焼いたホッケ、唐揚げに枝豆の皿が並んでいる。
「いやあ、うれしかったなぁ、管理人さんが自転車で来るのが見えてたんですよ、いっしょに飲めるかなって」
「だったら手を振ってくれればすぐ戻ったのに」
「そんなこと言わないで飲みましょう、わたしはたまにここで飲んでるんですよ」
木村五郎はウエイトレスを呼びビールのおかわりして枝豆やフライドポテトを追加した。西崎は「じゃ焼酎を」と注文し、サンドイッチもたのんだ。
「どうしたんですか」と木村五郎が言った。「眠れなくて」と答える西崎に「ははぁん、何か新事実でもわかったんですか」と図星をさした。「なにもないですよ」とムキに答えたもんだから「やっぱりそうなんだ」と言われてしまった。
「で」と身を乗り出して興味津々に尋ねてくる。
「何も言いません、言ったが最後どんな目に合うかわかったもんじゃない」
「そんなぁ、わたしと管理人さんの仲じゃないですか、そんな信じてくださいよ」
「信じれる訳ないでしょ」
ウエイトレスが焼酎や枝豆を持ってきた。グラスを取り上げひと口飲んでだんだん開き直ってきた。「だいたいですね、うちのマンションおかしいですよ」
「おお、なんか文句ありそうな雰囲気ですね」
「雰囲気じゃないですよ、ホントにあるんです」
「よし、わかった、ここで会ったのも何かの縁、その文句とやらを聞こうじゃないか」
「よし、言ってやろうじゃないか」
テーブル越しに二人でにらみ合ってバチバチの、それでいてどっかホンワカした空気が流れた。西崎はマンションでルリヤマタイムスという情報誌を配信し、集会室公演を行うルリヤマ歌劇団なんてものが存在することの違和感を言った。「このマンションに来るまで知らなかったですよ」
「そうだろうな、うちのマンショングループとほかは一部のマンションだけだから、知らない人の方が多いだろう」
「だいたい、そんなことやって利益上がってるんですか、もしかして山川建設グループ社長の奥さんの暇つぶしですか」
「暇つぶしでこんなことが出来る訳ないだろ」木村五郎はドスの利いた声で返した。「管理人さんは何も知らないからそういうことを言うんだ、どれだけ大変だと思ってんだ」
西崎はグラスを一気にあおり、おかわりの焼酎を頼んで負けじと言い返す。「だって、普通はやらないでしょ、こんなこと」
木村五郎はここでビールを飲み、フライドポテトを何度か口に運んでから説明した。「わたしも詳しいことは知らない、始まった経緯も知らない、でもな瑠璃山さんは真剣だよ、瑠璃山には瑠璃山さんの事情があるんだよきっと、こんなことあんたに言ってもしょうがないが、そんなに儲かってないんだ」
そう言われると気になってしまう。「だって元手ってそんなにかかってないでしょ、ルリヤマタイムスなんてわたしの誹謗中傷を書いてるだけじゃないですか」
「あのなあ」と木村五郎は言った。「配信だって大変なんだ、昔はB4サイズの紙の情報誌だった、それを金田光一さんにお願いしてオフィスカネダで配信までのシステムを構築したもらったんだ、もちろん金を払ってね、今もメンテナンスやら新しいアプリやらけっこう関わっているみたいだ、管理人さんもシーラカンスで使える五百円のクーポンもらっただろ」
「あれはもうとっくの昔に使っちゃいましたよ、もう来ないんですかね」
「そうたびたび出してたんじゃホントに潰れちゃうな」
「じゃあ、ルリヤマ歌劇団はどうなんですか、けっこう人気で盛況だって言ってたじゃないですか」
「こっちの方がもっと大変なんだぞ、集会室公演って銘打っているが集会室にいったい何人の観客が入ると思う」
西崎の目にマンションんの二階の集会室が浮かんだ。そんなに広くはない。三十坪かせいぜい四十坪か。
「うちのマンションで言えば三十五坪、平屋の家がまあすっぽり入るくらいだ、収容人数は百人も入るか入らないか、だから公演の時の観客は入り口から三分の一くらいまでの位置になる、あとは少し間を空けて舞台は半分くらいの面積になる、一回の公演での観客は三十人と決めている」
「少ないんですね」
「そうよ、盛況といってもうちのマンションでチケットを買う人は毎回七十人くらいだ、うちで公演すればよそから来る人もいるので四回公演して動員は百二十人だな、他のマンションはもっと観客は少なくなる、だいたい一回しか公演はしないし」
「人気があるんだったらよそのマンションにも働きかけてみればいいじゃないですか」
「そういう訳にもいかないんだ、最近は集会室がないマンションもあるんだ、あってもテーブル一つが入いるくらいの十畳くらいとか、ひどいと四畳半くらいとか」
「ははぁ」西崎は何も言えなくなる。
「だからルリヤマ歌劇団はほとんど利益は出てない、瑠璃山さんにしてみれば慈善事業みたいなもんだ」
「じゃあなんでやってるんですか」
「それはわたしもわからない、でも強い思いがあるのは間違いないな、きっと他の者にはわからない事情があるんだろう」
西崎は焼酎を飲み、枝豆やサンドイッチをつまみながら瑠璃山ルリ子の事情というもについて思いをはせた。先日高田が言ったことばが浮かんでいた。
『瑠璃山ルリ子についてどう思われますか、ルリヤマタイムスやルリヤマ歌劇団ってなんのためにあるのかって考えたことありますか』
「なんのためにって、言われても」とつい声に出してしまい、「なんですか」と木村五郎が言った。西崎は高田から聞いた話をしてみた。
「ある人から聞いたんですが、その人の名前言えないんですが、今回の事件で行方不明になっている人がいるって、そういう話を聞いたんですが」
木村五郎の表情が一変した。「誰がそんなこと言った」鋭く固い声だった。
「だから名前は言えません、ちょっと前なんですがこのマンションまでわたしを訪ねてきた人がいるんです」
「そいつはおそらく酒井悠太だ」木村五郎が怒鳴るように言った。
「いやその人は違う名前で」
「違う、その行方不明の男がだ」
えっ、と驚いて木村五郎を見た。「知っているんですか」
木村五郎は呆然とする西崎の前で勢いよくまくしたてた。「そいつはわたしたちスタッフの間では知られた奴だ、集会室公演で金田久美子のファンになりストーカーみたいなことをやってた奴だ」
「ストーカーだなんて」西崎は先日の高田の話と違う言い様に驚いた。「その人はそんなこと言ってませんでしたけど」
「それはわたしの感じたことだからハッキリとはわからない、ただ頻繁に金田久美子と会ってたようだ」
「久美子さんに聞いてみなかったんですか」
「彼女は笑いながら違うって言ったよ、でもあの男と出会ってからなんか様子が変わったんだ」
「どんなふうに、ですか」
「それはどう言っていいのか難しいな」と言ってから「彼女は明るくて物言いがハッキリしていて、みんなへの配慮も行き届いていて、信頼は厚かったんだ、でもあいつと出会ってから、考え込むことが多くなったんだ、光一君との不和もどこからともなく言われるようになったんだ」
「じゃあですよ」と西崎は叫んだ。「わたしより、その酒井悠太って奴をルリヤマタイムスの座談会に呼ぶべきじゃないですか」
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