第六章

 北田は迷惑だとでも言いたげに早口で言った。「わたしは何にも知りません、太田さんから退職届を出されて、その期限までに後任を決めたかっただけです」

 「期限って」と瑠璃山ルリ子が言った。「そんなのがあったんですか」

 太田があわてたように口をはさむ。「いや、希望の日を書いてただけで、決まらなければ二、三カ月延ばしてもいいとは言ってたんですが」

 「でも、前日に西崎さんが応募してきたんで、それなら明日からきてもらえると助かるなって」

 西崎はなんか違うなと思いながら話を聞いていた。「そうじゃないんですよ、わたしはマンションの管理人なんて仕事初めてで、あのマンションに来たのも初めてだってことを言って欲しかっただけです」

 北田が答える。「確かにそれはそうです、紙を継ぎ足して職歴が書いてありましたから」

 テーブルの皆が顔を見合わせる。「紙を継ぎ足すって、どういうこっちゃ」と誰かが言った。

 「ちょっとあなた、転職人生ってさっき言ってましたよね」瑠璃山ルリ子が憤慨の表情を見せながら問うた。「そんな人生って初めて聞きましたけど」

 西崎は小さく吐息をついた。おれは何しにここへ来たんだと後悔した。それでもヤケクソの心境でもうどうにでもなれと言い放った。「とにかく若い頃は人見知りがひどくて喋るのが苦手で人の前へ出るのが苦痛だったんです、それでも借金返さなきゃならないから給料のいい営業へ就職して、でも結局続かなくて辞めて、でもまた営業に仕事を決めてって、その繰り返しだったんですよ」

 「そんなあなた、給料安くても自分に合った仕事をコツコツと頑張るって、そんな発想はなかったんですか」

 「なかったです」西崎は即答した。「だって母と二人で返さなきゃならなかったんですよ、母に無理させられないしゃないですか」

 「だけどそれは本末転倒ってやつで、続かなきゃ返せないだろ」

 「だからですよ」西崎はあの頃の自分を思い出しながら声を大にして言った。「わたしは未熟だったんですよ、愚かだったし何も見えてなかった」だからと胸の中で叫んでいた。一方的に久美子に別れようと言ったのと同じで、一方的に営業ばかりを選んでいた。むやみやたらに突っ走っていた。若かったと言えば若かったのだ。

 「しっかりしなさい、あなた恥ずかしくないんですか」瑠璃山ルリ子の声がシーラカンス店内に響きわたった。「そんなことでどうするんです、ちゃんと前を見ないでどうするんです」

 それはあたりのテーブルの人たちをも巻き込んで騒然となった。「本当に、ちゃんと生きないと」「信じられない」「転職人生って開き直ってるわね」「いろんな人がいるものなのね」「そんな人生でいいはずがない」

 西崎は言わずにはいられない。「でもとにかく、そうして生きてきたんです、わたしはそうして生き延びてきたんです」

 「それで借金はどうなったんですか」太田が心配げに聞いてきた。

 「完済しましたよ、でも母はそれを見届けるように亡くなりました、もっと、人生を楽しませてあげたかったですね」

 「なんてことかしら」「息子の出来が悪いと親まで悲惨ね」「ひどい話だわ」「そのうえ殺人事件に関与しているなんて」

 外野席からのひそひそ声は続く。でも無視してあえて言う。「母は死ぬ間際に言ってくれました、『よかった、これからはあなたの人生を生きなさい』って」

 「それでこの有様なのか」

 「お母上に申し訳ないとは思わないのか」

 「これでも頑張って生きてきたんです」

 「奥さんは、なんて言っているんですか」と言ったのは太田だった。

 正面にいる元の管理人を見て、そうだったと西崎は思った。あの日は事件の騒動で個人的なことは何も話してなかったのだ。もっとも引継ぎはたったの一日だから、そうそう言えるもんじゃない。

 「わたしは離婚しています、しょうがないですよね、こんな男とだったら誰だって別れますよね」半ば自嘲気味だったが、それでもこの悲惨な男への同情があるのではないかという期待もあったのだ。

 テーブルに沈黙が漂った。ひそひそ声も聞こえない。どうしたんだと思い見回すと、そうだろうなと納得しつつもどこか呆れかえっている様子がうかがえる。

 「いや、だから、わたしはそれでも」と続けた。一生懸命生きてきたんだと、そう言いたかった。だが瑠璃山ルリ子の一喝で木っ端みじんとなった。「ちゃあぁぁん、とし、なさあぁぁ、いっ」怒鳴りながら勢いで立ち上がり、西崎を上から睨みつけた。「西崎さん、あなたね、わかるわよ、あなたが抱えていたものはそう簡単に乗り越えられるものじゃなかったかもしれない、でもね、それでもやっぱり、情けないわ、言うのは簡単かもしれない、だけどね、履歴書に紙を継ぎ足さなければならないほど転職するってちょっとひどいわ、きちんと自分を見つめて無理しない仕事ってことも考える必要があったわ、奥さんだって気の毒よ、奥さん大変だったろうなってわかるもの」

 西崎はもう言い返す気力を失くしていた。確かにそうだからだ。淑子の顔が浮かんだ。明るい性格でいつも笑って元気づけてくれたものだった。思い出すと余計に情けなくて、ため息をつきながら俯くしかなかった。

 ふいに太田がひと言ことばをはさんだ。言わずにはいられないという切迫感のあるそれでいて穏やかな声だった。「でも西崎さんを見てると、なんかホッとしますね」

 それはテーブルの上の辛辣な空気をやんわりと包み込んだ。誰もが戸惑っているのがわかった。少し間があき、固い口調で責めていた木村五郎のことばがさらに後押しした。「それはわたしも感じるな、なんか他人事みたいに安穏としてるよな」

 「確かに」とか「なんか穏やか」とか「なんにもわかってないみたい」とか、声が続いた。

 その時、西崎の胸にズンと衝撃が走っていた。身体の内側から突き抜けるものがあった。それは脳裏のずっと先の古い記憶の領域から疾風のごとく駆け抜けていった。

 そうだった。かつて久美子が西崎に向けて言ったことばだった。当時はなんでそんなことを言うのか訳がわからず、ただ聞き流すだけだった。でも心に引っ掛かるものがあって、記憶の底に沈んでいたのだ。

 康宏はいつも安穏としていて、なんかホッとするわ

 そうだった。久美子は何かにつけそう言ったのだ。康宏は穏やかだから好きよ

 「同じことを久美子が言ったんですよ」呆然としながら、西崎はそう口走っていた。隠すつもりはもうなかった。どちらかというと聞いて欲しかった。テーブルの皆に話しながら西崎はパトカーの中からまっすぐにこちらを向いていた彼女を思い出していた。あの時の顔は同じことを言おうとしていたんじゃないかとそんな気がしていた。事件を起こした混乱の中で西崎を四十四年ぶりに見てそう言いたかったんじゃないかと確信していた。そしてそこにある訳の分からない深い悲しみをこの場で初めて感じていた。


 一週間が過ぎた。西崎は管理室で怒りで震えながら配信されたルリヤマタイムスを読んでいた。先日の編集会議『マンション殺人事件で暗躍した重要参考人を斬る』の様子がそのまま掲載してあり、『きわめて怪しい参考人である管理人西崎康宏のできそこないのたわけもん人生が純粋な金田久美子さんに大きな影響を与えた』のことばで締めくくってあったのだ。さらに近々疑惑の管理人を深く追求する場を設けてその様子を次号に掲載すると大々的に予告してあったのだ。

 「なんじゃこれは」と憤まんやるかたなくつぶやきながら、それでもガックリと肩を落とした。会議後、刑事の小野と佐々木響子はとても参考になりましたと言って帰って行った。発言はなく、二人ともメモだけをとっていた。西崎も帰りたかったが、テーブルに並べられたピザだのパスタだのハンバーガーだの見ていたら身体が動かなかったのだ。おまけにビールやワインも登場して、一転にぎやかで楽しい飲み会に変わってしまった。こういう場は久しぶりだった西崎はつい飲み過ぎて、過去の仕事の失敗を得意げに喋ってしまった。

 「だからさ、おっさんが消えちまったんですよ」それはビジネスホテルのフロントの仕事で、チェックインに来た男がクレジットカードを出したのだ。一旦預かってコピーをとり、返そうと振り返った時、男の姿が消えていた。「あのジジィどこへ行きやがった」と口走った瞬間、男がカウンターの下から立ち上がった。そのあと、鬼の形相の男との修羅場は他の従業員や居合わせた客を巻き込んで一時間ほど続いた。

 「まだあるんですよ」と思い出して喋ったのは書店の営業の話だ。前日車を所定の場所に駐車させて帰った。だが運転手側の窓を閉めるのを忘れていた。夜に雨が降り、次の日仕事に行こうと乗ると床に雨が溜まっていた。ただでさえ仕事のできない疫病神みたいな扱いなのにそのうえこんなことを上司に言える訳がなかった。とにかくガソリンスタンドまで行こうと発車させたが、それまでずっと足元に溜まった水がザザザザザァっと行ったり来たりした。

 解散して帰宅する時、瑠璃山ルリ子から言われた。「西崎さんは会員じゃないから五百円いただくんですけど、ルリヤマタイムスをとっていただけるんでしたら今夜の食事代はいりません」

 酔った勢いもあり西崎はじゃあ取りますよとその場で契約をした。そしてルリヤマタイムスは月五百円で、一年分まとめて支払うと一か月分サービスなると言われて五千五百円を払ってしまった。「くそっ、だまされた」と今になって地団駄を踏み、配信された記事に歯ぎしりしているのだった。

 そんな時に管理室のドアを叩いたのは佐々木響子だった。仕事中にすいませんと言う弁護士に「全然かまいませんよ」と返して、久美子のことを聞かせてもらえるのかなと気持ちが幾分落ち着いた。

 立ち話もなんですからと管理室に招き入れ、折り畳みの椅子を出し、コーヒーでもどうぞとインスタントにお湯を注いで紙コップを机に置いた。

 「実は」と佐々木響子は思いもかけぬことを切り出した。「金田久美子さんが西崎さんに会いたいって言っておられるんです」

 えっ、とことばにならない叫びをあげて、西崎は佐々木弁護士をまじまじと見つめたのだった。


 

 

 

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