第五章

 「お仕事始められる前に五分でいいですから、話し聞かせてください」

 小野と名乗った刑事は場所もここでいいですからと言ったのだが、西崎が嫌だったので管理室に入った。マンションの住民が何事だという顔で通り過ぎて行くのだ。いよいよ怪しまれるばかりじゃないか。それでも質問はたった一つで時間は一分もかからなかった。「金田久美子さんとはどういうご関係で」

 予想はしていたが西崎としてはなんでこうなるんだと苛立ってくる。朝っぱらから瑠璃山ルリ子が管理室まで来たのにもムカついていた。あとになって少々軽率な発言だったと悔やんた。「だからですね、彼女とは大学の時同じサークルの部員でして、それでも家の事情で中退しなければならなかったから、それをきっかけとして別れたんです」

 小野が確認した。「別れたんですね」

 えっ。「いや、だからあの、望月、いや、か、金田久美子さんとは四十四年ぶりだったんですから」

 「ははぁ」と小野は意味深な笑いを浮かべた。

 「だから、本当に四十四年ぶりだったんですから、もういいですか、まだここ三日目で仕事に慣れてないんで」

 しどろもどろだと自覚しながら西崎はドアを開けてホールに出た。出勤する住民に「おはようございます」と挨拶をし、玄関から駐車場へ入ってゆく途中にある倉庫へ行こうとして「朝からすいません」と声をかけられた。

 玄関前に駐車していたもう一台の車の横に女性が立っていた。「西崎康宏さんですね、わたし金田久美子さんの弁護を担当することになりました佐々木響子と申します」その女性は呆然と立つ西崎の元へ寄って来て名刺を差し出した。

 その時、なんでこうなるんだと、そのことばだけで頭の中はいっぱいだった。

 名刺を受け取りながら「あのですね」と言ってしまった。「そんなに知りたきゃ今夜シーラカンスに来たらいいじゃないですか」

 「シーラカンスで何があるんです」

 それは刑事の小野と佐々木響子が同時に放ったのだった。ああっと後悔したがもう遅い。さらに間が悪いことに余計なことを言った奴がいた。

 「六時からシーラカンスでルリヤマタイムスの編集会議、そこでこの参考人をみんなで質問攻めにするんですな」まるで仕組んだかのようにその場にやって来ていたのは木村五郎だった。

 「木村さん、そんな」とガックリと肩を落とす西崎に「あんたも往生際が悪い、いい加減ひらきなおってもいいだろう」木村五郎ははっはっはっはっはっと笑いながらどこかへ出かけるのか駐車場へと行ってしまった。さらにその場にいるのが当然のごとく、ふっふっふっふっふっと不気味な笑いを響かせながら柘植雄一郎が姿を現し、メモを西崎に差し出し手渡すとふっふっふっふっふっと笑いながら木村五郎の後を追うように駐車場へと行ってしまった。 

 「なるほど、そういうことですか」小野はそう言って車に乗り込む。

 「わかりました、じゃあその時に」佐々木響子も車に乗り、小野がバックさせて走り去るのを見届けるようにバックさせて行ってしまった。

 あとに一人残された西崎は地団駄を踏む思いで「なんでこうなるんだ」と小さく叫んだ。木村五郎と柘植雄一郎の二人が乗った車が通り過ぎてゆくのを眺めながら、渡されたメモを見ると、『なお編集会議の参加費用は五百円です』と書いてあった。


 五時までを憤まんやるかたなく仕事し、帰宅すると弁当箱洗ったり、洗濯物を入れて畳んだりしているうちに六時十分前になった。シーラカンスまでは自転車で五分ほどだから今からで十分だ。アパートを出て自転車をこぎながら、だいたいなんで五百円払わなければならないんだと、そのことにもムカついていた。

 シーラカンスの店内に入ると人が多くてざわざわしている。夕方だからこんなもんだろうと思い様子をうかがうと「西崎さん、こっちですわ」と窓際の一番奥のテーブルから聞いたことのある声で呼ばれた。そちらへ向かいながら予想していたより多い人数がいるのに気がつく。

 テーブルは二つを合わせてあり、そこに瑠璃山ルリ子、木村五郎、柘植雄一郎が座っている。この三人はわかる。当然だろう。北田もいる。そういえば参加すると言っていた。でもなんで太田までいるのだ。カメラマンと称してマンションの住民で見たことのある川村裕子という女性もいる。加えて「どうも」と頭を下げたのは刑事の小野と弁護士の佐々木響子だ。さらに十人ほどの見たことのありそうな顔が前や横のテーブルに座って興味ありげな顔で見ている。

 「どうぞどうぞ」と瑠璃山ルリ子に手招きされ、合わせたテーブルの真ん中の席に座る。正面には太田がいて西崎を見て「どうも」と頭を下げる。「なんで太田さんまで」と言うと「わたしもメンバーなもんですから」と返ってきた。

 人数分のコーヒーと大皿のフライドポテトが運ばれてきた。「会議終了後はいつものとおり食事をします」と瑠璃山ルリ子が言い、そして「今日は急きょ小野さんや佐々木さんという特別ゲストまで出席していただくことになりまして、『マンション殺人事件で暗躍した重要参考人を斬る』がいよいよ注目されることになりそうです」と続けた。

 「ちょっとなんですかそれ、重要参考人て誰のことです」

 「だから、あなたのことなんですよ、いいですね」と瑠璃山ルリ子はニッコリ笑って「時間も押し迫ってますから早速始めたいと思います、では木村さんお願いします」

 北田がボイスレコーダーを真ん中に置いた。

 「いや、だから」と文句のひとつも言ってやろうと思っていたが

 「はい、司会の木村です、『マンション殺人事件で暗躍した重要参考人を斬る』を始めます、では重要参考人の西崎さん、まずあなたと金田久美子さんとの関係を述べてください」もう向こうのペースだ。

 黙って聞いていればと西崎は腹が立つ。「ひどいじゃないですか、わたしは昔は人見知りがひどくて人前でろくに喋れなくて、大学の時入っていた映像研究会というサークルでもなかなか意見が言えなくて、けっこうバカにされていたんです、でも今は違います、こんなわたしでも長い転職人生でいろいろあってそこそこ喋れるようになりました、いいですか、わたしと久美子、いや、あの金田久美子さんは四十四年ぶりにマンションのホールで再会したんです、四十四年ぶりだったんです」

 西崎の目にあの日出会って驚いた久美子の表情が浮かんだ。彼女は何度も振り返ってパトカーに乗り、行ってしまう時も車の名からこちらを見ていた。懐かしかった。久美子の顔が愛おしかった。こういう状況でも胸に刻まれた瞬間はまざまざと甦ってくる。彼女との二年の日々が目の中を流れた。最後の日は悲しみに彩られていた。もう会わないと言ってから彼女を残して出た。立ち去りがたくて大学構内をうろうろ歩いていた時、教室のある三号館から出てくる久美子を見かけた。すぐに近くの七号館の陰に隠れたが、彼女はしばらくその場にたたずんでから急に走り出した。顔見知り

の学生たちから声をかけられても見向きもせずに走った。疲れたのか大きく呼吸しながら膝に手を突き、また走り出した。その表情は凍りつき虚ろで誰かを探し求めていた。いつも二人で歩いた銀杏並木の構内ロードの途中でふいに立ち止まり膝を折って座り込むと両手で顔を覆った。何人かの学生たちが取り囲み声をかけていた。その姿に、ごめんごめんと何度もつぶやきながら、西崎は一人嗚咽した。

 「かわいそうだったんです、申し訳なかったんです」つい声に出して言ってしまったが、西崎はあの時の光景を思い出すたびに胸を痛めてきたのだ。

 その時この世とも思えない優しくふくよかな声が西崎の耳に届いた。「だいじょうぶですよ、吐き出しなさい、あなたの心の内側にある罪悪を声に出しなさい、それがあなたを救うのです」

 えっ、とあたりを見回し戸惑いながら「でも、わたしは」

 声は続いた。「なにも心配はいりません、だいじょうぶなのですよ、そうすればあなたは救われます、茨の道から光差す幸福の世界へと変われるのです」

 西崎は打ち震える胸の中で感動し、まるで天使に導かれるように「お願いします、わたしをお助けください」と涙し、あの別れの場面をこのテーブルの皆に語ったのだった。

 「なんですか、それ」と突然金切り声が響きわたった。

 「なるほど、そういうことですか」

 「ひどいなあ、なんちゅう男だ」

 「久美子ちゃんかわいそうに、こんな男に騙されて」

 何が起こったんだと気がついた時は遅かった。避難ごうごうの茨の編集会議の場となったのだった。

 「ちょっと待ってください」と言うも「こいつがそそのかしたんだ」とか「騙されたんだ」とか「この男が殺したんじゃないのか」と非難はやまない。それで「別れるにはわそれだけの理由があったんです」と言ってしまってから後悔した。木村五郎がニヤリと笑った気がした。

 「じゃあその理由も言うんだな」

 「さっさと白状しろ」

 「どんな訳があろうとこいつが極悪人であることに変わりはないな」

 なんでこうなると西崎は深々とため息をつき「わかりましたよ」と諦めた。そして西崎は自分が大学を中退しなければならなくなった経緯を話し、久美子に迷惑をかけたくないからと別れた気持ちを打ちあけたのだった。

 「おとうさん自殺しちゃったの、それは気の毒だったわね」

 「でもそんなに経営状態が悪いのに、気がつかなかったのか」

 「だってその頃大学生だったんだろ、それを知らなかったというのはちょっといくらなんでもひどいな」

 なんにしろ悪く言われることに変わりはないと西崎は気がついたが遅かった。「それでその後はどう久美子さんと関わっていたんですか」と問われて気持ちが爆発した。「だから言ったじゃないですか」と語気強く言い「マンションの管理人として初めて出勤した時に四十四年ぶりに会ったんです、何度も同じことを言わせないでください」自分としては言ってやったぞという気分だったが、逆に怒鳴られる。「いい加減に観念しろ、じゃあなんでこんな殺人事件が起こったんだ、あの久美ちゃんが事件を起こすわけがない、おまえがそそのかしたに決まっているんだ」

 西崎はことばを失くした。ここは弁明の場でもなんでもない、事実を曲げて白状するまで問われる場なのだ。

 「北田さん」と矛先を変えて言った。これまで喋るのは瑠璃山ルリ子と木村五郎、柘植雄一郎の三人なのだ。他の者は黙ったままだ。太田は俯いて眠っているようにさえ見える。「言ってくださいよ、わたしがなんで応募してきたかを」

 北田は急に言われてひどく驚いていた。「わ、わたしは何にも知らないですよ、この人が応募してきたから、採用しただけで」


 

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