第四章 

 はっはっはっはっはっ、と背後から笑い声が聞こえてきた。振り返ると木村五郎が立っている。「まだ管理人の仕事に慣れてないみたいだな」

 「慣れる訳ないですよ」西崎は怒っており、その勢いでことばも強くなる。「ルリヤマタイムスってなんですか、人のこと犯人呼ばわりで記事にして」

 木村は「これか」と言いながらスマホを出して寄ってくる。その画面にはさきほど北田が見せた『容疑者は新人管理人』の記事が出ている。

 「これって、みんな取っているんですか」

 「みんなというか、これはこのマンションの住民で申し込んだ人が配信を受けている、別のマンションではそのマンション用の配信がある」

 ということは当然この配信を受けている人はみんなこの記事を読んでいるということだ。これが憤慨しないでいられる訳がない。「ひどいじゃないですか」と西崎は抗議した。

 「みんな知りたいことだからな、しょうがないさ」と木村五郎は西崎の肩を叩く。

 気になることばがある。「別のマンションて、どういうことです」

 木村五郎は聞かれたことに驚いたようで「そうか、そうだろうな、まだ知らないんだ」と言ってから、今度は西崎が驚くことを話し出した。「瑠璃山ルリ子は市内にある五棟のマンションを保有する山川建設グループの社長の奥方なんだな、ルリヤマタイムスは瑠璃山ルリ子がこのマンションで始めた事業だが、当然他の四棟でもそのマンション用のルリヤマタイムスが配信されている、それだけじゃない、噂を聞きつけた市内の八棟のマンションからも配信の依頼がきて、要するに今じゃ十三棟のマンションで配信されていることになる」

 「瑠璃山さんは山川建設グループの社長夫人なんですか」

 「そうだな」

 「それなのにマンションで事業をしているんですか」

 「そうなんだよ」

 「おまけに十三棟で配信なんですか」西崎はまさかと思いながら聞いてみる。「でもこれはうちのマンション用の配信なんですよね」

 木村五郎は事もなげに答えた。「そうだな、でもさ、今回の事件はみんが知りたがっている、社会の闇を切る正義のルリヤマタイムスとしては記事にしない訳にはいかないんだ、だからこの記事も全部に配信されているな」

 やっぱり、か。恐れていたことが起こっている。勤め始めてまだ二日目だというのになんなんだ、これは。西崎は次には怒りを通り越して意気消沈し、この現実にガックリ肩を落とすしかなかった。落とすどころか全身の力が抜けてその場に座りこむしかないのだった。

 はっはっはっはっはっ、木村五郎はの笑い声がロビーに響きわたった。「まあ、いいじゃないか、明日編集会議があるからその場でしっかり自分の立場を主張することだな、それがまた記事になればだいじょうぶさ」

 西崎は木村五郎を見上げた。そんなこと信じられない。信じられないことばかり起こっているのだ。「本当にだいじょうぶなんですかね」

 「だいじょうぶさ、なんと言ってもマンションだけの配信なんだから、それにね住民たちは金田久美子との関係を知りたがっているんだ、だからそこがハッキリすればいいんだよ」

 「言ってますよ、大学の頃の友人だって、四十四年ぶりに会ったんですって」

 「それじゃあ誰も納得しない、なんてたって金田久美子だからな」

 西崎はなんか違和感を覚えた。みんな知りたがっているって、どういう意味なのだ。「つまり相手が金田久美子だから、興味があると」

 木村五郎の話は驚くことばかりだ。次に語った内容はある意味、西崎の気持ちを開き直させるのに十分だった。

 「彼女はルリヤマ歌劇団の看板女優だったんだ、ルリヤマ歌劇団も瑠璃山ルリ子がマンションでやっている事業で、年に数回行われる総会とか理事会以外ではほとんど使われることのない集会室を会場として公演を行っているんだ、最初はうちのマンションだけだったが、すぐにグループのマンションでも行われるようになり、これも噂を聞きつけた市内の五棟のマンションでも行うようになった、出し物は昔ハリウッドの映画でヒットしたウーピーゴールドバーグの『天使にラブソングを』のストーリーをパクった『おばばにラブソングを』だ、これが好評でね、金田久美子はこの作品で知る人ぞ知る人気女優になった、例のウィルス騒動で二年間休演して去年うちのマンションで二回公演を再開して、いよいよ今年からと言う時だったから、余計に注目されるようになったんだな、この掲示板の募集の貼り紙も彼女の代役の募集なんだよ」

 西崎はなるほどと納得し、深々とため息をついた。もうこの事実を受け入れるしかない、この職場を選んでしまったのだから諦めるしかない、どうやらおれは二日目にしてこのマンションにがんじがらめになってしまったようだ。力なく立ち上がって管理室に戻る西崎の背に、木村五郎の笑い声が響きわたった。はっはっはっはっはっ、はっはっはっはっはっ。そしてまるで嘲笑うかのように瑠璃山ルリ子の汽笛笑いと柘植雄一郎の不気味な笑いが甦り、追い打ちをかけるのだった。

 おおぉぉほっほっほっほっほっ。ふっふっふっふっふっ。おおぉぉほっほっほっほっほっ。ふっふっふっふっふっ。


 夜、大志から電話が入った。「驚いたよ、おかあさんから連絡がきたんだ、マンションで殺人事件があったんだって」

 「そうだな、初日から大変だったけど」西崎は詳しくは話さず、自分は何にも知らないから警察からも聞かれなかったとだけ話した。それよりも淑子が勤務先のマンションを知っていたということに驚いていた。

 「ニュースで流れたのか」と聞くと「県内のニュースでマンショが一瞬映ったんだって、でもおとうさんらしいって笑ってたよ」

 「どういう意味だ」と返したが、西崎にはよくわかっていた。大志も笑いながら「そういう意味に決まってんじゃん」と言った。

 『あなたといっしょにいるとゴタゴタとトラブルばっかり、たまには静かに生きてゆきたいわ』と言って淑子は西崎と別れたのだ。それはここでわざわざ言われるまでもなく感じていたことだ。仕事が長続きせず、やっとついた職場で問題を起こしたり、または巻き込まれたり。もちろん生活が安定しないことが一番だが、彼女に言われるまでもなく、西崎自身も疲れてもいた。『静かに生きてゆきたい』と胸の内で思っていた。

 いやいやと頭を振って話を変えた。「こっちのことはだいじょうぶだから、それより大志の話を聞きたい、どうなってんのかな」

 「そうだな」とことばが返ってきた。なんか違う感じだなと思っていると、「結衣とのことを言ってんのかな」

 「いや、そうじゃないけど、でもそれも含まれるかな」

 「だろうね、でも今夜電話したのは別に話したいことがあって」

 ドキリとしながら「そうか」と言った。

 「仕事辞めようと思っている」

 えっ、と思った。突然何を言ってんだと混乱した。おれじゃないんだ、他ならぬ大志なのだ、それが息子のことばだとは信じられない。「だ、だって、結衣ちゃんと」結婚とまでは言えなかった。「どういうことなんだ」とやっと続けた。

 電話口で深呼吸する様子が伝わってきた。「ぼくはさ、高校卒業して就職した時に決めていたんだ、将来まだ気持ちが残っていたら大学に行きたいってそう思っていたんだ、だからその時のことを考えて金も貯めていたし勉強も続けていたんだ」

 西崎の胸にズンと応える。「いいじゃないか」とやっと言う。

 「来年大学に行く、社会人向けの入試制度が整備されているんだ、通信制と通学制があるけど通学制でと思っている」

 「あの、それで結衣ちゃんは」

 「うん、あいつは、その、つまり仕事辞めるのに反対みたいだ、大学も通信制でいいじゃないかって」

 そうだろうな、と思う。それが普通の考えだろう。こんな自分でもそれでも父親なんだという自負はある。「やっぱり何か、その、大学に行けなかったっていうコンプレックスというか」

 大志は即座に否定した。「違うよ、そんなものないよ」そしてこう続けた。「会社作りたいんだ、世界中の雑貨を扱う店を持ちたいんだ、そのために経営学勉強したいし、実際にそういう店でアルバイトもしてノウハウみたいなもの学びたいし、でも通信制で仕事辞めなかったら夢だけで終わってしまうかもしれない」

 「そうか」西崎は幾つかのことばを飲み込みながら「大志はおとうさんとは違って優秀だから応援したいって思うよ、おかあさんには話したのか」

 大志は電話口で迷っていた。「相談したかったんだ、でも」

 「でも、なんだ」

 それは予想していなかった衝撃的なことばだった。「おかあさん、結婚するって言ったから、言えなかったんだ」


 翌日西崎は朝から気持ちをかき乱されていた。昨夜の電話は大きな風だった。大志は仕事を辞めて大学へ行く、淑子は結婚する。どういうこっちゃ、と気持ちが落ち込んでいた。そりゃ離婚したのだからこちらに遠慮することはないし、そうやって報告してくれるだけでもありがたいことなのだろう。でもなぁ、と考えてしまう。大志は夢を持ちそちらへ舵をとり進む、淑子は新しい伴侶を持つ。相手はどんな奴なのだろう。それぞれがショックだが、二人とも自分の人生を前向きに生きようとしている。それに比べて自分は何も変わらない。何よりそれがショックだし、あらためて自分の不甲斐なさを感じていたのだった。今の自分では真面目に仕事を続けてゆくことだけでせいいっぱいだ。

 自転車をこぎこぎマンションへ行く。管理室に入って荷物を置き、作業ノートを見て仕事の準備にかかる。とドアを叩く音がした。「はい」と開けると瑠璃山ルリ子が立っていた。その瞬間西崎は今日の夜ルリヤマタイムスの編集会議があることを思い出したのだった。

 「おはようございます、おおぉぉほっほっほっほっほっ、今夜ですから、いいですね、シーラカンスに六時です」そしてまた、おおぉぉほっほっほっほっほっ、と汽笛笑いを響かせて去って行った。

 落ち込んでいる時になんだっていうんだ、と西崎はため息をつきながら管理室を出た。掃除道具を取りに倉庫へ行こうとして、玄関前に二台の車が縦に並んで停まっているのを見つけた。そこは駐車厳禁で、引越し等の特別な場合を除いて停車のみである。太田の作業ノートにはフロントの門田がよく駐車すると赤字で書いてあったが、これは事情を聴いたうえで場合によっては移動してもらうべきなのだろう。ホールを出て玄関前のピロティに立つと、後ろの車から男が降りてきた。

 「西崎さんですね」と尋ねてから、「こういう者です」と言って、写真のある身分証明書を縦に開いて見せた。男は刑事だった。



 


 


 

 

 

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