第三章
四十四年前、大学三年の夏、西崎は望月久美子と別れた。別れざるをえなかったと西崎自身は思っていた。当時家業の文房具店が傾き、父が失踪、そして一週間後に溺死体となって発見された。遺書はなかったが自殺と判断され、遺体を前にして残された母と途方に暮れるしかなかった。顧みることのなかった文房具店の実状が分かってくるにしたがって呆然としていたのだ。けっこうな額の借金があり、経営は破綻寸前だった。何も知らなかった自分を悔いる余裕はなかった。誰も待ってはくれなかった。生前父が親しくしていた同じ文房部店の仲間たちからの助言もあって家と土地を売った。店に残っていた在庫はその仲間たちが引き取ってくれた。それでも全額返済には至らず、母と西崎が働きながら返していくことになった。西崎は大学を辞め、当時でもオンボロのアパートに引っ越して、そして久美子と別れたのだった。
「あのときはそうするのがいいのだと思っていた」
西崎の瞼にあの頃の日々が甦る。けっしてカッコぶった訳ではなかった。久美子のことを好きだったけれど、それでも何でおれなんだと思っていた。彼女はサークル内だけにとどまらずに大学内外の人気者で誰彼に誘われていた。美人で物怖じしない性格で言いたいことはハッキリ言っていた。
「久美子が重荷でもあったんだな、内気で人の前に出るのが苦手で、思ったことをハッキリ言えないおれには、彼女が信じられない部分もあった、なんでおれなんだって、いつも思っていた」
西崎は冷蔵庫から発泡酒を取りテーブル座ってゆっくり飲んだ。久美子の涙が必然甦ってくる。大学構内の教室だった。他に誰もいなかった。「どうして頼ってくれないの、なんで別れなきゃいけないの、わたしは役にたちたいの、康宏を助けたいの」
西崎は自分が放ったことばを覚えていた。「うまく言えないけど、久美子のこと好きだけど、いっしょにいると気持ちが落ち着くけど、でも、自分がバカに思えてくる、何もできないクズに思えてくる、自分がダメな男だってわかっている、人見知りするし喋れないし、ぐずぐずしているし、だけど今度だけは頑張らなければダメだって思っている、自分で生きていかなければいけないんだった思っている、でも久美子といるとそんな気持ちが萎えてくる、久美子がそばにいると助けてくれるって、そんな気持ちになってしまう、だから」
その後、西崎は教室を出た。その時は彼女は追ってこなかった。退学届けを出していたから帰るだけだった。引越しの準備をしなければならなかった。それでもこのまま去ってゆくのが寂しくてしばらく構内を歩いた。「康宏ぉ」と何人かの友達から呼ばれた。彼らは大学を辞めたことを知らない奴らだった。片手を上げて答えてから、そのまま手を振った。そのあと、本当の別れがあってから、この場所を振り切るように前を向いて、大学を出た。
翌朝、早くから目が覚めていた。今日から一人だという事実が重くのしかかっていた。布団の中で太田が言ったことを反芻していた。昨日の午後からは管理室で引継ぎのノートを見ながら仕事の説明を受けていた。その中で三人の住民についての簡単だが意味深なことばが耳に残っていた。
太田は瑠璃山と背後に控える二人のおっさんをこう説明した。
「瑠璃山さんは正式名称、瑠璃山ルリ子、でも本名は山川和美、どうしてそうなのかはおいおい分かるでしょう、このマンションで事業をしています、背の高い柘植雄一郎さんはこのマンションの管理組合の理事長、他にする人がいないからもう五年続けていますね、ちょっと太めの木村五郎さんは元ヤクザ、でも気さくで話しやすい人じゃある」
西崎は質問しない訳にはいかなかった。「マンションで事業ってどういうことです、この三人はいつもいっしょなんですか、瑠璃山さんが言っていた編集会議ってどういうことです」
太田はそうだなと考えてから「まぁ、おいおいわかるでしょう」
西崎はこれまで仕事が長続きせず、それはたいていの場合人間関係が原因と言ってよくて、なんか癖のありそうなあの三人のことを考えると、このマンションでやっていけるか不安になるのであった。
とはいえまだ二日目だ。昨日は思いもよらぬ事件と再会が重なって仕事の気分じゃなかった。今日からが本当に仕事なんだと考えたが、頼みの太田が来ないという現実に不安は増すばかりだった。
マンションまでは自転車で十五分。前のカゴには手作りの弁当と太田ノートを入れたバッグがある。駐輪場の端に置いて玄関へ回るとホールに立つ瑠璃山ルリ子と目があった。いきなりなんだと思ったが「おはようございます」と挨拶をする。
「おはようございます」瑠璃山ルリ子は完璧な上から目線。
緊張しながら「今日は一人なんですね」
「一人って」
「いや、あの柘植さんとか木村さんとか」
瑠璃山ルリ子は訝し気に西崎を見つめ「いつもいっしょににいる訳じゃありません、それより、あなた、名前知っているのね」
確かに昨日のゴタゴタでまだ自己紹介なんかしてなかった。
「まぁいいでしょう、太田さんからあらかた聞いているんでしょうから」と言ってから「ところで」と続けた。「明日、編集会議を行います、場所はファミレスのシーラカンスです、時間は夕方六時から、わかりましたね」
やっぱり出ないとダメなのか。西崎は「あの」と問うた。「どうしてわたしが」
「だからあなたは重要な参考人だからよ」
被告人から参考人に変わったが、だからって何で編集会議に出なければならないんだ。「わたしが出席しなければならないんですか」
瑠璃山ルリ子はきっぱりと言い放った。「当然です、今回の厄災に関わっている極めて怪しい人物なんですから、絶対に出席してもらいます」
「わたし、昨日初めてこのマンションに来たんですよ、久美子、いや望月久美子さんとも四十四年ぶりに会ったんですよ」
「話は明日聞きますから、ともかく出席してちょうだい、いいですね、わたし忙しいからあなたとのんびり話してられないの、詳しいことは柘植さんか木村さんに聞いてちょうだい、いいですね」そしてキツと睨んでから、おおぉほっほっほっほっほっ、と汽笛みたいな笑いを残して去って行った。
朝っぱらからどういうこっちゃと困惑してホールに入り、カウンターの裏に設置してあるキーボックの暗証番号を回して鍵を取り出す。そのまま管理室のドアを開け、バッグを机に置いた。やれやれと椅子に座り、太田ノートを取り出してめくってみる。一日の作業の始まりは玄関やホールの清掃からである。昨日からのことが頭を巡る。このマンションは一体何なんだとどっと疲れが湧いてくる。それでも「ともかく仕事しなきゃな」と言い聞かせる。やる気なんか失せちまったと思いながら西崎は立ち上がった。
ノートを参考にして午前中で館内と駐車場と駐輪場の清掃を終え昼休みの時間になった。七階の現場にはもう規制線はなく警官もいなかった。やれやれと『昼休み』のプレートをドアに掛け、事務机に座って弁当を取り出す。と、ドアをノックされた。「はい」と立ち上がりドアを開けると柘植雄一郎が立っており、いきなりメモを差し出した。柘植はふっふっふっふっふっと訳のわからない低い笑い声をまるで念仏のように吐き続けた。戸惑いながらメモを受け取ったが次第に意識が遠のき始めて、我に返るともうそこに姿はないのであった。何か恐ろしい体験をしたかのように呼吸が荒くなり、椅子に座って落ち着いてからメモを見ると、本日の清掃場所と書いてあった。十三階の西側階段にハトの糞、駐輪場の右側車列にハンバーガー店の紙袋、などとある。そうだった、柘植雄一郎は理事長だった。太田ノートにも不愉快な笑いを浮かべて清掃場所のメモを持ってくるとある。今回は全部で十二か所になるが、西崎は今日初めて喜々とした安堵を感じることができた。全部清掃済みだったのだ。おれもなかなかやるじゃん。
ラジオのスイッチを入れ、弁当の包みを開けるとまたドアをノックされた。「はい」と立ち上がると「昼休みにすいません」と先にドアを半分開けた北田が顔を入れてきた。
「今月末に定期清掃が入りますので、そのお知らせの紙を持ってきました」
「定期清掃ですか、お知らせの紙ですか」そういえばと西崎は太田ノートの年間スケジュールに定期清掃とあったのを覚えていた。
「昼休みに申し訳ない、説明しますんでちょっといいですか」と手招きされた。管理室を出て、自動ドアをマスターキーで開け、ロビーに入って右手の全戸のメールボックスの並ぶ区域へ行く。そこには掲示板が反対側の壁にあり、住民へのお知らせが今も張り出されている。
「わたしがスケジュールに合わせて掲示物を持ってきますので、館内に三か所ある掲示板に貼ってください、こことエレベーター一号機と二号機の一階乗り場の横に小さめの掲示板がありますから」
「なるほど、ここには年間通しての掲示物があるんですね」西崎は既にある掲示物を眺めているうちに、おや、と目につく二枚の貼り紙を見つけた。
「これはなんですか」
それはルリヤマタイムスとルリヤマ歌劇団と大きく印刷してあり、それぞれに会員募集の文字が続いている。
「ルリヤマってあの瑠璃山さんのことですか」
北田はああそうかと言ってから自分のスマホを取り出してアプリをタップして見せてくれた。「これ、ルリヤマタイムス、わたしも購読しているんですよ、マンションのいろんな情報が掲載されている、西崎さんのこともありますよ」
そこには『容疑者は新人管理人』と題されて、マンションで起こった殺人事件の被疑者として警察に連行された金田久美子さんをかどわかした怪しい人物がいたと書かれていた。にわかに西崎の表情が変わった。
「なんですか、これ、誰がこんなことを」
北田はまぁまぁとにこやかに言って、「ほら後日当管理人を糾弾する場を設けて、尋問する予定と書いてあるじゃないですか、だからそこでちゃんと話せば、またその記事を載せてくれますから」
「尋問てなんですか、ひどいじゃないですか」西崎は憤慨して北田に詰め寄ったが、さっき瑠璃山ルリ子から明日の編集会議に来るようにと言われたことを思い出した。「明日の編集会議って」
「そうそう、わたしも出席しますから、楽しみにしていますよ」
あっけにとられているうちに北田は片手を上げて帰って行った。
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