第二章

 太田が管理室を出て西崎がその後に続いた時、警官や救急隊員たちがどっとホールになだれ込んできた。茫然と立つ二人を尻目に刑事と思われる私服の男が操作盤に番号を打ち、インターフォンで先方と話した。すぐに自動ドアが開き、担架を運ぶ救急隊員たちといっしょに警官や私服の男たちが館内へと入っていった。

 すでにあたりは騒然としていた。ちょうど居合わせた住民たちだけでなく、マンションの前を通勤や通学する人たちも何事かと立ち止まって覗き込んでいた。マンションの玄関やホールには残った警官たちが規制線を張り、要所要所に立ってその場を仕切った。

 ことばもなく成り行きを見ていた西崎は同じように立ったままの太田に話しかけた。「何があったんですかね」

 「さあ、わたしも五年いるけどこんなことは初めてで」

 ただ立って見ているしかないその二人の元に「太田さん」と二人の男が声をかけてきた。西崎にもすぐに片方は北田だとわかったが、もう一人は初めて会う男だ。おそらく管理会社の門田なのだろう。

 その男が言った。「今、警官と話してきました、殺人事件のようですね」

 「殺人ですってっ」太田が叫んだ。西崎も驚きのあまり息を飲んだ。

 「主人を殺しましたって、自首の電話がかかってきたらしいんです」と北田。

 「ということは女性ですか」太田が言った。

 「こうしていても仕方ないんで、西崎さん」と男が言った。

 急に名前を呼ばれて、はい、とあわてた西崎に男は名刺を差し出しながら言った。「門田といいます、このマンションのフロントです、初日から大変なことになりましたが、とりあえず太田さんと仕事に入ってください、ここはわたしたちで対応しますので」

 「わかりました」と答えて迷いながら「頑張りますのでよろしくお願いします」と頭を下げた。

 「太田さん、引継ぎお願いしますね」と言われ、太田は西崎を管理室へ戻ろうと手招きした。

 その時自動ドアが開いた。その場にいた全員が緊張感で包まれた。救急隊員に押されて担架がホールに入り、さらに玄関先の救急車へと運ばれてゆく。担架には覆いがしてあり横たわっている者が誰かはわからない。それでも誰もが凍りついたように動けずひと言も喋らない。次の瞬間きゃあぁぁっと女性の叫び声が響き、「なんで」とか「久美ちゃんどうして」とかの声がホールに充満した。

 二人の刑事に両脇を挟まれ、一人の女性がホールに入ってきた。

 「ちょっと久美ちゃん、あなたなの、なんで、なんでよ」と白髪の女性が規制線をくぐり、前に立ちふさがった。制ししようとした警官を押しのけてさらに二人の男があとに続く。背の高い男が「まさか、金田さん」と言ってその後ろに立ち、「相談に乗るって言ったじゃないか」と小太りな男が横に並ぶ。

 「驚いたなあ」と太田がショックを隠し切れないように呟き、「あの人はわがマンションのマドンナなんだ、若く見えるけど西崎さんあんたと同じくらいの年だよ」

 初日からしかも朝っぱらから、衝撃的な光景に西崎はことばもない。と、その時その女性に懐かしさを感じた。何だろうと思っているうちに、もやもやと立ち上がる感覚が西崎の胸を締めつけた。その女性の顔をよく見ようと思うが、前に立ちはだかる三人のせいでよく見えない。

 「瑠璃山さん、ごめんなさい」久美ちゃんと呼ばれた女性は泣きながら頭を下げている。「柘植さん、木村さんごめんなさい」と頭を下げ、それから」と女性はあたりを見回して「みなさん、ごめんなさい」と頭を下げた。

 「金田さん、わたしは信じてるよ、きっと事情があったんだよね」太田が声をかけた。

 「太田さん」彼女は流れる涙を拭おうともせず太田に頭を下げ、次に顔を上げた時にその目が隣に立つ西崎を捉えた。

 えっ、と西崎の頭の中を風が走り抜け、古びた映像が浮かび上がった。「久美子」と声が出た。そして急速にたどる四十四年前の記憶がズンと大きな音をたてて胸に広がった。

 望月久美子だ、彼女に迷惑をかけたくなくて、泣きじゃくるあいつに背を向けて別れた、望月久美子だ。

 「西崎君」と久美子が言った。

 その場にいる全員が一斉に西崎を見た。その無数の視線に得体のしれない疑惑めいたものを感じ、ちがう、ちがうんだと声にならない口パクで対抗した。

 「もういいですかね」と刑事がその場の空気を切り裂くように言い、そして驚きの表情を浮かべる金田久美子を急かし玄関前に待機していたパトカーに乗せた。

 西崎の目に何度も振り返りこちらを見る彼女の姿が目に焼きついた。衝撃は幾つもの波紋を身体の中に残し、パトカーが行ってしまっても消えそうになかった。

 「ちょっと、あなた」と呼ばれた。さきほど金田久美子が瑠璃山さんと呼んだ女性が目の前に立っていた。

 「あなた、なに、誰」と険しい表情で問うた。

 西崎は「え、いや、わたしは」と太田や北田を見るが彼らも同じ目で見ている。

 「この人は西崎さん、太田さんの代わりに管理人として働いてくれます」門田が紹介した。「太田さんが辞めたいということでずっと募集をかけていたんです、昨日急遽決まって今日から来てもらったんです」

 門田が西崎を見て片手を差し出した。自己紹介しろということなのだろう。西崎はまだ混乱の最中でことばが出てこない。

 「あの、西崎康宏といます、六十五歳です、よろしくお願いします」

 やっとそれだけを言うそばから「そんなことどうでもいいのよ」と瑠璃山が言った。「あなた久美ちゃんとどういう関係なの」

 「そうだ、それが大事なことだ」柘植と呼ばれた背の高い男が言う。

 「おまえ何者なんだ」小太りの木村が後から続く。

 「いや、だから大学の時の」

 「あやしいわぁ、なんでこんな事件の当日に、いいわ」と瑠璃山は背後の二人の男たちを振り返り、「明日編集会議を開きましょう、詳細はあとで連絡します」と言ってから西崎の方を向き直り「当然被告人も出席です」と続けた。

 被告人っ。西崎はなんのことやら訳がわからない。

 「編集会議って、なんなんですか」」

 「くればわかります」素っ気なく言う瑠璃山ルリ子は「いいですね」と念を押している。誰に、とあたりを見回すと、木村が「わかりました」と言い、北田が「明日か」とちょっと渋い顔をつくっている。

 「ちょっといいですか」そこに残っていた刑事が割って入ってきた。まだパトカーは残っていた。鑑識と思われる男たちも出入りしている。事件は終わった訳ではなかった。

 「話を聞かせてください」刑事のひと言が急に場の雰囲気が張り詰めた空気に変えた。関係者の方と言われて、今日から勤める西崎はけっこうですということになった。誰もさっきの久美子との場面を口にしなかった。太田から管理室で待っていてくださいと言われて、西崎はちょっと安堵しながらその場を離れたのだった。


 眼下に広がる街を見下ろして幾分気持ちが落ち着いた。ゴールデンウイークが終わったばかりの五月の空は広く深く輝いて世界を包み込んだ。箒と塵取りを持って最初に連れてこられたのは屋上だった。十四階建てだから高層という訳ではないが、気持ちも晴れる眺望である。

 「いい眺めでしょう、一週間にいっぺんは清掃で来ますから、その時しばらくここで休憩もとるんです、胸の中のもやもやが解消とまではいかないが、多少とも癒される」

 西崎は「スカッとしますね」と返しながらも驚いてこちらを見た久美子の表情が忘れられなかった。四十四年ぶりなのだ。かつての面影が残る顔立ちはいつまでも目から離れない。

 次に太田は下の階へと非常階段を下りながら管理人の仕事を教えてくれた。掃き掃除をしながら、途中天井の隅に白く巣くうクモを取った。階段で見かける鳥の糞はあとでモップ掃除をすると説明を受けた。また駐輪場使用の登録手続きとか専有部分をリフォームする時の手続きの受付や、外部業者に依頼する定期清掃や消防設備点検等の対応、住民からのクレームへの対応等も聞いた。だが返事だけはしっかりとしながらも、事件のことが気になって西崎はどこか上の空だ。途中七階では規制線を張った現場の部屋の前に警官が立っており、鑑識係と思われる数人が出入りしていた。その光景を目にするだけで緊張と先ほどの久美子の表情が交錯し、西崎は逃げるように階段を下りた。

 管理室に戻ってくると太田は棚から一冊のノートを取り、西崎に差し出した。「帰ってからこれを見ておくといいから」

 受け取ってノートを開いて驚いた。それは管理人の仕事を一日と一週間、一か月と一年間に分けてあり、パラパラとめくると、先ほど上の空で聞いて全然覚えていない登録手続きや業者対応、クレーム対応も書いてあった。

 「わあぁぁっ」と思わず叫ぶ。

 「えっ、なんじゃ、どうした」と太田。

 「だってさっきの話全然聞いてなかったんで、ああ、よかったあ、助かります」とノートを掲げて西崎は太田に頭を下げた。

 「いや、わたしがそうだったんだ、引継ぎは三日間あったんだけどね、いろいろ説明されても覚えてないんだ、北田さんに連絡とっても忙しいと言って全然とりあってくれないから、自分で手探りでやっていくしかなくてね」

 西崎は昨日からの北田の様子を思い浮かべて納得する。

 「半年ほどかけてコツコツと書いていたんだ、でも様子を見て出すつもりだったんだ、出す必要のない人もいるだろうし」

 「はあ、わたしを見て、こりゃダメだってことなんですね」

 太田は意味ありげな笑みを浮かべて「まぁ、理由はなんであれ、あんたにはこのノートを出してあげようって思ったんだ」

 西崎はそういうことには慣れていたので素直に「ありがとうございます」と言ってもう一度頭を下げた。

  五時で仕事を終え、アパートに戻ると太田からもらった引継ぎノートを広げた。だが字を追ってはみるものの、頭は久美子のことを考えている。加えて午後から太田から聞いたマンションの住民のやっかいな三人組のことも頭から離れない。管理会社の門田もやっかいな人物のようだ。採用が決まって喜んでばかりはいられない。当然のことだが、その職場にはその職場なりのやっかいなゴタゴタがある。

 


 

 


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