マンションが職場です

小島蔵人

第一章

 「はぁ、職歴、すごいですね」

 眼前の担当者は履歴書を見ながら言った。西崎はいつもの皮肉だと思ったが、彼は「マンションの人って前の仕事を気にする人もいるんですよ」と続けた。パーテーションで区切られた面接の場はにわかに張り詰めた空気が緩んでいった。

 「はい、職種は豊富なんです」用意しておいたことばを力なく放って、西崎はまたダメかと落胆した。何回も転職した履歴は彼についてまわる。

 ところが目の前の男は「本当にそうですね」と笑いながら「それでですね」と話を継いだ。それは仕事の具体的な内容と待遇に及び「いつからこれますか」のことばで終わった。

 西崎はよく話を聞かずに、また派遣に戻ろうかなどど考えていたから「えっ」と顔をあげた。聞き違いかと思い問うた。「いつからこれますか、ですか」

 男と目が合った。「はい、いつからこれますか」

 西崎は信じられない。「それって、どういうことなんですか」と詰問し、「それって、どういうことです」ともう一度言った。

 「い、いや、だから」男はのけぞりながら「できれば明日から来てもらえると助かるな、と」

 西崎はこいつの目は節穴かとその眼前の男を見た。普通だったら十数回も転職した高齢者など雇うはずがない。何か魂胆があるのかもしれない。だがそんな疑いを持ちつつも、夢ではないのかと湧き上がる喜びを抑えることはできなかった。「あ、ありがとうございます」と答え「もちろん明日から行きます」ともつれる舌で言う。いったいどれほどそのことばを待ったことだろう。昨年暮れに派遣の仕事を首になって以来ずっと待ち続けたのだ。「あの、どうしてですか」と聞かずにはいられない。

 男は半ば困惑の表情を見せながら「今の管理人さんが明日までなんですよ、引継ぎしなければならないんで、明日から来てもらえると助かるんです」

 西崎はにわかに不安な気持ちを抱いた。管理人の仕事も引継ぎが必要なのか。一日でできるものなのか。よく考えると心の準備の期間がないではないか。いざ明日からなんて言われると喜びよりもそんなネガティブな部分が湧いてくる。

 「ダメですか」と問う男に向かって西崎は「いえ、行きます、よろしくお願いします」と答えた。

 迷っている場合ではないのだ。不安がっていてもお金は湧いてこない。何度も転職しているから年金少ないのだ。離婚してオンボロアパートに一人暮らしの西崎を助けてくれる奴は少ない。いや西崎とは雲泥の差があるできた息子がいるが迷惑はかけたくない。自分一人で生きてゆかなければならないのだ。「よろしくお願いします」ともう一度言って頭を下げた。

 「よかった、助かります」男は心から安堵したように大きく吐息をついて「これで義理を果たせます」と言った。

 「義理ですか」何のことだと思ったがすぐに「いや、いいんです、こっちのことです」と言うので「何時に来たらいいですか」と聞く。

 「仕事は九時から五時までです、十分前には来てください、わたしも来ますから太田さんを紹介します、さっきも言いましたが太田さんは明日までです、しっかり引継ぎをお願いしますね、管理会社の門田さんも来られるはずです、この方は厳しい方でいろいろ注文をつけられるかと思いますが、まあ自分のペースでいいですので」

 男の話を聞きながら、何はともあれ採用なんだと胸をなでおろした。そして目の前の男の『北田』のネームプレートに初めて親しみを感じていた。

 夜になりこの機会を与えてくれた多田浩介に電話した。彼は二年ほど前まで勤めていた会社の社長である。ゴム印や印鑑、名刺や封筒の軽印刷という超がつきそうな時代遅れの事業で今や倒産寸前の会社である。西崎が解雇となった時、他に従業員は一人もいなくなった。以来細々と彼一人で、主に印鑑の彫刻で頑張って、借金を返済し続けている。

 「決まったんだ、採用になった、もう明日から出勤なんだ」と言うと、彼は素直に喜んでくれた。

 「そうか決まったか、よかったな」それから「ずっと責任感じてたから、これでひと安心だよ」と言った。

 「責任なんて言うなよ、こういう時代だからしょうがないんだ、でもな、ネットの求人なんて見てなかったから言ってくれてよかった、礼言いたかったんだ」

 「そんなこといいさ」

 それから会社の状況を聞いた。いい訳がないとわかっていたが心配だから聞かずにはいられない。相変わらず厳しくて、会社を存続させるのでせいいっぱいと多田浩介は話した。売り上げの九割は印鑑の彫刻であって、それはほとんどネットでの販売だということだ。ただ少しずつ海外からの注文が増えていて、それだけが唯一の希望だとも語った。そして最近融資を申し出てくれた人がいて、それで借金がなんとかなりそうだとつけ加えた。

 「融資だって」西崎は正直ちょっと変に思ったが、深く聞くのはやめた。なんにしろ、多田浩介がそれで助かっているのだ。それでいいじゃないか。

 「今度飲みに行くか」と誘いのことばに乗り「また連絡するよ」で電話を切った。  

 その後ちょっと迷ったが西崎は息子の大志にも連絡した。迷ったのは一週間勤めてみてからの方がいいのでは、とそんな考えが頭をよぎったのだ。これまでネガティブな思考が先立ってしまう自分がどれだけ家族に迷惑をかけたことか。こんな親だから世間並みに塾にも行かせてやれなかったし、家族旅行なんて夢の話だった。ずいぶんと寂しい思いをさせてきたが、それでも彼は成績は学年のトップクラスだった。高校は県でも有数の受験校へ進学したのだが大学へは行かなかった。うちに金がないのがわかっていたから、市役所職員の試験を受けて働く道を選択した。今はワンルームマンションを借りて自立している。時折、西崎のアパートを訪ねては小遣いをくれる。なんとも彼には頭が上がらないのだ。

 「やあ、今いいかい、もしかして結衣ちゃんといっしょかな」

 「今いるよ、でもかまわないよ」

 「やっと仕事決まったから、大志を安心させなきゃと思ってな」

 「そうなんだ、よかった、何の仕事」

 西崎はマンションの管理人だと伝え、面接で北田が言った仕事の内容をそのまま話した。

 「いいじゃん、お祝いしなきゃね」

 どっちが親なんだと笑いながら、今度うちに飲みに来いと言って電話を切った。ダメな父親だけど、それでも息子には幸せになってもらいたいと願っている。自分にできることは大志の人生の邪魔にならないことだと思っていた。親子である以上無理かもしれないが、なるべくそうしてゆきたいと心掛けているつもりだった。「だけど、あいつ、いい奴なんだよな」スマホを見つめながら呟いた。

 それから冷蔵庫から発泡酒を出してキッチンのテーブルに座り、一人で乾杯をした。

  

 翌日、落ち着かなくて西崎がアパートを出たのは八時を十分ほど回った頃で、三十分前にはマンションに着いてしまった。管理人用の駐車場はないと北田から言われていたが、もとより西崎の自家用は自転車である。車なんてたいそうなものは派遣を首になってから処分した。税金やら車検やらに金をかける余裕はなかった。

 駐輪場に置いて正面玄関に来ると、白髪混じりの男が箒と塵取りを持ってエントランスを掃いていた。すぐにこの人が太田さんだと察したが、マンションから出てくる住民たちに「おはようございます」と声をかけ、ちょっと立ち話をし、「行ってらっしゃい」と頭を下げる姿に気後れした。

 どうしたものかと緊張して声をかけるタイミングを逸していつうちに太田と目があってしまった。

 「やあ、西崎さんですか、早いですね」親しげに寄ってくる太田にあわてて「おはようございます、西崎です、今日からお世話になります、よろしくお願いします」と頭を下げた。

 「いやぁこちらこそよろしくお願いします、と言っても、今日一日だけですけどね」とちょっとおどけてから「管理室に入りましょう、どうぞこちらへ」と太田は歩いてゆく。あわてて後に従いながら、感じのよさそうな人だと安堵した。

 管理室は玄関を入ってホール正面にカウンターがあって、そのすぐ横にあるドアから入る。三畳ほどと思われる広さで、右側に事務机があってすぐ横にカギ保管箱とのシールを貼ったケース、脇の棚にはラジオや電気ポットインスタントコーヒーの瓶にカップそれに雑誌があり、左手の壁側には火災報知器、防犯カメラのモニター、給排水の警報器等が並ぶ。

 だから二人入ると狭く感じるのは仕方ないのか。

 太田は事務机の椅子に座り、西崎には折り畳みの椅子をどうぞと差し出した。

 「明日からは西崎さんがここに座ってください」

 西崎はデイバックを下ろして座り、「案外狭いんですねぇ」

 「いや、他では広い管理室もあるんですよ、うちは狭くてね」

 聞きたいことは山ほどあった。「いつもこんなに早いんですか、北田さんからは十分前でいいって聞いていたんですが」

 「ああ、それでいいですよ、今日は最後かと思うとちょっと感慨深いものがあって」

 「実はわたし、けっこういろんな仕事しているんですが管理人なんて初めてで、ちょっと不安なんですが」

 どこからともなくピーポーピーポーと音が聞こえてくる。

 太田は「わたしも不安でしたよ」と言ってから話を続けた。「だって職場の同僚なんていないんですよ、北田さんがたまに顔を出すけど、あの人は相談なんてのってくれないし、周りはいわばマンションの住民ばかり、わたしにとってはお客様みたいなもんですから」

 西崎は確かにと不安になる。

 太田が「それからですね」と話を続けようとした時、ピーポーピーポーの音が大きくなってきた。よく聞くとウーウーの音も混じっているようだ。

 「なんですかね、サイレン」

 「朝っぱらからなんですかね、あれはパトカーですか、いや救急車かな」

 西崎も「そうですね」と応じたが、太田が話を続けて「管理会社のフロントは門田さんていう人なんですが、この人がまた」と言っているうちにサイレンの音はどんどん大きくなってきた。

 「まさか、うち」と太田が立ち上がった。西崎も立ち上がってドアを開けた。二人でホールの先の玄関を見たその時にはパトカーと救急車が入ってきた。パトカーはさらに二台が入ってきた。

 「なんじゃこりゃ」と太田が叫び走り出た。西崎も後を追った。

 


 

 

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