第7話 医療部の衝撃
<マーズ・ワン>のリンシン・ウー医療部長は、月のウィルス専門の
学者であるディートリッヒ・ヘルマン博士の動画通信を見終わった。
まず気持ちを落ち着けるために、コーヒーを口に運ぼうとしたが、
リンシン・ウーは手が震えて、うまく口に運ぶことができなかった。
ヘルマン博士の最後の言葉が頭に残っている。
『大至急、その遺体や採取したウィルスを焼却処分して、
検査器具なども隔離ケースにしまって封印すべきだ』
ディートリッヒ・ヘルマン博士によると、すでにこのウィルスに関しては
数か月前にザハリアス・アンドロニコスというトロヤ・イーストに住む医師
から、この未知のウィルスに関する問い合わせがす来ていたとのことだった。
ザハリアス・アンドロニコス医師は、あの『やわらかい棺』に入っていた
女性……アレクシア・アンドロニクの夫である。
—— ザハリアス医師はパンドラの箱を開けてしまったということ? ——
【動画通信で説明された経緯】
・アンドロニコス医師は、トロヤ・イーストの小惑星エルドラドで発見
された、作業員の遺体からウィルスを発見したらしい。
作業員の遺体が冷え切っていたことで、ウィルスは不活性状態となって
いたが、高性能電子顕微鏡などで入念に調べた結果、新種のウィルスでは
ないかと、月に住むヘルマン博士に確認の依頼があったらしい。
・ヘルマン博士の調査には時間がかかったが、最近、その結果が判明した
ことをアンドロニコス医師に伝え、危険性を学会に発表しようとしたが、
肝心のアンドロニコス医師と連絡が取れずに困っていたところに、
火星から問い合わせが来たということだった。
【ヘルマン博士の見解】
ヘルマン博士が送られてきたデータから判断し、ノンエンベロープ
タイプのウィルスを起源とし、宇宙型飛沫感染や、潜伏感染を
繰り返して、かなり変異した宇宙型の新種のウィルスと判断した。
シミュレーションで分かったことは、毒性が極めて高く、空気感染を
するので感染力も高い。そのうえ消毒液や熱などへの耐性も強い
という、極めて危険なウィルスだ。
***
宇宙型飛沫感染とは、地球では飛沫感染しかしない…と考えられていた
ウィルス病であっても、人体からでた唾などの飛沫が、無重力もしくは
低重力環境によって、長時間空中を浮遊しやすくなることで、
あたかも空気感染のように、感染力が高まる感染形態である。
宇宙移住初期に、地球から宇宙に進出した人類は、まだ疑似重力を発生
しないタイプの宇宙ステーションで、大人数が長期滞在をし、その閉鎖空間
に漂い続けるウィルスに次々に感染するという、宇宙型飛沫感染による
宇宙ステーション内パンデミックを何回も経験している。
そのように、地球ではある程度抑え込みに成功していたウィルス病の、
いくつかが、宇宙で再び脅威となった時期が何世紀も前に有った。
また宇宙移住初期は、宇宙での放射線を防ぐ技術も進んでおらず、
被ばくによる健康被害もかなり問題化していた。そして、その被ばくは
人々の体内に潜むウィルスにも作用をしていた。
パンデミックが起きるたびに、ウィルスは少しずつ変異種を産み
宇宙型の新種ウィルス誕生という結果となった。
いくつかのウィルスは、感染してもほとんど発症をせず、人間の体内に
宿り続けることが知られているが、体内で増殖したウィルスは、同じ空間
に住む他の人間に気が付かないうちに感染する。
これが潜伏感染だ。ステルス感染ともいう。
そのようにステルス感染を、繰り返すウィルス群は、体調を
大きく崩すような毒性が無いうちは、ほとんど調べられることもなく感染を
繰り返し、徐々に変異しながら、何世紀も宇宙移住した人類とともに
太陽系の各所に広がっている。
***
ヘルマン博士は、そのようなステルス感染を繰り返した宇宙型の
新種のウィルスが、いつかは変異によって強い毒性を持ち、未知の症状を
引き起こすかもしれないというリスクが有ると、以前から考えていた。
よってザハリアス・アンドロニコス医師からのデータを見て、
直観的に、これは危険なウィルスが目を覚ましつつあると思った。
【ヘルマン博士のシミュレーション】
ヘルマン博士は、アンドロニコス医師の送って来たデータから、
仮想空間にウィルスモデルを作成し、感染シミュレーションを繰り返した。
その結果、恐れていた通り、想像を超える凶悪なウィルスであることが
分かって来たのだ。
・人間の体内に入り体温による増殖しやすい環境下では、驚異的な速度で
周囲の細胞に広がり増殖をする。
・飛沫感染や空気感染をして、感染力も極めて高い。
・かなりの医薬品に耐性が有り、簡単な消毒での効果はあまりない。
・そして、最も驚くのが、熱に対しても極めて高い耐性があり、
熱湯の中でも休眠状態となり、無毒化できない可能性があること。
良く行われる煮沸消毒も、完全に消毒しきれないおそれが有った。
シミュレーションの結果は、人類が經驗したことの無い、最悪の
パンデミックを引き起こしかねないウィルスということを示していた。
このウィルスを無毒化する有効な手段は、今の所、完全焼却しかない。
流石に、強靭なカプシドで覆われたノンエンベロープウィルスであっても、
そのタンパク質の殻を焼却すれば、無毒化できる。
***
リンシン・ウー医療部長は指令本部基地にいるセルゲイ・ベレゾフスキー
本部長に相談したうえで、遺体やウィルスサンプルを隔離室内で焼却処分
することを決めた。
この時点では敢えて、ガルシア副司令官には報告しなかった。
副司令官は自分の功績をアピールするために、ウィルスをもっと入念に
調べるようにと、焼却処分に反対するかもしれないことは想像できたし、
ここ火星には、感染症に関する知識も装備も不足している。
これは、医療の素人が下せる判断ではないと、本部長もヘルマン博士の
アドバイス通り、大至急、手をうつことに賛成したからである。
—— これで、わたし解任されるのが確定ね ——
リンシン・ウー医療部長は隔離部屋の全スタッフに、遺体やウィルス
サンプルを隔離部屋内で焼却処分するように指示を出した。
さらに医療器具類も焼却できるものは焼却し、燃えない金属類の器具
は小型焼却炉の中へ放り込み、数百度以上に熱した後、隔離ケースに
収めるよう指示する。
隔離部屋内の作業者には防護服ごと液体窒素を浴びて防護服をマイナス
百数十度にし、万が一ウィルスが付着していても不活性化するように処置
してから、隔離準備室で脱ぐように指示した。
防護服は使い捨てなので準備室にある焼却炉で焼却する。
そして全員退去後は隔離部屋内全体を数百度まで上げる緊急処置を行う。
これによって、隔離部屋の装置類のほとんどは使えなくなるが火星に未曽有
のパンデミックをもたらすよりはいい。
全ての処置を終えたのち、事後報告するためにアルバート・ヘインズ
司令官と、ジェローム・ガルシア副司令官にオンライン会議を申し入れた。
***
ガルシア副司令官は、リンシン・ウー医療部長が自分に断りもなく、
隔離部屋での調査を中止して、遺体もウィルスサンプルもすべて焼却した
ことに対し、最初は憤慨していた。
しかし、ヘインズ司令官と一緒のオンライン会議で、わめき散らすのは
控え、ヘルマン博士の動画通信をよくよく解説してもらううちに、
少し考えが変化した。
—— 確かに<マーズ・ワン>の中でパンデミックを起こすわけには
いかない。しかも、もうすぐSG幹部連中が大勢ここに来るのだ。
そんな大失態をしたら<テラ>の居所のヒントを掴んだ功績など
吹っ飛んでしまう ——
副司令官は、ウィルスの危険性をいち早く察知し、隔離部屋を封鎖
したということを、どうアピールできるのかを少し考えることにした。
***
アルバート・ヘインズ司令官は、火星にもうすぐ到着するSG幹部達に
本件を報告するための分かり易い説明を作成するように、ウー医療部長に
依頼し、オンライン会議を終了してから、ふと気が付いた。
女性の身元は判明し、死因も分かったが、全ての謎が解けたわけではない。
—— そう。アンドロニコス医師はなぜ、妻の遺体を
宇宙ステーション内の焼却炉で焼却することなく
あの『やわらかな棺』で宇宙葬にしたのかは疑問だ ——
SG幹部への報告には、その疑問が残されたこともいれるべきだと考えた。
次回エピソード>「第8話 新入隊員の到着」へ続く
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