第六章 倒れた義姉さんと酔っ払いの因縁(1)

「ああ、今回も疲れた……わ、ね……」


 言葉の途中で頭を押さえた義姉さんが傍のテーブルに倒れ込むようにもたれかかったのは、昼の営業時間が終了した直後のことだった。そのまま足がふにゃふにゃになってしまったかのように、床にくずおれる。


「義姉さん!? 大丈夫!?」


 あたしは慌てて義姉さんに走り寄って、義姉さんの脇に膝をついた。シアも駆け寄ってくる。


「だ、大丈夫よ。ちょっと立ちくらみがしただけ……」


 義姉さんは気丈にそう言うけど、顔色が悪い。


「すみません。ちょっといいですか?」


 あたし同様義姉さんの脇に膝をついたシアが、義姉さんの額に手を当てる。


「体温が高すぎたり低すぎたりはしませんね」


 シアの言葉に少しほっとする。


「じゃ、じゃあそんなに大した病気じゃないよね?」


「多分疲労が溜まっていただけだと思うけれど……セイーリンさんは妊娠中ですから、万が一のことがあるといけないので、念のため医師に診てもらった方が良いと思います」


「そこまでしなくても大丈夫ですよ。ちょっと休めば良くなりますから……」


 相変わらず具合悪そうな義姉さんが言う。あたしが反論しようと口を開いたところで、厨房から兄さんが出てきた。


「どうしたんだ? なんか騒がしいけど……セイーリン!?」


 兄さんは駆け寄ってきて、義姉さんの前に膝をついた。


「どうした? 気分悪いのか!?」


「急にふらついて座り込んじゃったの。立ちくらみがしたんだって。シアは、赤ちゃんのこともあるし、念のためお医者さんに診てもらった方がいいって」


 あたしの説明に、兄さんがうなずいて立ち上がった。


「すぐにリーナス先生を呼んでくる」


「待ってよ、フュリド。大げさだって。本当に一瞬くらっとしただけなのよ。そこまでしなくても――」


「馬鹿野郎!」


 言い募る義姉さんを遮って、兄さんが叫んだ。


「病人は黙っておとなしくしてろ! おまえ一人の体じゃないんだぞ! 俺は……俺はまた子どもを……家族を失うなんてごめんだからな!」


 固く握った拳を震わせながらそう叫んだ兄さんに、義姉さんがはっと息を吞んだ。


「フュリドの言うとおりだ」


 厨房の方から声が響く。いつの間にか厨房から出てきていた父さんが、重々しい声で言った。


「万が一のことがあったら困る。医者に診てもらえ、セイーリン」


「……そう、そうですね……。ごめんなさい。お医者さんをお願い、フュリド」


 兄さんは一度顔をこすってからうなずいた。


「すぐ戻る」


 言って、前掛けも外さないまま、駆け足で食堂から出ていく。


 シアが義姉さんの顔をのぞき込んで口を開いた。


「セイーリンさん、部屋まで運びます。体が浮きますけど、絶対に落としませんから、緊張しないで体の力を抜いていてください」


「わ、わかりました」


 ごくりと唾を吞んで義姉さんがうなずく。次の瞬間、義姉さんの体がふわりと浮き上がった。


「きゃっ」


 義姉さんが小さく悲鳴を上げる。その手が反射的に、護るようにおなかを押さえた。


「動かします。いいですか?」


 シアの確認に、義姉さんは怖々といった様子でうなずいた。


「は、はい。お願いします」


「ルリ、セイーリンさんの寝室まで案内をお願い」


「あ、うん。こっちだよ」


 あたしが歩き出すと、義姉さんの体がすうっと宙を滑ってついてくる。


 義姉さんは、やっぱりいくらか緊張しているようで、顔が強張っているし、体にも力が入ってるみたいだ。まあ、風属性じゃない義姉さんには、宙に浮かんだ経験なんてないだろうしね。初めてのことだろうから、怖くても無理はない。


 シアもそれをわかっているんだろう、急がずゆっくりと義姉さんを運んでいる。


 食堂から宿屋部分、住居部分と移動して、二階に上り、兄さんと義姉さんの部屋に入る。あたしが寝台の上掛けをまくると、シアが義姉さんをそっと寝台の上に下ろした。

 ほーっと息を吐いている義姉さんの靴を脱がせて、その体を上掛けで覆った。


「義姉さん、なんか欲しい物はない?」


「それじゃ、水を一杯貰える?」


「わかった」


 歩き出そうとしたあたしを、シアが手を軽く上げて止めた。


「わたしが持ってくるわ。ルリはセイーリンさんについていてあげて」


「うん。じゃあ、お願い」


 ここはシアに頼っておくことにする。


 シアが部屋から出ていくと、あたしはじっと義姉さんを観察した。具合はどうか訊きたいけど、義姉さんは大丈夫じゃなくても大丈夫って言いそうだし、あんまり喋らせるのも良くないだろう。

 だから、義姉さんの調子が悪化した時のために、その変化を見逃さないよう注意しておくことにする。


 寝台に横たわって目を閉じている義姉さんの顔色は、相変わらず良くない。象牙色の肌が、今は真っ白だ。義姉さんのふっくらした頬が、思わずやつれて見えてしまう。


 少しでも義姉さんを楽にしてあげたくて、部屋の気温をいくらか下げる。下げすぎて風邪を引かせてもいけないから、そこは注意する。


 義姉さんの顔に視線を戻して、あたしは胸の前でぎゅっと手を握った。怪我と違って病気には回復魔法は効かないから、あたしにできることなんて、たったこれだけだ。それがひどくもどかしい。


 早くお医者さん来ないかな、と思っていると、コンコン、と扉を叩く音がした。


「入って」


 声をかけると、コップを持ったシアが入ってくる。


「セイーリンさん、お水です」


「ああ、ありがとうございます」


 目を開けた義姉さんが上半身を起こす。あたしは素早く義姉さんの脇に寄って、その体を支えた。


 義姉さんは水を少しずつ飲んだ。半分ほど飲み終えたところで、寝台脇の小箪笥の上にコップを置く。ふう、と息を吐いた義姉さんがもう一度横になるのを、あたしは助けた。


 義姉さんから手を離して、少し離れて、シアと一緒にそのまま義姉さんを見守る。


 しばらくして、誰かが近づいてくる足音がしたかと思うと、ガチャッと扉が開いた。


「セイーリンは!?」


 兄さんが部屋に飛び込んでくる。その後ろから、診察鞄を持った壮年の男性も入ってきた。町医者のリーナス先生だ。


「フュリド、リーナス先生」


 義姉さんが目を開けて起き上がる。あたしより早く兄さんが義姉さんの隣に座ってその体を支える。


「やあ、セイーリン。立ちくらみを起こしたんだって? 少し診察させてもらうよ。楽にしていてくれ」


 リーナス先生は、人をほっとさせるいつもの穏和な笑顔を浮かべて、聴診器を鞄から取り出した。そして義姉さんの診察を始める。呼吸音や心音を聞いて、脈を測って、額に手を当てて体温を調べて、専用の道具で赤ん坊の心音も聞いて、うなずいた。


「大丈夫。心配はいらないだろう。疲労が溜まってただけだと思うよ。赤ん坊も問題なさそうだ」


 最後の言葉に、兄さんと義姉さんがほっと息を吐く。


「今日と、明日くらいまではゆっくり休みなさい。大したことじゃなかったからって無理をしちゃだめだぞ」リーナス先生は義姉さんの顔の前で指を振った。「自分のためじゃなかったら、赤ん坊のためだと思って、とにかくしっかり休息を取るように」


「……はい」


 義姉さんは少し不満そうながらも、おとなしくうなずいた。「赤ん坊のため」という言葉が効いたんだろう。


「何か訊いておきたいことはあるかな?」リーナス先生はぐるりとあたしたちを見回した。「ないなら、僕はこれで失礼するよ。大丈夫だとは思うけど、もし体調が悪化したらまた呼んでくれ」


 リーナス先生が立ち上がる。兄さんもそっと義姉さんの体を横たえてから、後に続いて部屋を出ていった。診察代を払って見送りするためだ。


 横になった義姉さんは、そのまま目を閉じるかと思ったけど、そうはせずあたしとシアに目を向けた。


「あたしが休むとなると、リューリアとルチルさんには負担をかけちゃうことになりますね。申し訳ないわ」


「そんなこと気にしないで、義姉さん。あたしたちは大丈夫だから、心配せずに休んでて。ね、シア」


 あたしはシアの方を見た。シアも義姉さんを安心させるように微笑む。


「ルリの……リューリアの言うとおりです。家事や食堂の方はわたしたちに任せて、セイーリンさんはゆっくりしていてください」


「そうそう。言ったでしょ。シアの助言で身体強化の魔法使ったら、段違いに疲労が減ったんだって。これまでの倍は動けるから、義姉さんが抜けた穴を埋めるくらい楽勝だよ」


 あたしは、意識して明るく言った。


 あたしは昨日の夜から、シアに教えてもらったとおり、仕事中身体強化の魔法を使っている。そのおかげではっきりとわかるくらい疲労が減った。腕力が強くなっているので力加減には注意しないといけないけど、営業時間終了間際の、いつもならくたくたになっている時間になっても体がすいすいと動いて、本当に助かっている。

 だから、義姉さんがいなくても大丈夫なはずだ。


「そうだといいんだけど……」


 義姉さんはまだ心配そうだ。


「そんなに心配なら、しっかり休んで、早く体調戻して復帰してよ。その方が結果的にあたしやシアも楽になるし」


 そう言うと、義姉さんは苦笑した。


「確かにそのとおりね。わかったわ。今はあんたたちを信じて、あたしは休むことに専念する」


「そう、それがいいよ」


 ほっとして義姉さんに笑いかけたところで、兄さんが戻ってきた。ラピスを横に連れている。


 ラピスは部屋に入るなり寝台に駆け寄った。


「母ちゃん、大丈夫か!?」


「ラピス、あんたも聞いちゃったの」


 ラピスの背後で、兄さんが、悪い、と言うように自分の額をとんとんと叩いた。


「リーナス先生が帰るとこ見たんだ! それで父ちゃんに訊いたら、母ちゃんが具合悪くなったって!」


「大したことじゃなかったってのも言っただろ。母ちゃんも、おなかの赤ん坊も大丈夫だよ」


 兄さんが、ラピスの頭をくしゃくしゃとなでる。


 義姉さんも体を起こして、ラピスの頬をぽんぽんと叩いた。


「父ちゃんの言うとおりよ。あたしたちは大丈夫。リーナス先生には、念のため診てもらっただけなの。すぐ良くなるから、心配しなくていいからね」


「うん……」


 ラピスは安心したような、それでもまだちょっと不安そうな顔で、義姉さんの手を握りしめた。


 義姉さんとラピスが話している間に、兄さんは寝台の反対側に回って、空いている部分に座り、義姉さんを自分の体にもたれさせている。

 義姉さんは兄さんに体重を預けて、ラピスとの話が一段落すると兄さんに微笑みかけた。


「あー、セイーリン。さっきのことなんだけどよ……その、怒鳴っちまって悪かったな。つい感情が昂っちまって……」


 兄さんが気まずそうに頭をかく。


「いいのよ。あたしも強情なこと言って悪かったし」


「……おまえにも赤ん坊にも大したことがなくて良かったよ。ゆっくり休んでくれよな」


 義姉さんの頬に手を当てて兄さんが言う。義姉さんは微笑んで、兄さんの手に自分の手を添えた。


「そうするわ。リューリアにもルチルさんにも言われたし」


 あー……あたしたち、もしかしなくてもお邪魔だよね。退散した方がいいよね。


「それじゃ、あたしたちは食堂に戻ろっか、シア。ラピスもおいで。義姉さんを休ませてあげないと」


 ラピスは、義姉さんから離れるのは嫌だ、と駄々をこねるかもしれないと思ったし、実際にちょっとそんな顔で口を開いたけど、結局何も言わずに口を閉じて、ぎゅっと眉を寄せた。少しして、うなずく。


「……わかった。母ちゃん、早く元気になってな。俺いい子にしてるから!」


「わかってるわ。ラピスはいつもどおりにしていてくれたらいいのよ」


「うん……」


 しぶしぶ義姉さんの手を離したラピスの肩を抱いて、あたしはシアと一緒に部屋を出た。


 閉まった扉を、ラピスが未練がましく見ている。かわいそうだけど、ラピスが傍にいたら、義姉さん、大丈夫なふりしちゃってちゃんと休めなさそうだからね。それで体調が悪化でもしたら困る。ラピスだってそんなことは望んでないだろうし。


「そうだ。シア、一つ頼み事していい?」


 あたしは名案を思いついてシアの方に振り返った。シアが首を傾ける。


「もちろんよ。どんなこと?」


「ラピスの魔術の訓練、また見てあげてほしいの。食堂の仕事と家事は、あたしがやっておくから」


 ラピスには、何かやることを与えて義姉さんの体調から気をそらさせた方がいいだろう。それがシアと一緒にやれることなら、シアのこと大好きなラピスは喜んで、義姉さんのことが心配で沈んでいる気分もましになるだろうし。


 そういうことが、言わなくても伝わったんだろう、シアは微笑んでうなずいた。


「わかったわ。ラピスくんのことは任せて。――それじゃ、ラピスくん、庭に行きましょうか」


「うん!」


 大きくうなずいたラピスの顔は、目論見どおりさっきよりずっと明るくなっている。良かった。これでラピスはひとまず大丈夫だろう。


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