第四章 増えたお客と魔術の訓練(1)

 次の日の朝、お風呂屋から帰ってきたあたしは自室で、二つのガラス瓶を前に悩んでいた。


「うーん、どっちだろう……」


 起床後すぐに香水をつけてもお風呂屋に行けば落ちちゃうから、お風呂屋から帰ってきてからつけようって思って、早くつけたくてそわそわしつつも我慢していた。そして、ようやく香水をつけられる時が来たんだけど……そこで初めて難題に気づいた。


 シアとおそろいの香りが二つあるってことは、つけてもシアと同じ香りになるとは限らないってことだよね。あたしはキャルメの花の香水をつけてるのに、シアはシャリエの実の香水をつけてる、なんてこともありえる。

 それでも嬉しくはあるけど、シアと同じ香りを身につけたい、っていう希望はかなわない。


 希望をかなえるためには、シアが今日どっちの香水を身につけるかを当てなくちゃいけない。いつものキャルメの花の香水か、買ったばかりのシャリエの実の香水か……。シアだったら、どっちを選ぶかな?


 あたしはもうしばらく悩んでから、大きい方のガラス瓶――シャリエの実の香水を手に取った。


 新しい物を買ったら使いたいのが人情だよね。シアは、好きな食べ物を最後まで取っておくんじゃなく、先に食べちゃいたい人だし。もっともそれは、きょうだいが多くて残しておいたら取られちゃいかねないから、ってのが大きいらしいけど。

 まあ、何にせよ、シアは買ったばかりの香水をすぐに使いたがるんじゃないかな、っていうのがあたしの推測。


 それに、シアがあたしのことを考えて選んでくれた香りを身につけてみたいっていうのもある。こっちだったら、推測が外れても、まあいいやって思えると思うんだ。


 ガラス瓶の蓋を取って、仕事の邪魔にならないようにほんのちょっとだけ、手首に香水をつける。


「シア、気づいてくれるかな? ……ほんのかすかにしか香らないから、無理かな? どう思う?」


 寝台脇の小箪笥の上に並んでいる木彫りの生き物たちに話しかける。育ての親のヨルダ父様が作ってくれた物だ。木工職人のヨルダ父様は木彫りが得意で、生き物たちはどれも本物と見まごうばかりの出来。


 ヨルダ父様は作った物を人にあげるのが好きで、何かといえばくれたから、一緒に過ごした十年間で貰った木彫りの数は相当なものになる。クラディムに帰ってくる時、かさばるけど、全部持って帰ってきた。ここに並んでいるのは一部だけだ。残りは布袋につめ込んで、服箪笥の底にしまってある。


 そろそろ顔ぶれを変えてもいいかなー、と思いながら木彫りの列を整えて、背を伸ばし、服装を整える。


 今日の服装は、濃い青のブラウスと薄茶のスカートだ。濃い青は瑠璃の首飾りの色だから、あたしのお気に入りの色。その色の服も複数持ってる。だから昨日や一昨日ほどおしゃれしてる感じはしないんだけど、この色の服は子どもの時から好きでよく着てたから、懐かしくなってこれを選んだ。

 昨夜シアと色々思い出話した影響かもしれない。シアも、懐かしいって思ってくれてるかな?


 ちなみに、薄茶のスカートは、シアが昨日、一昨日着ていた物と似た色あいで、シアが今日もあのスカートを着ていたらおそろいに見えるかなって思って選んだ。残念ながら、シアは今日は水色のスカートだったから、おそろいにはならなかったんだけど。


 だからせめて、香水はおそろいになるといいなあ。……と、思考はまたそこに戻る。


 両手の人差し指を立てて胸の前で交差させる、神々への願掛けのしぐさをしながら、自室を出る。


 幸運の男神アッファテート、美の女神エルウィンクル、どうかお願いします。シアもシャリエの実の香水をつけてますように!


 祈りながら一階に下りて、食堂に向かう。食堂に入ると、兄さんが皿をいくつも乗せた盆を持って厨房から出てきたところだった。


「よう、上で何やってたんだ? もう少し遅かったら呼びに行くところだったぞ」


「ちょっとね。今日のお昼は何?」


「昨日おまえとラピスとルチルさんが採ってきた山菜を使って、山菜入り細麺だ」


「おいしそう。季節の料理って感じでいいね」


 喋りながら手分けして皿をテーブルに並べる。テーブルに座っているシアと義姉さんも手伝ってくれた。同じくテーブルに座っているラピスは、自分の前に置かれた皿に入っている山菜をフォークで突っついている。


「これ、俺が採ったやつ?」


「どうだろ? あたしかシアが採ったやつかも」


「俺、自分で採ったやつがいい!」


「昨日帰ってきて父さんたちに渡した時点でごちゃ混ぜになってるから、見分けるのは無理でしょ。無茶言わないの」


 あたしは腰に手を当てて言った。義姉さんが笑いながら、ラピスの頭をなでる。


「そんなに自分の採った山菜が食べたいんなら、次からは分けておくといいわ。それで、父ちゃんとおじいちゃんに、自分の分はこれで作って、って言うの」


「うー、そうする……」


 ラピスは頬を半分ふくらませながらも、うなずいた。


 父さんが自分の分と兄さんの分のコップを持って厨房から出てきて、皆でテーブルを囲んで食事を始めた。


「俺の採った山菜おいしい? ねえ、おいしい?」


 きらきらした目でテーブルを見回すラピスに、皆笑顔でうなずいて、口々に、おいしい、と返事をする。


 あたしもそう言いつつ、意識の半分は横に座るシアに向いていた。隣だけど、くっついてるわけじゃないから、シアのにおいはよくわからない。今日はシアも、仕事に支障が出ないよう香水は控えめにしてるだろうし。


 ……あ! もしかして、シア、仕事のこと考えて香水つけてないってこともありえる!?


 あたしは急いで記憶を手繰り寄せた。一昨日、仕事中に、シアから香水の香りしたっけ?


 どれだけ考えても思い出せない。三日前と昨日甘いにおいがしたのは確かなんだけど、一昨日は気づかなかった。

 ……てことは、シアは仕事を手伝ってくれる時は香水つけてない可能性高いってこと? ……うう、それは考えてなかった……。


 落ち込みながらも、手は動かして食事を続ける。でも、せっかくの山菜料理なのに、あんまり味がわからなかった。


 だけど、おなかがふくれたせいか、食事を終える頃には気分が回復していた。おそろいの香水をつける機会はまたあるよね。次の休日の時とか。

 勇気を出せたら、おそろいになるよう祈ってるんじゃなくて、おそろいで香水つけよう、ってシアに言ってみてもいい。


 そう考えながら、開店準備で食堂内のテーブルや椅子を整えていると、シアが歩み寄ってきた。


「ルリ、ちょっといい?」


「いいよ。どうしたの?」


 シアの方に向き直ると、すっと身を寄せられて、ドキッとする。


「な、何?」


「ルリ、今日、シャリエの実の香水つけている?」


「え……う、うん。つけてるけど……」


「わたしもなのよ。わかる?」


「えっ、ほんと?」


「ええ。ほら」


 シアが自分の手首をあたしの顔の前にかざした。嗅いでみると、本当にシャリエの実の香りがする。


「ほんとだ……」


 うわあ。やったーあ。シアとおそろいの香りだー。ありがとうございます、アッファテート、エルウィンクル!


 あたしが心の中で神々に感謝を捧げていると、シアが手首を引いて笑った。


「ふふ、おそろいね」


 あんまり嬉しそうに、かわいらしく笑うものだから、顔が沸騰して、あたしはばっと目をそらしてしまった。


 な、何今の笑顔。殺人的。ううう、シアの笑顔直視できるようになったと思ったのにいー。一進一退だなあ。


「リューリア、もうそろそろお店開けないと。急いで」


 義姉さんの声に、我に返る。


「う、うん、わかってる」


 急いでテーブルと椅子を整える作業に戻る。


「わたしはあっちを整えてくるわね」


 シアが言って食堂の反対側に歩いていく。あたしはその背を横目で見送ってから、さりげなく自分の手首を上げてにおいを嗅いだ。シャリエの実の香りが鼻腔を満たして、口元が緩む。気分がうきうきして、思わず歌い出したくなるくらい。


 あたしの気分をこんなにころころ変えちゃうんだから、シアってばすごいよね。


 そんなことを考えながら、手早く開店準備を終える。食堂の扉を開けて、外で待っているお客さんに挨拶して招き入れた。


 なんか開店を待っていた人の数が多いなあ。それも、常連さんではなく見慣れない顔がほとんどだ。


 その新顔のお客さんたちは、どやどやと食堂内に入ってくると、中をぐるっと見回してから、シアに目を留めた。その内の一人が、ぴゅうっと口笛を吹く。


「こーりゃ驚いた。噂に違わねえ別嬪だ」


「随分と飾りのついた噂だと思ったが、事実だったとはな」


「ああ。確かに娼館でも滅多に見れねえ美人じゃねえか」


 じろじろとシアを眺める男の人たちの不躾な視線に、あたしはちょっと顔をしかめたけど、シアは笑顔で応対した。


「いらっしゃいませ。お好きな席におかけください」


 テーブルに座った男の人たちに献立を伝えて、注文を取っていく。その合間に、どこから来たのかとか、クラディムに住むつもりなのかとか、今度一緒にお酒を飲みに出かけないかとかさえ訊かれているけど、それも笑顔であしらっている。


 ……このお客さんたち、もしかしなくてもシア目当てだよね。義姉さんの予想が当たったわけだ。

 噂になるだろうとは思ってたし、実際噂になってるのも昨日のティスタとのやりとりでわかってた。だからいずれはこんなお客さんも来るだろうとは思ってたけど……実際に来ると思ってたより嫌だなあ。すっごくもやもやする。


 あんまりシアにからまないでほしい。――シアはあたしのなんだから。


 ぽんっと浮かんだ考えに、あたしは一拍遅れて赤面した。


 や、やだ。あたしったら何考えてるの。シアは誰のものでもないでしょ。恋人だっていないはずだし。……いたら、あたしに教えてくれてるよね?


 何となく不安になって、シアの横顔をじいっと見つめてしまう。


「おーい、リューリア、注文いいかー」


 常連さんの呼びかけに、あたしははっと我に返って返事した。


「あ、はい! 今行きまーす」


 シアと話してるお客さんたちのことはなるべく気にしないようにして、自分の仕事をこなしていく。


 でも今日は他にもシア目当てのお客さんが多かった。いつもより大幅に客数が増えて、食堂は大混雑だ。朝はそんなことなかったのになあ。


 シア目当ての人が来て、シアがその相手をするたびに、気になってちらちら見てしまう。そしてもやもやする。その繰り返しで、精神的にも疲れる。

 ようやく最後のお客さんを送り出して店を閉めた時は、思わず安堵の息を吐いてしまった。


「ああ、疲れたわー。お客さん本当に多かったわね」


 義姉さんがテーブルに腰を下ろして息を吐く。


「うん……そうだね」


 あたしはちらっとシアを見た。


「ルチルさん効果ねー。お風呂屋でもルチルさんのこと訊かれたし、あっという間に噂が広まったみたいだもの」


 義姉さんは、あたしが言えずにためらったことをさらっと口にした。


「ルチルさん、大分声かけられてましたけど、嫌な思いしませんでした? あたしもなるべく気にしてはいたんですけど、全部把握できてたわけじゃありませんでしたから」


 義姉さんの言葉に、シアは微笑んで首を振った。


「いえ、大丈夫です。確かに色々訊かれたりはしましたけれど、しつこいお客さんはいませんでしたから」


「それなら良かったです」


 言って、さて、と義姉さんは立ち上がった。


「じゃああたしは洗い物にかかるから、掃除お願いね」


 あたしとシアは了解の返事をして、義姉さんは厨房に消えた。


「お客さんがたくさん来たのは、お店の売り上げから見ればいいことなんでしょうけれど、次々と来るものだから食器を片づけるのが間に合わなかったり注文を取るのが遅くなったりして、お客さんを結構待たせてしまったわね。それに、最後の方は料理が品切れになって、お客さんの注文を受けられないことが多かったから、ちょっと困ったわ」


「うん……」


「幸い、ほとんどのお客さんは理解してくれて苦情を言わなかったけれど、そうでないお客さんもいたし」


「そうだね……」


 あたしは上の空でシアの言葉に相槌を打ちながら、掃除を進めた。


 気になる……。聞くのは怖い気もするけど、でもやっぱり気になって気になって仕方がない。知りたい。


 食堂内の空気を入れ替えて、掃除が一段落ついたところで、あたしは思いきって口を開いた。


「ね、ねえ、シア」


「なあに?」


「シアってさ、えっと、その……こ、恋人、とかいる……?」


 何となくシアの顔を見られなくて、目をそらしてしまう。


「いないわよ」


 シアの返答に、あたしはぱっとシアの方を見た。


「ほ、ほんと?」


「本当よ」


「そうなんだ……」


 あたしは、なんかいきなり肩の力が抜けて、へらりと笑った。


「……ルリは?」


「へ?」


 シアは真面目な顔でまっすぐにこっちを見ている。


「ルリは恋人いるの?」


「あ、あたし!?」


 あたしは、思ってもみなかった質問に飛び上がった。


「いないいない、そんなの!」


「そうなの」


 シアはちょっと微笑んだ。


「じゃあ、これもおそろいね」


「そ、そうだね」


 こういうの、おそろいって言うのかなあ。でもまあ、シアがそう言いたいならいいか。シアとの共通点なら、何だって嬉しいし。


 思わず緩んでしまう口元を隠していると、ラピスがひょこっと食堂と宿屋をつなぐ入口から顔を出した。


「もう掃除終わったー?」


「終わったよ。なんか用?」


「うん!」


 ラピスは大きくうなずくと、シアに駆け寄った。


「なあ、ルチルさんもリューリア姉ちゃんと同じ魔術師なんだよな? じゃあ、俺に魔術教えてよ!」


 シアがぱちぱちと瞬く。


「わたしが?」


「そう! 俺一人で訓練してたけど、一人じゃやっぱりうまくできねーもん。ルチルさんに教えてほしい!」


 シアは困った顔になった。


「ごめんね。わたしはルリの……リューリアの手伝いがしたいから」


「ええー!」ラピスは盛大に不服の声を上げた。「ちょっとだけ! なあ、ちょっとだけならいいだろ? なあなあ、ルチルさん、おーねーがーいー!」


「こら、ラピス、ルチルさんにわがまま言わないの」


 厨房から出てきた義姉さんがラピスを叱る。ラピスはこりずに続けた。


「じゃあ、ルチルさんとリューリア姉ちゃんと二人で教えて! それならルチルさんもいいだろ?」


 シアが首を傾けて、あたしの方を見る。あたしはちょっと考えた。


「まあ、最近あんたの魔術の訓練見てあげられてなかったもんねえ。縫い物もそんなにないし、あたしたちの洗濯と、あんたの馬の世話が終わったら、ちょっと魔術の訓練しようか」


「やった!」


 ラピスが万歳する。義姉さんの後について厨房から出てきた兄さんが、ラピスに笑いかけた。


「それじゃ、今日は水くみに行く前に馬の世話からやるか。その方がラピスが早く魔術の訓練できるだろ」


「それいい! ありがと、父ちゃん!」


 ラピスが兄さんに抱きつく。兄さんは嬉しそうに頬を緩めて、ラピスの背をぽんぽんと叩いた。


「そのかわり、ルチルさんとの魔術の訓練が待ちきれないからって馬の世話に手え抜くんじゃないぞ。真面目にやらないとだめだからな。大事な仕事なんだから」


「わかってる!」


 ラピスは意気揚々と答えた。


 ちなみに話題に上っている馬っていうのは、うちで飼っている馬ではなく、泊まっているお客さんが連れてきた馬のことだ。世話をする代金を貰っているから、兄さんの言うとおり大事な仕事なんだよね。世話に手抜きなんかしたら、宿屋の評判に関わる。


 兄さんとラピスは厩に向かい、あたしとシア、義姉さんは洗濯に向かう。その道すがら、シアが義姉さんに話しかけた。


「さっきルリ……リューリアとも話してたんですけれど、今日のお昼はお客さんが多すぎて困ったこともありましたね」


「あー、そうなんですよね。それに関しては、夕飯の時にフュリドとお義父さんも交えて話すつもりです。詳しい話は、その時にしましょう」


「わかりました」


 シアはうなずいて話題を変えた。


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