第二章 シアの提案(1)
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「ご利用ありがとうございましたー。またのお越しをお待ちしておりまーす」
あたしは今朝最後の客を見送ると、食堂の扉の外側にかかっている札をくるりと裏返して、『営業中』から『準備中』にした。
食堂の中に戻ると、食堂内の掃除だ。うちの食堂は他の宿屋の食堂よりも広い。父さんの料理を目当てに行列ができるくらいだったので、建物を建て替えた際に広くしたんだそうだ。
正直、あたしと義姉さんの給仕二人だけで回すのはぎりぎりで、もう一人給仕がいてもいいってくらいの広さ。
というか、三ヶ月くらい前までは、もう一人給仕がいたんだよね。隔日で入ってもらっていたんだけど、もう年配の人だったんで、体を壊してやめてしまった。それで、後釜はまだ見つかっていない。
それはともかく、この広さの店は、普通だったら一人で掃除するのは大変だ。でもあたしは魔術師なので、そんなに苦労はない。
厨房の水瓶に入っている水を水魔法で操って、並んだテーブルの上をざーっと洗い流していく。水は床に落として、床も洗う。そして扉を開けて、水を汚れごと外に流してから、水だけ蒸発させる。扉の前の地面に残った汚れは地魔法で土を動かして土の中に埋めてしまう。そして地面をきれいに均して固く戻す。その後で、テーブルや椅子、床の水気を飛ばす。仕上げに、風魔法で食堂内の空気を入れ替えて、終わりだ。
厨房の中では、義姉さんが水魔法で汚れた食器や調理器具を洗っている。火属性で水魔法が使えない兄さんと父さんは、義姉さんが洗い終えた物を棚なんかにしまっている。特にいつもと変わりがないことを確認して、あたしは前掛けを外した。
うーん、と大きく伸びをして、椅子に座る。ちょっとだけ休憩。今日は宿屋から出ていくお客さんはいないはずだから、新しくお客さんが来ない限り、宿屋の方の手続きは必要ない。
そういうわけで急ぐ用事はないので、立ちっぱなしで疲れた足腰を休めていると、食堂と宿屋をつなぐ入口から、シアが顔を出した。
「お仕事、終わった?」
「シア! う、うん、今終わったとこ」
シアが朝食を食べに下りてきた時に朝の挨拶は交わしたけど、その時は忙しかったから、ちゃんと話をするのは、これが今日初めてになる。
「えっと、とにかく座って。今お茶淹れるから」
あたしは言って、早足で厨房に入った。危ないから、厨房には駆け込んじゃいけない。昨日のラピスみたいに、父さんに大目玉を食らってしまう。
お茶の準備をしながら、シアと何を話そうか考える。何か決まった話題があれば、もっとちゃんと喋れると思うんだよね。
シアの今日の予定を訊くのがいいだろうか。町に来たばっかりだし、観光したいかもしれない。
うちの町は観光地じゃないから特別な観光名所があるわけじゃないけど、交易路の途中にある町だから、珍しい物もそこそこ売っている。露店や店を見て回るだけでも楽しいんじゃないかな。
それに山も海も近いから、食材も香辛料も豊富だ。食べ歩きも楽しいだろう。そう勧めてみようか。
あ、そうそう、ゆうべのラピスの話もしておかなきゃ。
考えながら、ティーポットとコップを二つ持って食堂に戻る。テーブルに座って待っているシアの向かい側に座った。ティーポットからコップにお茶を注いで、シアに勧める。
「ゆうべだけど、ラピスのこと、ごめんね。シアの部屋で寝ちゃったんでしょう?」
夜の営業時間が終わった後で義姉さんがラピスの部屋をのぞきに行くといなくて、まさかと思ってシアの部屋に行ってみたら、そこで寝ていたそうだ。起こしても起きなかったからって、兄さんがラピスの部屋まで運んできた。
コップから唇を離したシアが、にこりと微笑む。
「気にしないで。わたし、子どもの相手は慣れているから、全然苦じゃなかったわ。ラピスくん、いい子だったし」
「そ、そっか。あ、そうだよね、シア、きょうだい多いもんね。五人きょうだいだったっけ?」
あたしの言葉に、シアの顔がちょっとだけ陰った。あれ、あたし何か変なこと言った? 戸惑っていると、シアはすぐに気を取り直したように笑った。
「ええ、そう。弟はラピスくんとそんなに変わらないから、家にいる時みたいでむしろくつろげたわ」
「それならいいんだけど。えっと、あ、それでさ、シアは今日どうするの? 何か予定あるの?」
予定ないとか観光したいとか返事が返ってきたら、お店巡りを勧めてみるんだ。おすすめのお店をいくつか頭に思い浮かべながら尋ねてみる。
「それなのだけれど……わたし、ルリの仕事をお手伝いできないかしら」
「……へ?」
思いもよらない言葉が返ってきて、ぽかんとしてしまった。シアはまっすぐにこちらを見つめてきて、あたしは思わず目をそらしてしまう。
「わたし、もっとルリと過ごしたいの。でも仕事の邪魔はしたくないから……。わたしがルリの仕事を手伝えば、邪魔にならずに一緒にいられるでしょう? それに、ルリの日常生活がどんな風なのかも実際に見てみたいし」
付け加えられた言葉に、そういえば、と思い出す。シアはずっと山里暮らしで、旅をすることはあっても、町に住んだことはない。それで町の暮らしに憧れる、って前手紙に書いていたっけ。
町の普通の暮らしを体験してみたい、って気持ちもあるのかな。なら、そうさせてあげたい。
「シアがそうしたいなら、あたしは別に構わないけど……本当にいいの? そんなに面白いことはないよ?」
シアに視線を戻して訊くと、シアは嬉しそうに笑った。
「ルリと過ごせるなら、それだけで楽しいわ」
頬がさっと熱くなる。こんなの殺し文句だよ。心臓の鼓動がどんどん速くなる。シアと一緒にいると心臓に悪い。それでも一緒にいたいんだけど。
「じゃ、じゃあぜひ手伝ってほしい。あたしも……シアと一緒に過ごせるのは嬉しいし」
あたしはうつむきがちになりながら、何とか言った。シアが笑みを深めた気配がして、顔が一層火照る。
「リューリア、こっちは終わったわよ。お風呂屋さんに行きましょう」
そこでちょうど、義姉さんが厨房から出てきた。あたしはぐいっとお茶を飲み干して立ち上がった。
うちの家族は、夜は遅くまで食堂で働いてるから、基本的にお風呂は朝の営業時間の後に行く。
「はーい。あ、シアも一緒に行かない? 昨日はラピスの面倒見ててくれたから、お風呂入ってないでしょ? お風呂屋の場所案内するついでに」
「昨晩はセイーリンさんに許可を貰って庭の水瓶の水を使わせてもらったから、一応汚れは落とせたけれど、でも、そうね、やっぱりお風呂に入りたいわ。一緒させてちょうだい」
ティーポットとコップを厨房に持っていった後、それぞれの部屋に戻ってお風呂用の道具一式を持ってくる。
最近は日差しが厳しくなってきてるから、住居部分の居間に置いてある外套・帽子掛け――この季節は外套は納戸にしまってあるから、今はただの帽子掛けだけど――にかけてある帽子も忘れずにかぶる。
ラピスも義姉さんに連れられてきた。兄さんと父さんは、あたしたちが帰ってきてから、交代で向かうことになっている。宿屋のお客さんに対応するために、誰かが常に留守番してないといけないからね。
ラピスがシアに駆け寄る。
「ルチルさんも一緒にお風呂屋行くんだろ? お風呂屋はな、すごいんだぜ! 広くて、大きくて、人がいっぱいいるんだぞ!」
「こら、ラピス、まずは朝の挨拶とゆうべのお詫びでしょ」
「ちぇー、母ちゃんはうるさいんだからなあ」
文句を言うラピスを義姉さんが小突く。ラピスは唇を尖らせたけど、おとなしく姿勢を正した。
「ルチルさん、おはよう。えーと、ゆうべはルチルさんの部屋で寝ちゃってごめんなさい」
「ふふ、おはよう、ラピスくん。ゆうべのことは気にしないで。ラピスくんとお喋りできて楽しかったから」
ラピスは、えへへ、と笑った。
「俺も楽しかった! またお喋りに行ってもいい?」
「もちろん。いつでも歓迎するわ」
「ラピス、あんたルチルさんの優しさに甘えるのも程々にしなさいよね。あんまりご迷惑かけないのよ」
義姉さんが、呆れたような口調で言った。
「迷惑なんかかけてないよ! 俺、いい子にしてるもん!」
「ええ、ラピスくんはいい子ですよ」
シアがにこにこと言い添える。
「それならまあ、いいんですけどねえ。昨日も言ったけど、嫌になったら遠慮なくそう言ってくださいね。ご迷惑かけるようなら、小突いてやってくださっても構わないし」
「ふふ、憶えておきます」
話しながら、家の敷地を出て風呂屋に向かう。道中で、義姉さんに、シアがあたしの仕事を手伝ってくれる話をした。
「そうなの? なんか悪いですね。お客さんに仕事手伝ってもらうなんて」
「気にしないでください。わたしがやりたくてやるんですから」
「そうですか? じゃあ、お願いしますね。――そういえば、ルチルさんは何属性ですか?」
「水属性です。でもわたしは魔術師なので、どの属性の魔法でも使えますよ」
ほとんどの人は生まれつき魔法が使えるけど、それは自分の属性の魔法だけだ。でも何年も訓練を積むと全ての属性の魔法が使えるようになる。そういう人を魔術師と呼ぶ。
「そういえば、ルチルさんの里では全員が魔術師なんですって? すごいですよねー。小さい頃からずっと訓練したんでしょう? 大変じゃありませんでした?」
「ええ、そうですね。子どもの頃から毎日のように訓練でした。でも、わたしにとってはそれが普通なので、大変だと思ったことはありません」
「リューリアもそんなこと言ってたわね。やっぱり環境って大事なんですねえ。うちのラピスも魔術の訓練してるんだけど、物になるのかしら」
義姉さんの言葉に、ラピスがふくれっ面をした。
「俺がんばってるもん! ちゃんと真面目に訓練してるだろ!」
「はいはい、わかってるわよ。立派な魔術師になれるよう、応援してるし期待もしてるわよ」
義姉さんの言葉に、ラピスは満足そうな顔になった。
お風呂屋に着くと、代金を払って脱衣所に入る。ラピスはまだ小さいから、全員で女湯だ。
服を脱いで、浴場に入る。歩きながら何となくシアの方を見ると、白い裸体が目に入って、ドキッとした。ばっと目をそらしてしまう。心臓が駆け足を始める。
ううう、しまった。シアをお風呂屋に誘ったのって失敗だったかも。ただでさえシアと話すの緊張するのに、お互い裸なんて、何だかすっごく恥ずかしくて、シアの方全然見れないよ……。
「あ、こら、ラピス走らないのよ。転ぶでしょ」
「走ってないよ。速足だもーん」
「まったく屁理屈言ってから、この子は」
あたしの動揺に気づいてない義姉さんとラピスが普通に会話してくれているのが救いだ。
「ほら、座って。ちゃんと体隅々まで洗うのよ。でないと、あたしが洗うからね」
「俺もう自分でできるし!」
あたしは二人のお喋りを聞きながら、黙々と体と髪を洗った。シアも、特に喋りかけてはこない。それがありがたい。
体と髪を洗い終えると、ラピスは立ち上がって、同年代の子たちが湯に浸かっている場所に足を向けた。
「俺もうあっち行くな。いいだろ?」
「いいわよ。のぼせないようにね」
ラピスを見送ってから、義姉さんはあたしとシアを見た。
「あたしたちもお湯に浸かりましょうか」
義姉さんに促されるまま、お湯に入る。肩が触れそうな位置にシアが座っていて、心臓がまたばくばくし出す。
「ルチルさん、ここの浴場広いでしょう? この風呂屋の浴場は、ここら一帯じゃ一番広いって評判なんですよ」
「確かに、これまで行ったお風呂屋の中でも広い方です」
「ルチルさんは、家の用事であちこち旅してるんですよね? そういうのってちょっと憧れるわ」
「そうですね。色々なものが見られるのは楽しいです。セイーリンさんは、クラディムのご出身ですか?」
「ええ。あたしの実家はこの町で肉屋をやってるんです。〈フェイの宿屋〉はお得意先の一つで、フュリドとも小さい頃からのつきあいで」
「年頃になると幼なじみから恋仲になって、結婚したんだよね」
あたしは、義姉さんの方を見ながら、口を挟んだ。シアの方は見れないけど、お喋りには加わりたい。
「そうよ。父親どうしがよく知った仲だから、親戚になってもうまくやっていけるだろうって、うちの両親もお義父さんも諸手を挙げて祝福してくれました」
「でも、義姉さんのおばあさんだけは、水属性と火属性じゃ相性が悪い、うまく行かない、って反対したんだって」
シアの方にちょっと顔を向けて、でもシアの顔や体は見ないようにしながら言うと、シアが小首を傾げる気配がした。
「そういうものなの? 初めて聞いたわ」
「ルチルさんの里では言いません? この辺りじゃたまにその手のこと言う人もいるんですよ。ま、迷信ですけどね」
義姉さんが、ふんと鼻を鳴らす。
「年寄りは迷信深いから。でも、うちの祖母も今じゃそんなこと言わなくなりましたけどね。あたしとフュリドは問題なくやれてるし」
「問題なく、どころか、かなり良好に、でしょ? 義姉さんと兄さんってば、しょっちゅういちゃいちゃしてるんだから。シ、シアも、数日一緒にいればわかるよ」
今度は一瞬だけ、シアの顔を見て言った。あたし、がんばってる。すっごくがんばってる。
「そんなにいちゃいちゃはしていないわよ。あれくらい、夫婦なら普通でしょ」
「ええー、そうかなあ。普通より大分仲良いと思うけど」
からかうように言うと、義姉さんが軽く腕を叩いてきた。
「ちょっと、やめてよ、もう」
「夫婦仲がいいのはいいことですね」
シアが笑みを含んだ声で言った。
「嫌だわ、ルチルさんまで。――あ、ほら、そろそろ上がりましょ。あんまり長く浸かってるとのぼせちゃうわ」
義姉さんが、話をそらして立ち上がった。あたしは、くすくす笑いながら後に続く。シアも後をついてくる。
子どもたちがお湯に浸かっている所に行って、ラピスを呼ぶ。
「えー、もう帰るのかよー」
ラピスは唇を尖らせたけど、ぐずったりはせずにおとなしく湯から出てきた。
「じゃー、またなー」
「うん、またなー、ラピス」
「また明日ー」
ラピスが友達と挨拶を交わしたら、脱衣所に行って水魔法で体から水分を飛ばして服を着る。身支度が終わったら、ようやく気分が落ち着いたので、えいっとシアの方を見てみる。
「お、お風呂屋さん、どうだった、シア?」
こっちも服を着終えているシアが、あたしの方を向いて微笑む。お風呂で温まったせいでその頬が薄く色づいていて、何だかすごく色っぽい。あ、やっぱり無理。まだ正面からシアを見るの無理。
あたしはばっと視線をそらして、手元を見た。お風呂用具一式をしまうのに忙しいふりをする。
「気持ち良かったわ。やっぱり、お風呂に入るとさっぱりするわね」
「う、うん、そうだね」
その後何と続ければいいかわからなくて黙ってしまう。シアともっとお喋りしたいのに、うまく行かないなあ……。
そこで義姉さんが、助けるみたいに――義姉さん本人にはそのつもりはないんだろうけど――声をかけてくれた。
「そろそろ行きましょう。フュリドとお義父さんが待ちくたびれてるでしょうし」
ほっとして、義姉さんについて歩き出す。
「ああ、また『女は風呂が長いなあ』って言われそうだよね」
「そうね。でも普通よね。きちんと体と髪洗って、お湯に浸かってたら、これくらい経っちゃうわよねえ」
「兄さんと父さんは、二人とも、お風呂短いみたいだから」
「そういえばそうよね。いっつもお風呂屋から帰ってくるのが速いわね。何であんなに速いのかしら。――ルチルさんのご家族はどうです? やっぱり男の人ってお風呂が速いものですか?」
「どうでしょう。そんなに変わらない気がします。うちで一番長風呂なのは父ですし」
「あら、そうなんですか。じゃあうちだけなのかしら」
そんな他愛もないことを喋りながら、家に帰り着く。
「相変わらずおまえたちは長いなあ、風呂」
兄さんが予想どおりの台詞を言ったので、あたしとシア、義姉さんは顔を見合わせて笑ってしまった。兄さんがきょとんとする。
「何だよ。俺、何か変なこと言ったか?」
「何でもないわよ。ほら、さっさとお風呂屋行ってきなさいよ」
義姉さんが兄さんの背を叩く。兄さんは、肩をすくめながら、父さんと連れ立って風呂屋に向かった。
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