まほろばの終わりに、聖女はふたつの夢をみる
日車メレ
第1章
プロローグ
『私は二つの未来を夢にみる。一つは愛するあなたが死ぬ夢。もう一つは――――』
夕闇の空を背景に、浮かび上がって見えるほど明かりが灯された王宮。クラリッサは馬車の中から光り輝く王宮を見つめて、大きくため息をつく。
「大丈夫かい? 私だけでもよかったのに」
彼女は昨日まで体調をくずして寝込んでいた。夫が心配するのも無理はない。
「大丈夫。知っているでしょう? 私はけっこう頑丈にできているから」
「そう? でもまだ少し顔色が悪い。……無理はしないで」
馬車の揺れがおさまり、
普通ならそのままステップを降りればいいのだが、彼女にはそんな簡単なことすら難しい。彼女の左足はあまり動かないのだ。
そのまま夫に身をあずけて、半分抱きかかえられるように馬車から降りる。
「奥様、杖を」
「いらないわ。どうせ入り口で没収されるのだから」
従者がクラリッサに細い杖を差し出すが、彼女はそれを受け取らない。
きらびやかな正装に杖というのはなんとも不格好だし、国王主催の
夫にしっかりと支えられ、クラリッサは王宮の階段をゆっくりと上がる。
「大丈夫? 抱えてあげようか?」
「そんなことはやめて! まわりからなんて言われるか」
クラリッサの優しい夫は、彼女が望めば周囲からどう思われようと、抱きかかえて長い階段を上がるのだろう。でも彼女はできるだけ周囲の人間につけいる隙をさらしたくなかった。
「ウェイバリー公と聖女様よ」
「あぁ、聖女様がいらっしゃるのはめずらしいな。……あまりこういった席にはお出にならないのかと思っていたが」
「ハハッ、どうせ陛下が公を
「まともに歩けない奥方をエスコートするなんて、公も大変ですわ」
これから宴が披かれる広間に入ると、隠すつもりのないクラリッサを貶める言葉が、あちらこちらから聞こえる。
彼女が険しい顔になると、夫が握る手の力を強め、彼女にほほえみかける。
「言わせておけばいい。君は笑っていて」
クラリッサも夫も、自分たちが周囲の人間からどう思われているのか、正しく理解している。わかっていて、それでも夫は「笑っていて」と願うのだ。
国王の登場を前に、諸侯たちが決められた順に並びだす。
クラリッサたちもそれにならい、指定の場所へ向かう。
ほかの貴族たちに反論すらできないというのに、夫婦の序列は参加者のなかでは上から三番目だ。
「これは聖女様、ご機嫌麗しゅう」
隣にいるのは夫の血縁で、人のよさそうな伯爵夫妻。ほかの者とは違い、見下すものではない笑みをクラリッサに向ける。
やがて、乾杯用の
金属でできたその盃には濃い赤い色の酒がつがれている。
「……あ、足が……っ……」
クラリッサがよろめいてそうつぶやくと、夫がすぐに彼女を支える。
「陛下がお出ましになるまで、少し時間がある。ぎりぎりまで座っていたほうがいいね」
すぐそばの壁際に置かれている椅子を見ながら、彼は妻を
「そうしたほうがいいでしょう。ウェイバリー公、それは私が預かります」
隣にいた伯爵がなにも持っていない左の手で夫の盃を預かる。クラリッサも伯爵夫人に盃を預けてから壁際に移動する。
「大丈夫? やっぱり無理をしないほうがよかったのに」
「でも、陛下のご命令が……」
今夜の宴には聖女を伴って出席せよという命令があったのだ。そうでなければ足の悪いクラリッサがわざわざこういった場所に出向くことはない。
無視すれば国王の機嫌を損ねてしまうから従っただけ。
少なくとも彼女の夫は、クラリッサが無理をして今夜の宴に出る理由をそう考えているはずだ。
「べつに、今さらだよ。どうせ名ばかりの地位なんだから、これ以上悪くなりようがないでしょう?」
「…………」
それでも、クラリッサは今夜の宴には必ず出なければならなかった。
「君はできるだけ私から離れないで」
もし一人になれば、長く立っていられないことを承知のうえで、ダンスに誘われるかもしれない。誘いを受けて無理に踊れば、下手くそだと笑われ、断っても礼儀を知らないと笑われる。夫が心配しているのはそういうことだ。
だが、今夜はそういう事態にはならないと彼女は知っていた。
しばらくクラリッサが休んでいると、王の
「立てる? そろそろ陛下がお出ましになるみたいだね」
「ええ、大丈夫」
夫にしっかりと手を引かれ、クラリッサたちは伯爵夫妻の隣に戻る。
伯爵が右手に持っていた盃を差し出す。クラリッサも夫人から盃を受け取って時を待つ。
(夢でみたとおり……)
広間が静まりかえり、ゆっくりとした足取りで国王が姿をみせる。その場にいた全員が
「おもてを上げよ!」
国王が諸侯に直接言葉をかけることは滅多にない。近侍の言葉で、皆が一斉に頭を上げる。
玉座に座る国王は、歪んだ瞳で自分たちを見ている。クラリッサには、そう思えた。
国王が豪華な盃を高くかかげ、乾杯をうながす。
それに従い、クラリッサも自分の盃に口をつける。
「あっ? ……ぐっ……がぁっ!!」
うめき声と一緒に、クラリッサの隣にいた人物が盃を落とし、カランという音が静まりかえった広間に響く。
「ぐ、ぐはぁっ!」
苦しそうに顔をゆがめ、真っ赤な酒と血を吐き出したのは伯爵だった。
「あなた? あなた!? どうなさいましたの!? 誰か、誰かっ!」
伯爵夫人が取り乱し、倒れた彼女の夫の前にしゃがみこむ。
「どういうことだ! なにゆえ伯爵が!!」
声の主は国王だった。ひどく取り乱した様子で高座から飛び降り、倒れた伯爵のもとにかけ寄る。
動揺する国王を近衛騎士と近侍が引きとめ、いったん退座させようとする。
クラリッサはその様子を間近で見ていた。悪くしている左の足だけではなく、健康なはずの右の足まで震え、額からは嫌な汗がふき出す。
「クラリッサ! こちらへ」
真っ青な顔をして震えるクラリッサを夫がしっかりと支え、その場から遠ざけようとする。
伯爵夫人と国王の叫び。当然、宴は中止となったが、会場の混乱はしばらく続くだろう。
クラリッサが
そうなることを彼女はすべて知っていた。
***
クラリッサは馬車の中で、夫に肩を抱かれながら自身のことをふり返る。
(私はいったい、どこから間違えてしまったの?)
クラリッサにはわかっていた。過ちは最初から。教養もなく倫理観も欠如した貧民街で育った彼女は、きっと正しい選択をしたことのほうが少ないのだ。
なにも知らない夫は、震えるクラリッサの肩を優しく撫でながら安心させようとほほえむ。
「クー、大丈夫だよ。僕が一緒にいるから」
夫はクラリッサが怯えている本当の理由を知らない。“クー”という二人きりの時だけしか使わない、彼女の本当の名で呼び安心させようとする。
それは、二人の関係が出会った頃と変わらないのだと示すための儀式だ。
遠ざかる、四本の塔と丸い屋根をもつ真っ白な王宮は、他の家々とは比べものにならないほど多くの明かりが灯されて、遠くからでもよく見える。
クーと呼ばれていたあの頃も、王都の隅っこから、闇夜に白く輝く王宮を毎日眺めていた。
名字もなく、クラリッサという名前でも、ましてや聖女でもなく、ただのクーであった頃。
彼女は優しい夫のぬくもりを感じながら、あの頃のことを思い出す。彼女にとってその作業は、自身の罪をひもとくこと。
いったい誰が彼女に夢をみせるのだろう。選べるはずのない未来をどうしてわざわざみせて、彼女に罪を重ねさせるのだろう。
幾度、過去をふり返っても、答えなど得られないのはわかっている。それでもクラリッサはすべてがはじまったあの頃の記憶を辿る。
『私は二つの未来を夢にみる。一つは愛するあなたが死ぬ夢。もう一つは、あなたの代わりに誰かが犠牲となる夢。――――私にゆるされていることは、そのどちらかを選ぶことだけ。あなたを守るため、私はもう一つの未来を選び続ける』
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