第54話

 あろうことかその男はサツキの大事な愛車を傷つけ始めた。

 どこから取り出したのか、きらりと光るナイフでタイヤを刺す。

 その行為に開いた口が塞がらない。何をしているのだ。

 少し刺しただけでは傷はつけられないが、何度も何度も執拗に刺される。恐らく穴が開いたのだろう、反対側のタイヤも同じように刺していく。


「クソ、あれだと使えない」

「このままこっそり引き返します?」

「近くに会社の所有地はない。歩いて行ける距離ではない」


 タクシーを拾うか仲間を呼ぶかで悩み、上に連絡をする。

 最悪なことに、上からはタクシーで帰るよう返信があった。運転手如きに無駄死にさせるかもしれない仲間を出したくないのだろう。相手はフリーの殺し屋一人だぞ。

だから人手不足が解消されないのだ。ホワイトだと新人に言ったが、こういうときはいつだってブラックだ。

 夜中にタクシーを使いたくはないが、車が使えないのだから仕方ない。

 公共交通機関は動いていないだろう。ここから離れて、タクシーを呼ぶ。それが最善だ。


「タクシーで帰るよ」

「あいつはいいんです?置いていくんですか」

「きっともう殺されている」

「…行きましょう」


 新人は悔いていた。車を降りたことを。

 あのまま乗っていたら、今頃はサツキがあの男を銃殺するか轢き殺してこの場を逃げることができただろうに。

 犯罪組織で働くということを思い知った。

 待機と言われれば待機なのだ。それは身を守るためにも必要なこと。

 自分の責任で車が使えなくなったことを申し訳なく思い、サツキに謝罪する。


「本当にすみません」

「後にして」


 足音をできるだけ立てないように歩き、新人はくしゃっと顔を歪める。


「下を向かないで。後悔先に立たず、よ。過ぎたことはいいからすぐに切り替えて」

「はい…」


 この重大さを分かっているのかいないのか、切り替えることなく不安そうな表情をしている。

 あのへらへらした態度はどこへ行ったのかと笑ってやりたいが、そんな暇はない。

 あの男がただの一般人で、悪戯目的で刺したということも考えられるがそれにしては手捌きが良かった。すぐに破れるようなタイヤではない。なんたって改良を重ねている。ただのナイフでぐさぐさ刺せば破れるような、安物ではない。あれを刺し破った人間を一般人とは呼べない。

 あれが目標であるフリーの殺し屋だろうか。

 早くこの場を去らねばならない。

 歩を早くし、けれど足音を立てないよう注意する。


 まだ離れた方がいい。まだ駄目だ。

 黙って足を動かす二人。

 サツキは前を向いて進んでいると、背中を突きさすような視線を感じた。

 見られている。


「後ろを向かず、走って。バレてる」


 新人に声をかけると、焦ったように走り始めた。

 男女の差は大きく、新人の速度にサツキは追いつけない。

 タクシーで帰ると伝えてあるので、一人でも先に帰れるだろう。

 逃げ足の速い新人が小さくなっていく。

 あいつ、陸上部だったのか。そう思う程の逃げ足だった。

 辺りが暗闇であるので、新人の姿形はすぐにサツキの視界から消えた。


 この視線は先程の男か。ならばやはり、フリーが一人いるだけか。


「クッソ」


 車移動が基本のサツキは体力がない。

 運動神経が飛びぬけて良いわけではない。次第に足取りが遅くなり、息もあがる。

 追いかけて来る音はしないが、どこからか狙撃されるのではないか。

 そう考えて、ふと気づく。

 視線を感じない。

 先程まであった人の視線がまったくしない。

 もしや、新人を先に追いかけたのか。

 サツキに体力がないと思い、遠くに逃げられる前に新人を始末しようと追いかけたのでは。

 走りながら視線を感知するのはなかなかに難しい。ただの運転手にそんな能力はない。

 もし、もしも新人の方へ行っているならば好都合だ。


 新人を始末し、フリーの男が戻ってくる前にここから離れたい。


「…よし」


 走ったといっても、サツキの逃げ足ではそれほど遠くまで来ていない。

 来た道を戻ることはしない。

 しかし、遠くへ逃げるという目的を放棄し、方向を変えた。


「大丈夫、大丈夫」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 焦るな、怯えるな。正常な判断ができなくなってしまう。

 マルクに銃口を向けられた時を思い出し、怯まないよう努める。

 ここで死ねば、貯金が無駄になる。国のものになってしまう。それか会社のものになってしまう。自分の金は自分で使いたい。何のために専属になり、何のために働いてきたのだ。すべては金のため。贅沢をするため。高級ブランドのあれこれを買うためだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る