第34話
大きな仕事になると言われてから五日、サツキは多忙な日を送っていた。まさに寝る暇もなく、マルクの送迎にラボの往復。目まぐるしく働くサツキは常に空腹と睡眠不足だった。腹を満たすためコンビニへ寄る時間すら惜しい。
へとへとになって高級マンションに戻り、パソコンを開いて頭に叩き込めていない情報たちと睨めっこをする。その間マルクは横で別のパソコンを開き仕事をしている。サツキより先に就寝するものの、睡眠不足は同じであるはずなのに、眠たそうな様子はない。どんな体をしているのだと、空腹と睡眠不足により苛立っているサツキは余計に苛立つ。
大きな仕事というのは、例の国内に侵入した集団についてだ。その集団のせいで、うちの取引先が一つ警察により潰れてしまった。主な取引先ではなかったためうちへの打撃は少なかったが、目障りな集団を積極的に排除する方針になった。
その集団を葬るため、準備の段階であるがサツキは白旗を上げたいくらいに疲弊していた。
まだ五日しか経っていないというのにこの疲労。過労死が目の前に迫っている。
「マルクさん、三途の川が見えます」
クッションの上に座り、テーブルに置いてあるパソコンではなく天井を見ながらマルクに話しかけた。
「祖母が川の向こう側で手招きしています」
「知るか」
「私はこうやって死ぬまで働くんですね。労働の搾取はよくないと思います。過労死します」
「今日はよく喋るな」
「過労を通り越してなんだか気分が良くなってきました」
「良い傾向だな」
「何を言っているんですか、悪い傾向ですよ。私がこのまま死んでもいいんですか?」
最早自分でも何を言っているか分かっていないが、口が勝手に開いて喋る。
画面から視線を外し、サツキを見ると宙を凝視していた。忙しいといってもまだ一週間も経っていない。今からこの調子では先が思いやられる。
休息も大切だが、多忙に体がついてこないのは看過できない。慣れてもらわなければ困る。
しかし、壊れてもらっても困る。マルクはサツキを気に入っている。常に隣に置いてもいいと思っているくらいだ。
もっとタフさを身に付けてほしいものだが、すぐには無理か。
「はぁ、うるせえな。寝ろ」
「まだこんなに仕事が残っているのに、寝られるわけないじゃないですか」
「いいから寝ろ。俺の言うことが聞けねえのか」
「でも、まだこんなに」
「聞こえなかったのか?」
「…分かりました」
寝ろ、と言われたので従うべく寝室に向かい、ベッドに体を沈めると一分もしないうちに眠りについた。
マルクはケータイを片手に持ち、サツキ宛てに二日休めとのメールを送った。そしてもう一通は違う人間に送る。
甘やかすのは今回だけだ。
もし、次もすぐに根を上げることがあればその時は専属の交代を視野に入れなければならない。ついてこられないのならば、置いていくしかない。背中を支えてあげなければならない程の貧弱は、不要だ。
マルクはケータイを取り出して、電話を一本かけた後、サツキのいる寝室へ入る。すやすやと眠るサツキの眉間にはしわが寄っている。そのしわを人差し指で強く押した。
「呑気なもんだな、クソ女」
マルクの専属になるとは、こういうことだ。忙殺されるのは当たり前、詳細な情報の記憶は必須、犬らしくあちこち駆けまわる。
「早く慣れろ。そして今以上に使える人間になれ」
催眠をかけるように、寝ているサツキの耳元で囁く。
傍にある顔を瞬きせずにじっと眺める。仕事柄、暗闇は慣れているので明かりのない部屋でもはっきりとサツキの顔が見える。
顔立ちは悪くない。美人ではなく平凡な顔。共に暮らすようになって気づいたが、普段はカラーコンタクトをしている。視力は悪くないようだが、三白眼が気になるようでカラーコンタクトを装着することにより黒目を大きく見せていると語っていた。
その三白眼は今、瞼で閉じられている。
実はその眼が好きだとは伝えていない。
晒されていない眼球を瞼の上からなぞり、壊れ物を扱うようにそっと瞼を指で捲ると眼球が顔を出した。
「いいよなぁ、これ」
眼球を触りたくなる衝動を抑え、瞼から手を離した。
何も気づかず眠り続けるサツキの頬を指でつんと突いた後、寝室から出るとそのまま玄関まで行き、扉を開けた。
フロントの前を通り、道路に出ると一台の車が待っていたので後部座席に乗り込んだ。
車は静かにマルクを乗せて夜の街へ消えた。
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